はあああ。開いた自動ドアの先、照明の落ちた作戦室にがっくりと肩を落とした浜野が何を期待していたのかはわかっていた。上下関係という根本はあれど、早く部活をしたい、という気概から一番乗りがほとんどである女子部員の、後輩の、その姿を探したのだろう。

「うーん、やっぱ休みかあ」
「朝練来てねえんだ。当たり前だろ」
「ですよ…っう、わああああ!!」
「え、なになに!」

 電気をつけ絶叫した速水に、なぜかわくわくしている浜野、の横で咄嗟に働いたプライドで声はあげながったが確かに心臓を跳ね上がらせた俺の視線が交差したのは前方、モニターの隣。そこには項垂れた人影があり、長い髪を表情が見えないくらい重く滴らせていた。それは速水の悲鳴に反応したのか、ゆうるり緩慢な仕草で顔を、あげて

「なんだ、霧野じゃん」
「悪霊退散悪霊退散あくりょ…え、霧野くん?」
「だっ、だろうな。そう思ったぜ…」

 霧野だった。よく見ずとも長い髪はファンシーな桃色をしていたし、あげた顔は見慣れた女顔だった。

「あー……とりあえず速水と倉間殴るから来い」
「うわああすみませんんん」
「なんでだよ!俺はなんでだよ!」

 がしがしと不機嫌に頭を掻いた霧野は寝起きの据わった目をこちらに向ける。

「いま女みてえ、とかそれと似たようなこと思っただろう」
「おっ、思ってねえよ…!」
「はい確定。こっち来い」
「すげー、霧野わかんの?」
「わかりたくないけどな」

 俺を通じて苦々しく過去をにらむ霧野だったが、ここまであからさまな不機嫌ははじめて見る。DFとして相手のオフェンスを冷静に見極める力に長けた霧野は普段もどこか一歩引いた印象で、そう、絶対に神童の前に出ない感じの。

「ちゅーか、なんでここで寝てたん?」

 迫力に負けたか、ばか正直に寄って行きふるふると頭を捧げる速水の肩を掴み拳を固めていた霧野の核心をついたのは浜野だった。ああ、と両手から力を抜いた霧野から逃げ出した速水に最初から寄っていくなよと横目で思いながら、そこだよな、と返答を待つ。

「屋上で昼飯食ってたら雨に降られて…」
「まじかよ。浜野でも傘持ってくる天気だったじゃねえか」
「ちょ、なんかそれ失礼じゃね?」
「いつも持ってきてなくて俺の折り畳み借りパクするじゃないですか」
「おお、そうそう!今度取りに来てよ!」
「なっなんで…」
「お前らが俺に興味ないのはよくわかったおやすみ」

 真顔で腕を組み睡眠の体勢に入った霧野に浜野が慌てて続きを促す。肝心の結論にはまったく至っていないからだ。

「…で、かなり濡れたからこっちでシャワー借りたんだが、なんか暖まったら眠くなったから寝てた」
「え、霧野くん授業は?」
「サボったんだろ。お前んとこの担任うるさいんじゃねえ?」
「あー、まあな。家に電話してないといいけど」
「サボタージュかあ…一度はやりたいよなあ。こう、青春ー!て感じだし」
「だ、ダメですよお…て、神童くんは?一緒じゃなかったんですか?」

 あくびをかみ殺していた霧野の仕草が一瞬、止まる。おまえもか、と口ずさまれた眉根は苦しげに寄せられ、けれどそれも一瞬。

「あいつがいたらサボらしてくれないよ。まあ、そーいう日もあんの」

 立ち上がり背伸びをして、トイレ行ってくるわ、と言いながらすれ違う時にはじめて目許が腫れているように見えた。







 先ほどまで息みたいに軽率に吐いていた言葉が、こんなにも重く垂れ込めるとは知らなかった。虚ろ目の神童、とはかなり離れた位置に腰かけた霧野、その時点でだいぶ重かった空気を和らげたのは俯きがちに現れた女子制服の天馬で、突き落としたのも天馬だった。

