▼クロロ
「ねえ、お兄さん」
後ろからひょこっと覗きこみながら尋ねれば、お兄さんはまるで私が来ることなど最初からわかっていたみたいに穏やかに「どうしたの、お嬢さん」と言った。
お嬢さんなんて。私はもうそんな年齢などとうに過ぎてしまったのに、あまりに平然と呼び掛けるので、思わず口ごもってしまった。
「はは、馬鹿にしたわけじゃないんだよ。ごめんね。で、何の用かな?」
「お兄さんの絵を近くで見たかったから…。ほら、いつもここで絵を描いているでしょう?」
「うん。絵を売って暮らしてるんだ」
「人は描かないの?」
「恥ずかしながら、人物画は苦手なんだよ」
照れ臭さが混じった言葉とは裏腹に、ものすごく冷たい色をした瞳。そこに人間らしさというものを一ミリも認めることが出来なかった私は、お兄さんに少しの恐怖を感じた。
太陽が輝く初夏。夏が似合わない人。黒い髪をそのまま下ろしていて、虚ろな瞳にやけに色っぽい雰囲気。何となく薄暗い路地裏が似合うような気がした。彼が赤を散らせる姿はきっと絵になる。彼は絵を描く側ではなく描かれる側だ。
「お兄さん、本当は絵を描くの、そんなに好きじゃあないでしょう」
「……なんで、そう思う?」
「何となく。あなたが絵を描いているのと私が生きているのは似ているわ」
ぽつりと呟くと、お兄さんはお腹を抱えて笑いだした。回りにいた人たちは一瞬振り返るが、また何事もなかったかのように通りすぎていった。
「…っは、ははは!君にとって生きることは暇潰しってこと?良いね、最高。たまには昼下がりにコーヒーブレイクではなく絵を描いてみるのも悪くないみたいだ」
「暇潰しでこんなに素敵な絵を描いてしまうなんて、画家が泣いてしまうわ」
「お世辞が上手だね。でも、ありがたく受け取っておくよ」
キャンパスに色を散らしながら笑うお兄さんにはもう、さっきまで感じていた恐怖はなかった。
「良かったらこれあげるよ。俺にはもう必要ないしね」
「え…?」
「君のお陰で気付けたよ。俺は自分で作品を創るよりも、出来た作品を奪う方が向いているみたいだ」
「面白いことを言うね、お兄さん」
「別に、信じなくてもいいよ」
「信じるわ。だってお兄さん、盗むの上手だもの。私の心だってそうだわ」
「ずいぶんとませた子だね」
「そんなことないわ。ねえ、お兄さん。またここに来る?」
「さあね」
20120606
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