▼ 直線への懐疑
流れていく真っ赤な血を僕はただ虚ろな目で見つめていた。
すべてに勝つ僕はすべて正しい。
正しい僕から名前が離れることはない。
きっとすぐに戻ってくる。
だって、名前の居場所はここしかない。
直線への懐疑
結局名前が戻ってくることはなかった。電話をかけても留守番電話に繋がるばかり。嫌な予感ばかりが頭を占めたが、なにも出来なかった。「来ないで」あの言葉の意味は今もわからず、ただ焦燥に駆られる。
ヒリヒリと疼く左手首をどうにか隠そうと、僕はとりあえずリストバンドをつけた。異端者の烙印でも捺されたかのような気分だ。世界から取り残されたような孤独感に陥る。
今までは名前がいたから決して一人ではなかったのに。
「…来てない、か」
万が一のことも考えて学校に行って名前のクラスを覗いたが、やっぱりいなかった。一体どこへ行ったのだろう、と考えて、ふと考えついたのは黄瀬のこと。
(まさか、それはないだろう)
第一、最近の黄瀬は灰崎とのこともあり、女嫌いの節があった。隣の席だから話すことはまだあるとして、不必要に関わることはしないだろう。
「赤ちん、苛々してるー」
「…大事なものをなくしたんだ」
「どんくらい大事なのー?」
「……他と比べられないくらいに大事だよ。それがあればなにも要らないくらい」
「俺たちも要らない?」
「………」
要らないよ。
名前が完全に僕のものになるなら、もう何も要らないんだ。
それを悟ったのか、紫原は少しむっとして口を尖らせる。全く可愛くない。
ああ、恋しいよ名前、名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前名前!愛してる!愛してるから早く戻っておいで!
…あれ?僕はなんで名前を愛してるんだ?
気づいたときから執着していた。ずっと傍に置いておいた。素直な名前は何一つ文句は言わず、僕の嫌がることは極力避けていた。それがとても嬉しくて、もっと傍に置きたくなった。
従順で純粋で無知で無垢。
それが名前だった。
「征十郎はわたしのことが好き?」
「なんだ、藪から棒に。昨日見たドラマにでも影響されたのか?」
「う、ううん!やっぱりなんでもない」
「…変な名前」
あれ?
「おはよう」
「お前はただ僕だけの命令をこなしていればいいんだ」
「寝癖がついているよ」
「ん」
「明日は秋刀魚がいいな」
「外の世界は危険がいっぱいだから、気を付けるんだよ」
「名前はお洒落なんかするな」
「ここはこうやって解くんだ」
「そうだな、一人は嫌いかな」
「僕がいるよ」
「…出ていってくれないか」
――バイバイ、征十郎。
そういえば、今まで一度も名前に好きと言ったことがなかったな。
20120816
prev / next