※南沢さんがひどいかもしれない もうずうっとまえに、心臓へ直接彫られた虚無感はサッカーを辞めてからますます深さを増し、最近では帰りの歩幅すら義務的なもののように無機質だった。この爪先の先に、ツートンカラーのボールがあった感覚が消えない。 割りきれると思い、現在より将来を選んだ。それだけの、単純な損得勘定を過ったとは思わない が でも。 「…監督と、松風か、あれ」 痩せたなあ、あいつ と監督の腕にまっさらな顔色で気を失った身体を預ける後輩をみて思った。保健室に向かっているのか、せわしなく通り過ぎた苦い未練の塊のようなひとはこちらに気づきもせず校舎の中に消えた。ひとつ、ふたつ、呼吸の平凡さを確かめる。大丈夫だ、俺は、変わらない。再び踏み出す義務的な歩幅は十を数えたというのに稼げない距離が不快で眉を寄せた。 口の中が苦い、気に入らない。 振り払うような舌打ちと共に反した踵は、理解しかねる感情に弾かれ日常を蹴る。爪先に纏わりつく空気の熱さはボールを蹴る感覚とよく にていた。 ぺたりとわざとらしく鳴らした足音に、保健室の扉を閉めた監督はわずかに目を丸くしてから揺るぎない歩幅でこちらに寄ってくる。 「天馬に用か?」 ぜんぶぜんぶ見透かしたような眼差しが煩わしい。かつて液晶越しに眺めた憧憬は近すぎるほどに心臓を暴いて、不快感だけが貼り付く。 「関係ないでしょう」 「それは…そうだけどな」 すうと褪せる感情が冷ややかに放つ言葉にすら臆すことはなく、これ以上話しても苛立ちが増すだけと見切りをつけたすれ違いざま、頭上へ迫ってきた掌をするりと避けようとしたら頼むな、と、絞り出すような言葉が落ちてきたために避け損ねた。 意図をはかりかね睥倪した背中はためらいもせず角に消え、もやつく心中のままに扉に手を掛ける。 「…ちわ」 「あら、どうしました?」 保健室特有の薬品くささと妙齢の保険医が迎えるここに来るのはずいぶん久しぶりな気がする。心地よく冷えた室内に足を踏み入れ、後輩の見舞いなんですけど、と告げたら複雑そうに眉を寄せた。 「後輩って、松風さんよね?あの子だいぶ無茶してたみたいで、疲労に貧血とか、いろいろ重なってて…今は、そっと寝かせてあげたいんだけど…」 「起こすつもりはないです。様子みるだけなんで」 「そう…?なら、少しだけ見ててくれる?先生、職員室に行かなきゃいけなくて…すぐ戻ってくるから」 「いいですよ」 優等生で通っている自分になら、と思い託したのだろう。ぺらぺらと症状を喋ってくれたことといい、そこに深い意図はないようだ。 「一番端のベッドに寝てるわ。静かにね、お願いね」 柔和な笑みを残し出ていったのを確認すると、厚いカーテンが遮る窓際へ向かい、勢いよく簡素な隔離空間を壊した。背を向け横を向いて寝ており、掛けられた布団から覗いた肩がびくりと跳ねたがそれでも松風は振り返らず、枕に押し付けた顔は上がらない。広がり滲んだ涙の跡には唾液が重なり、ひどい泣き方をしていることが見てとれるというのに。 「おまえ、バカだろう」 うえ、とえづく音が微かに漏れるが冷房にすら負けて消える。端から見れば最低な絵面だが生憎、ここには俺と松風とふたりだけだ。それが、じわじわ蓄積されていたいらだちと混乱に押し出され容赦なく滑る言葉に拍車を掛ける。 「どうせ自分の限界も省みずに無茶やって倒れたんだろう?やめとけよ。才能とか努力とかいう次元じゃない。おまえは」 「わっ、わがっで…ますっ!!」 唾液が絡んで濁った声が少し浮いた唇からぬらぬら光る枕の布地に吸われた。べちゃりと嫌な音を立て再び枕に沈んだ松風の肩は大きく上下して隠すことを諦めたように嗚咽をひっきりなしに紡ぐ。 その様子に図星かよ、と妙な安堵と共に我に返ると、なるべく平然を装いベッドの端に腰を下ろし張り出した背骨に手を掛けゆうるりと上下させる。 「つらいんだろ」 むくりもたげる欲。処理し損ねたサッカーへの未練だとか、正体のわからない松風への苛立ちを呈す感情の片付け方を冷めた脳は理解していた。 「どんだけ努力しても、女ってだけで届かない。他の奴らはおまえの半分もない努力で軽々おまえを置いていく のが、辛いんだろう?苦しい んだろう?」 ひとつひとつの言葉に対す動揺が触れた掌からまざまざと伝わってくる。十年もの月日をかけて松風の心に癒着した『サッカー』を誰でもない、こいつの起こす革命に耐え兼ねて辞めた俺の指が剥いでいくのがたまらなかった。 「でも、あいつらは先に行くぜ?勝つために、お前がなんとなるさ って押した背中でさ、お前を置いて行くんだよ。かあいそうになあ、おまえ」 じわじわ思考の逃げ道を埋める。決め手はわかっていた。人間最後に働くのは自己防衛という本能だ。俺のように。 「…サッカー、好きなうちにやめとけよ」 身を乗りだし耳朶に吹き込んだ 呪いか薬か、或いは自己満足か。どれでもよかった。ひゅうと鳴った喉を見計らったように戻って来た保険医のひどく驚いた表情すら愉快でたまらなくて、つり上がる口端の隠し場すら忘れる。 「すみません、なんか泣いてたんで宥めてたんですけど俺がいたら気まずそうなんで、失礼します」 状況を把握され面倒なことを喚かれる前に立ち上がり捲し立て保健室の敷居を踏んだ。 嘘はない。すべて真実だ。松風が必死で逃げ、神童や監督が私情にかまけて飲み込んでいたのであろう事実をすこし辛辣に告げただけで。それだけで、俺は松風にとって特別じみた存在になった。きっと忘れられない。俺が松風を忘れられなかったように、サッカーが視界をちらつくたびに真っ先に思い出すのは監督でも神童でもない、真実を吐いた俺のほうだ。 「かあいそうに なあ」 だれがって、なあ、愚問だろう? (殺心者はみな言うのです、私を忘れないでと) |