「なんだそれ」

 灰色にくすむ曇天を背景に色鮮やかな玉子焼きを口に含もうとしていた後輩を不慮の事態で見つけてしまったとき、反射的に落ちた感想はそれだった。
 玉子焼きはぽろりと小さな箱の中に落ちて、大きく開けた口をつぐみ二度瞬いた瞳 を歪め、普通ならば怒って然るべきだろうに松風は、ですよねなんて苦くも笑う。

「あー…悪い。そういう意味じゃなくて、見慣れなくてさ」
「いえ、気にしないでください。これ自分でも違和感すごくて」

 箸を置き、頻りにスカートの裾を気にしている松風は今まで浜野が勧めても頑なに着てこなかった女子の制服に身を包んでいた。似合わないわけではない。大きめのリボンも膝小僧を覆うまで長めに設えたスカート丈もあどけない幼さにはむしろぴたりと嵌まる組み合わせだと思う。

「隣、いいか」
「あ、すみません、俺座ったままで。どうぞ」

 今にも泣き出しそうな空模様のせいか屋上には二人きりで、知らぬ間柄ではないのに離れて座るのもおかしいかと思い申し出たら相変わらず丁寧な反応が返ってきた。礼儀の出来た後輩だ、と腰を降ろすと先ほど弁当箱へダイブしていった玉子焼きをつまみ咀嚼を始める。
 購買のパンをかじりながら横目でまじまじと眺めてみると、平素は男のように振る舞ってはいるがやはりふとした瞬間の…例えば一口の小ささだとか咀嚼の丁寧さだとか、滲むものは年相応の女の子なんだと、女子の制服により際立たされたものを今更ながら感じた。

「…ええと、何かついてます?」
「いや?浜野あたりがはしゃぎそうだなと思って」

 最後の一口を嚥下し終えた松風と目が合う。誤魔化すつもりはなかったので素直に思っていたことを告げると、恐らく真意をわかっていない顔で目を丸くした。

「浜野先輩が…?あ、そういえば、この格好で葵と信助以外に会ったの霧野先輩がはじめてです」
「へえ。そりゃ、神童に感謝すべきなのかもな」

 もともと屋上に訪れたのは昼飯も食べずに窓の外に視線を投げる神童の気持ちを汲んでのことだった。松風が倒れたのが一昨日のことで、昨日は欠席。今朝も朝練には姿を見せなかったため、持て余した後悔と自責の行方を探しあぐねているのだろう。
 キャプテンに?と首を捻った松風には苦笑だけで返しておく。原因はまぎれもない、この後輩自身なのだから。

「そういえば、今日は一緒じゃないんですね」
「ん?別にいつもつるんでるわけじゃないさ。いて欲しかったんなら悪かったけど」
「いえ…」

 ふ、と陰った目許に違和感を覚えた。というか、俺がここに来た瞬間から松風は遠慮がちで気まずそうで、確かに今までの間柄といえば神童ないし信助を挟んだものが多く、二人きりというのも珍しかったが元来の性格を鑑みるとなにもない、とは言い難い対応だろう。というか、あったのだろう。かつての拒み方や今の反応から気まぐれで着れるほど女子の制服に抵抗がないとは思えないし朝練に来なかったことも、深く考えずともおかしい。

「なにか、あったのか」

 何時も神童が根負けするまっすぐな瞳が逸れる。追及すべきなのだろうか、正直迷ったがここで曖昧にするのなんて気持ち悪かった。たとえ踏み込んだことで傷つこうと傷つけようと。

「学校にいて、朝練に来なかったのにお前が誰にも一言もないはずがないし、こないだ倒れてからなにか…」
「俺はもう、サッカー部員じゃないんです」

 だからもう練習にはいきませんし、行けませんと告げられ、なるべく柔く問いかけていた表情が強張る。絞り出された言葉は鉛玉のように鈍く、飲み込むには辛苦が伴い時間がかかった。

「辞めたのか」
「はい」
「いつ、辞めたんだ。いつの間に」

 俺は、神童が松風に伝えられずにいた言葉をしっている。それの結果だというなら素直に飲み込んだ。確かに彼女の限界は近く、先日倒れたことは(天候のせいもあっただろうが)決定打になり得るものだろう。けれど、神童は告げていない。告げていたら、あんなに脆い瞳なんてしない。あの日神童は松風よりチームを、自分を重んじてしまったと泣いたがそういう風に変えたのは松風だったのだから。だからこそあいつが言わなければならなかった。松風に背中を押され、その革命が吹くままにタクトを振り己のサッカーを取り戻した神童だから、こそ。それがお互いにとって最善だと俺も三国さんも納得、していた。

「…今朝、朝練が終わって先輩たちがいなくなったあと監督に退部届けを出したんです。受け取ってくれました、なにも聞かずに」

 ずっとずっと昔の寓話を話すみたいに眼差しだけが悲しく遠い。もう終わってしまったのだ。ぜんぶ。過程がどうあれ。それに介入するだけの不躾さを、捨てられるプライドを俺は持たなかった。

「……そうか」

 そうか、二度繰り返した言葉じりに合わすように鳴ったチャイムに、松風は慌てて立ち上がったがその手を掴む。傷だらけで日に焼けていて、それでも細い手首に唇を噛み視線を上げる。

「放課後は来いよ。やめるにしろ、やめたにしろ、お前の口から言ってくれ。じゃないと、全員でお前のクラスに押しかけるからな」

 脅しの響きを込めて見つめるとわずかに躊躇ってから力強く頷いた。ありがとう、と手を離す。やっぱりお前はつよいよ松風。その強さが、雷門の糧だった。一緒に背負ってやれなくてごめんだなんて、傲慢すぎて言えないけど。

「あの、先輩。俺…絶対行きますから」
「天馬」

 だめだ、歪むなあ、視界が。神童があまり容易く泣かなくなった気持ちがわかる。気まずくてやってられないよな。

「俺は好きだった」

 いま告げなければ、こうして二人きり面と向かうこともないだろう。俺はきっと一度は折れてしまう神童を支えなきゃいけなくて、信助もマネージャーもそれでもお前の味方だろうから。

「お前のまっすぐで熱くてがむしゃらで格好よくて、優しくてきれいなサッカーは、俺と神童が昔目指した雷門サッカーそのものだったから」

 好きだった。戦慄いた唇も噛み合わない歯茎も、隠すように深く頭を下げた松風はありがとうございます とたどたどしく告げ、よれたプリーツを揺らし足早に去った。足跡をたどるようにコンクリートに張り付いたまあるい雫はすぐに空が吐いた涙に混じる。


 ああ、やっぱりおまえはかつて俺たちが夢見て目指した天心だった。だから空は泣いていて、だから俺は濡れてしまえばいい。口に含んだ雨粒はぬるく、どこか苦かった。







(いつか稲妻になって、君に会いに行く)




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