「ありがとうございました」

 掠れた声で、泣きつかれた目許で、退部したこととそれだけを告げてそれきり頭をあげない。剣城が机を手酷く叩きつけて何も言わず出ていった以外は西園すら驚愕しきった表情で、ただ、霧野は静かに目を閉じていた。

「………ああ」

 長い、沈黙に言葉を投げたのは神童だった。春の頃、2軍の連中を引き止めなかったのと同じニュアンスで、引き止めたかった奴らを制す。

「……ありがとう」

 紙上の文字をなぞるような無機質さで告げたそれからは一切の感情が省かれており、背骨を氷水に浸されたような恐怖感が粟立った。
 それきりだ。誰も何も、監督すら腕組みを崩さずに。なんだそれ、いいのか、仕方がないのかよ、女だから?おまえらはそれで。

「ふざけるな」

 信じられないくらい容易くこぼれた刃。あがった顔は同じだった。お前のせいだと責め立てた過去と。

「いまさら、そんな」

 ようやくあきらめたサッカーだった。ようやく、向かい合うと決めたサッカーだった。お前が努力にまみれた指先で示した光へ、全力で駆け出したばかりじゃないか。

「全部、お前が吹っ掛けたことだろう」
「倉間」

 誰が名を呼んだか、わからないくらい頭に血が昇っていた。お前にとってのサッカーは、たかが一度倒れたくらいで諦めてしまえるものだったのか。そのサッカーに、俺らは夢を見たのか。

「逃げんじゃねえよ!!」

 ああ、ちがう。結局自分の在処を決めるのはすべからく自分のみだ。お前が指差した選択、選びとったのは間違いなく自分で、そんなのわかっていた。わかっているのに。

「おまえっぶぇ…!!」

 ぐっと唇を噛んだ天馬の哀苦を最後に机と、顔の間で息をする。平たい部分にしこたま打ち付けた額と鈍痛の広がる後頭部に理解できないことが多すぎて、何度も何度も睫毛で机上を掻く。

「そういやさっき殴ってなかったの思い出したわ、いま」
「おっ、まえは…空気読めねえのか!!」

 落ちてきた、悪びれる様子などひとつもない響き。当たり前のことを為したのだと言わんばかりのそれはいつもと寸分違わぬ落ち着きようで、ぎりりと睨み付けながら見上げた表情は涼やかだった。

「…悪かったな、無茶言ったのに」

 それでも少し鎮火した頭で柔い視線を辿ればぽかんとアホ面下げたままの後輩が、慌てて左右に首を振っている。言葉の経緯はわからなかったが、ただバツが悪くて目を逸らした。

「……もういいでしょう、監督。練習、はじめましょう」

 俺以上に状況が把握出来ず置いてけぼりになっていた部員の中ただひとり、微動だにしなかった神童が誰の目も見ずに切り出す。まるで俺の怒りも霧野の暴挙も茶番だと言いたげな平淡さで。

「俺たちは勝たなければいけない。辞めたやつにこれ以上構う時間はない」

 は、と、さすがに俺も霧野も、むしろ全員が目を丸くした。そうきたか、一拍おいて呟き唇を噛んだ霧野の隣をいつも通りの歩幅で通りすぎた神童の背には未練や後悔どころかなんの感情も見当たらない。ぞっとした。自分に正当性すら覚え横目で見た天馬は今までで一番に傷ついた目をしていて、心のどこか、安堵と悔しさがせめぎあう。

「…俺のために時間、取らせて…すみません。今まで本当にありがとう、ございました」

 すべてに耐えるように深く頭を下げた天馬の頭に、監督がおもむろに掌を置いた。何もいわない、それが答えだった。言い尽くせない労りも感謝もなにもかもを込めた感覚を残し、神童と同じ道をたどり部屋をあとにする。

 俺は、逃げるように間隔を置いてあとを追った。見たくないものが多すぎて、なにも言葉が見つからなくて、ただ無意識の歩幅を稼ぎ室内グラウンドへ向かった。いま異様にサッカーがしたい。がむしゃらにボールを追って、あいつが思い出させた楽しさでもって、あいつを忘れたかった。










(なんでサッカーまで諦めるんだ)




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -