ドアのチャイムの音に、俺はパソコンのキーボードを叩く手を止めた。
家に持ち帰った仕事の進み具合は思ったよりも芳しくない。長時間のデスクワークのせいか軽い頭痛もする。
それ振り払うように、俺は立ち上がりインターホンを覗いた。
宅配便かセールスの類いだろうと思っていた。だが、画面に映る人影を見た瞬間、陳腐な憶測も気怠い気分も一気に消え去った。
「ユイ?」
急ぎ足で玄関に向かって力に任せてドアを押し開ける。そこには穏やかな笑顔を浮かべて小首を傾げる、見慣れた恋人の姿があった。
「えへ、来ちゃった」
「急にどうした」
俺はユイの急な来訪に驚いていた。ユイは俺の部屋に来る時は必ず俺に一本連絡を入れる。だからユイに何かあったのかと思い焦っていた。しかし表情を見る限り、そうではないらしい。
驚いた?という問いかけに素直に頷くと、ユイは口元に手を当てて笑った。
「ごめんね。ふふ、でも一回やってみたかったんだ」
ユイの楽しげな様子に、俺もつられて口角が上がりそうになった。
不思議だ、ユイの顔を見ると心の中にある、わだかまりがゆっくりと消えていく。絡まった糸が優しく、丁寧に解きほぐされていくように。
俺達が最後に会ったのはいつだろう。最近仕事が忙しく、連絡もろくに取っていなかった。忙しない日々に追い立てられていて、こんな気持ちは久しく忘れていた。
「とりあえず中に」
当然、家に上がると思ってユイを招き入れようとした。が、思いもしない彼女の言葉に俺は固まった。
「あ、いいよいいよ。すぐに帰るから大丈夫」
……帰る?
ここまで来たのに、久しぶりに会えたのに、玄関先でとんぼがえりするなんて少し素っ気ないだろう。
密かに動揺する俺をよそに、ユイは手に持っていた紙袋を差し出した。
「お仕事、家でやるって言ってたから差し入れ持ってきたの。良かったら食べてね」
受け取って中を見ると、色とりどりのタッパーが何個も入っている。その一つ一つに、それぞれ別の料理が入っているようだった。
わざわざこれを届けるためだけに来たのか。何種類も違う料理を作るのも手間がかかっただろうに。俺のために、こんなに。
「……ありがとう、本当に助かる」
気持ちを素直に伝えれば、ユイは照れたように、嬉しそうにはにかんだ。
やはり、このまま家に帰す訳にはいかない。帰したくない。
「ユイ」
「うん?」
「今日は泊まっていけ」
「え?」
俺は返事も聞かず、ユイ腕を掴んでドアの中に引っ張る。
そのまま有無を言わさずユイの手を引いてずかずか家に上がり込んだ。
「ち、ちょっと待って!仕事の邪魔したら悪いから帰るよ。それに私、今日は着替え持ってきてないよ」
「お前の服はここに置いてあるだろう、一泊するには十分だ。寝巻きが必要なら俺の服を貸す」
「それは、そうだけど」
ユイは困ったように黙り込む。俺は歩みを止めて、振り返った。
「嫌か?」
「嫌じゃないよ」
短くはっきりと問いかければ、間を置かずに返事が返ってきた。
そのままユイが下を向いて黙り込んでしまったので、俺はそっと彼女を抱きしめて背中を撫でた。
「……私だって、本当は、帰りたくなかったのに、我慢してたのに」
胸元から絞り出されるような小さな声が聞こえてくる。
機嫌を損ねた子供が拗ねたような言い方が何だか微笑ましくて、ユイも自分と同じ気持ちでいてくれたことが嬉しくて、抱きしめる腕に力が篭る。
「我慢なんてしなくていい」
俺は彼女の頭に顎を乗せて目を閉じた。
「最近は休日返上して職場に仕事をしに行く癖がついていたから、気分転換に家に持ち帰ってきただけだ。別に急ぎの仕事ではない」
「そ、そっか」
「だから仕事はもういい」
「え?」
ユイは俺の腕から自分自身を引き離し、説得でもするかのように俺の手を握った。
「だ、ダメです!仕事するって言うから差し入れ持ってきたんです、ちゃんと泊まっていくから、仕事はしてください!」
俺はあからさまに大きくため息をつく。
「急ぎの仕事じゃないと言っただろう。それに物事には優先順位というものがある」
「優先順位?」
「今は、仕事よりもやるべきことがある」
やるべきこと?と、ユイは全く合点のいかない様子で俺の顔をじっと見た。
「それって一体……」
俺はユイの言葉を遮って、彼女の耳元に唇を寄せる。そのまま耳たぶを甘噛した。突然のことで驚いたのだろう、ユイの体がびくりと大きく跳ねた。
俺は宥めるように背中を撫で、そっと耳元で呟く。
「俺に言わせたいのか?」
目の前の柔らかそうな耳が、恥じらいで真っ赤に染まった。腕の中で微動だにしない初心な恋人がこの上なく愛おしく、俺は何度も彼女の名前を囁いた。