弾む心が幸せな気持ちを呼んでいる。ふわふわと軽い足取りでたどり着いた今日から俺のアルバイト先になるお店、パティスリーライモン。相変わらずの人気できゅうきゅうしている店内になんだか誇らしくなりながら昨日教えてもらった裏口にまわって材料なんかを置いている保管庫を抜けた先の厨房に顔を出した。

「こんにちはー!」
「お、来たな新入り」

 がらがらと扉のレールを鳴らしたことで注目されながら、これだけは負けないって自信のある挨拶を響かせた俺に、オーブンの前で腰に手をあてていた人…昨日紹介してもらった、焼き場責任の三国さんが奥でショートケーキのデコレーションをしていた神童さんを呼んでくれたけど作業に集中しているらしく、聞こえてます、と背中を向けたまま落ちついた声で返された。

「悪いがいま手が離せない。…まず昨日教えたロッカールームで着替えて来てくれ、制服は置いてる」
「はい、わかりました!」

 確かにどの人も自分の仕事に忙しそうだ。俺は失礼します、と頭を下げて休憩室に向かう。裏口から入ってすぐ左側にある階段をのぼると少なくとも俺の自室よりは豪華に設えられた休憩室がある。テレビとか専門書とか、奥には目前の壁に「寝たら負けだ!」って貼られたマッサージチェアなんかも置いていて…暖房も効いてるし、昨日霧野先輩に聞いたら神童さんが逐一従業員の意見を聞いて環境を整えているらしい。そこからまた繋がるふたつの扉はそれぞれ仮眠室とロッカーに繋がっていて…そういえば南沢さん、昨日はいまくらいの時間に仮眠に入ってたっけ、なんていう微かな期待と共に仮眠室の扉を開いてみたけど暗い中にぼうと浮かぶ綺麗に整えられたベッド(これも俺のより遥かに豪華だ)があるだけで、ほうと落胆と安堵をはいた。

「…って、そうだ、早く着替えないと!」

 私情にだけかまけてしまったことに反省をしつつ、ロッカールームで綺麗に畳まれていた制服に着替える。昨日の霧野先輩の格好を思い浮かべながらオレンジの帽子まで被って壁際の全身鏡に映ってみたけれどなんか違和感。素材が違うから、とか言われちゃったらへこむけど、どこか締まらない印象を覚えた。

「サロン」
「ひょわぁあっ!!」

 いつの間に入って来たのか。むむうと鏡とのにらめっこに没頭していた俺の真横に心ではずっと探していた南沢さんが立っていて、不意をつかれた俺の悲鳴に顔をしかめていた。

「あっ、すみませ、つい…」
「別に。声掛けたのこっちだからな…それより」

 慌てて頭を下げようとした俺に大げさだろ、って苦笑してから整えられた指先を俺のへそ辺りに向ける。

「サロン。前でちょうちょ結びにするやつ久しぶりに見たな」

 もしかしてこの、紐が長すぎて苦戦したエプロンみたいなやつのこと、かな。結局一周まわして前でそれらしく結んでみたんだけどやっぱり違ってたんだこれ恥ずかしい…!

「あの、これどうすれば…」
「巻いてから反対巻きつけとけばいんだよ」
「え、ええっ?こうですか?」

 ニュアンスはわかるけれど頭に映像化出来ないアドバイスと共に直してみるけれど、結び終わるまでいかない。その様子をどこか楽しげに眺めていた南沢さんだったけど、3回目のチャレンジに失敗したあたりで貸してみろってさらりと言った。

「いっ、いいです、頑張ります!」
「…下で神童待たせてんだろ。あいつ時間にうるせえけど…初日にクビになりたいか?」
「お願いします、南沢さん!」

 それはだけ困る、とても困る。すがるような気持ちで紐の端っこを差し出すと、ぱちくりと特徴的な目で瞬いてから堪えようとして失敗したみたいに噴き出して笑いはじめた。

「おま、ちょ、素直すぎ…はは…!」
「だっ、だって南沢さんが早くしないとって…!」
「だからって…ふ、はあ…とりあえず貸せ…っふはは」

 どうやらツボに入ったらしくて紐の両端を掴んで何度か結び終えかけてはほどける、またほどけるを繰り返してくれて、ますます時間は積もるばかりでさすがに焦りも増すけど、親切にしてくれている憧れの人相手になんにも言えなくて、ようやく衝動が収まったらしい南沢さんがふうと息を吐いたのには心から安心する。

「ああ、悪い…というかこれ他人のは結びにくいんだよな。おまえ鏡むけ?」
「鏡、ですか?」

 もうこの南沢さんと二人きりで、しかもこんな、無邪気にわらうところを見せられてドキドキしっぱなしの心臓から逃げたくて横の方が結びにくくないのかなって疑問によく向き合わずに素直に鏡を見た。

「動くなよ」
「はっ…え?は…ぎゃあああっ!」
「ひでぇ声」

 するり と自然すぎる動きで俺の後ろに立った南沢さんが耳元でくつくつと笑ってる。話の流れだけはその通りに紐の端っこを掴んで慣れた手つきでなるほど確かに巻いてから反対を巻きつけて結んでくれ…たけどにしては密着度がひどいよ絶対…!

「ほら、完成。けっこう様になってるな」
「あっ、りがとうございます…」

 とてもじゃないけど鏡なんか見れない、から綺麗な結び目に視線を落としたままでお礼を言うとどういたしましてと笑いすぎたのかすこし掠れた声が降って来てから背中に風が通る。

「そそそういえば、今日おやすみかと思ってました。厨房にいなかったんで!」

 俺にとっては羞恥しかない空間を誤魔化すために少し距離を置いてから思いっきり裏返った声で訊ねると、南沢さんはああ、と視線を上に投げて指通りよさそうな前髪を掻きあげた。

「俺、店いるときは大抵ラボにこもってるから」
「ラボ、ですか?」
「温度とか湿度とかいろいろ調節されてるとこ」
「へえ…」

 じゃあ昨日外から見えるところにいた方が珍しかったのかな、とますます運命的にきらめく世界に昨日はなにをしていたのかを訊ねようとしたけれど、それはばたんと騒がしく開いた扉によって遮られる。

「うわっ、天馬が南沢さんの毒牙に…!?」
「あっ、浜野先輩おつかれさまです」
「…おまえ、いい加減敬意学んでこいよ。倉間と一緒に」

 現れたのは浜野先輩。霧野先輩と同じく俺のサークルの先輩で、まったく知らなかったけどここでバイトしてたらしい。…食べ物屋さん、とは聞いてたから勝手にお寿司屋さんかなと思っていて、昨日霧野先輩から聞いたときはびっくりしたんだけど。

「はいはいそのうちねー。っと、天馬!おまえが遅いから神童が呼んでこいーって。早く来ないと働く前からクビっちゅー最悪なことに…」
「うわあすみませんいきます!…あの、ありがとうございました!」
「…神童には俺が引き止めたって言っとけよ」

 久々に面白かったから、と付け加えられた気遣いに頭を下げロッカーから出て階段を降りる途中で、先輩は珍しいもん見ちゃったなってからから笑っていた。

「なにがですか?」
「南沢さんが新人と話すとこ。俺なんかサロン前でちょうちょ結びにしてたの鼻で笑われて終わりだったかんねー」

 霧野から吐くほどきつく締められて結ばれたけど、って懐かしそうに笑う浜野先輩が高らかに笑う声がどこか遠くて、いやまさか気のせいだよきっとそういう気分だっただけで、と勝手な言い訳を繰り返す。
 それからの俺が認識出来たことなんて、せいぜい神童さんから熱があるんじゃないかと心配されたことと、浜野先輩が楽しくなりそうとかわくわくしていたことだけだった。






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