▼ 深海の鱶は目覚めぬ
全てに勝つ僕は全て正しい。
愛があれば何をしても赦される。
――僕は間違いなど犯さない。
深海の鱶は目覚めぬ
「征、十郎…?」
怯えたような瞳で僕のことを見つめる名前はそれはもうかわいくて。にっこりと笑みを浮かべると、名前は短く悲鳴をあげた。
なぜだろう、僕は今まさに正しいことをしようとしているはずなのに。
僕の手に持たれたハサミを凝視される。
ハサミじゃなくて僕を見てほしいんだけどな、と、ハサミに嫉妬した。
「どうしたの、名前。そんなに怖い顔をして」
「征十郎こそ、どうしたの…」
「どうしたの、って。名前をまた外に出すわけにはいかないから、ずっと地下にいてもらおうかと思って」
「…なんで……」
わけがわからない、とでも言いたそうな顔だが、僕の方こそ名前がなんでそんなに怯えたような顔をするのかわけがわからない。
僕と名前が愛し合っているならそれでいいじゃないか。他にはなにも要らない。
ジリジリと詰め寄る僕から距離を置こうとする名前は相当の照れ屋なのだろう。
その、目に涙を浮かべた表情を見ていると、幼い日のことが思い出される。
黒いクレヨンで塗り潰された真っ黒なキャンバス。あれは爽快だった。
「征十郎、おかしいよ…」
「なにが?名前は僕が間違っているとでも?」
「うん、征十郎は間違ってるよ」
「赤司っちは間違ってるっス」
名前の目があのときの黄瀬と被って見えて、思わず頬を叩いてしまった。しかし、今回は前回と違って、追い出すような真似はしない。
真っ直ぐ僕を見つめる名前が僕は欲しかったはずなのに、今の名前はただ僕を不安にさせるばかりだ。
「ごめん、頭を冷やしてくる。これからは家事は僕が全部やるから、名前はずっとそこにいて」
「う、ん…」
そのか細い返事でさえ僕を苛立たせる。
あんなに欲しかったものなのに、どうしたのだろう。
僕の愛はこんなものではなかったはずだ。
名前の瞳が鈍く光ったことに気づかないふりをして、僕は扉を閉めた。
20120902
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