掛時計は10時過ぎを指していた。午前中、テスト期間外だと図書館は人影もまばらで静かだ。
そして机の上に広げたドイツ語の教科書に目線を戻す。1時間も前から取り掛かっているけど、課題の進み具合は思わしくない。
2年になって新たに履修に初級ドイツ語を組み込んだが、侮っていた。授業の進度が早く、まだドイツ語に慣れないうちに課題ばかりが積み重なっていく。
新しく言語をイチから勉強するのはなかなか難しい。

(まだ何も分からないのに、長文なんて読めっこない)

心の中で少し悪態をつき、また教科書に向かい、ノートを開こうとしたその瞬間だった。

「背筋を伸ばせ」

聞きなれた低い声が聞こえた、と思った次の瞬間、彼の声の主に両肩を掴まれぐっ、と外側に反られた。
突然のことに変な声を上げそうになったけれど、ここは図書館だから騒げない。
叫び声を飲み込んで、後ろを振り向いた。

「びっくりした……おはよう、国光」

「おはよう」

私の非難めいた視線を気に掛ける訳でもなく、国光は私の背中をトントンと優しく叩いた。
そのまま隣の席に腰掛けて、机の上に広げたままの教科書を覗きこむ。

「ドイツ語か?」

「うん。今年はドイツ語の授業を取ってみたんだけど、難しいね」

国光はそうか、と呟いて考え込むように口許に手を添えた。

「そうだな。英語とは仕組みが違う部分も多いから、最初は戸惑うのも無理はない。」

わからない所はないか?と聞かれて、私は課題のページを開き差し出した。

「この長文の全文和訳が課題なんだけど、本当に全然わからなくて困ってるの。そもそも、知らない単語を辞書で調べても見つからないし……調べ方が悪いのかな」

「よし、ちょっと待ってろ」

言うが早いか、国光は自分のバックからルーズリーフ1枚と辞書と取り出して綺麗な字で「不定詞」と書きつけた。

「ドイツ語では動詞の原型は不定詞、と言う。これは分かるか?」

私は頷いた。続けて国光は文を綴る。その様子を私はぼうっと見つめていた。

国光の手から生まれる字は、とても綺麗だ。筆圧が強く、少し角張っていて、堂々としている。
次第にペンを持つ手に目線が移る。
骨っぽくて、長い指。手の甲からは青い血管が浮き出てるのが見える。
少しずつ、手から腕へ、腕から顔へと段々を目線が上へ昇っていく。

「この課題の冒頭の文だ。まずは、これを例にとって考える」

長い睫毛に縁どられた、切れ長の目が、まっすぐにルーズリーフを見つめている。
そういえば、国光は何の用で図書館に来たのだろう。彼には彼の用事があったのかもしれないのに、今こうして私のために勉強を教えてくれている。

(悪いことしちゃったかな)

けれど、きっと私が謝れば少しだけ笑って、「構わない」と言うのだろう。
国光の横顔を見つめながらぼんやりと、そんなとりとめのない事を考えていると突然、国光の黒い目がこっちを向いて、横目で私を捉えた。

「どうした?」

国光が不思議そうな顔で私に向き直り、はっと我に返った。
私、何をしていたんだろう。冷静に考えると恥ずかしくなって顔が紅潮してきて、それがまた更に恥ずかしかった。

「な、なんでもないよ」

「何でもないって事はないだろう、何を考えていた?」

国光は少し不機嫌そうに眉をひそめ、私の顔をのぞき込んできた。
もうこれは確実に話さないといけないけれど、大したことじゃないから話すのも恥ずかしい。
いや、折角勉強を教えてくれているのに余計なことを考えていた私が悪いのだ。

「……笑わない?」

「笑わない」

「大したことじゃないんだけど」

「ああ、だから何だ」

「…………手塚くんのこと」

「俺のこと?」

「を、考えて、ました。かっこいいなあ、とか」

言ってしまった。自分でも言ってる意味がわからない。
恥ずかしさに耐えかねて、私は両手で顔を覆い隠した。

「ユイ」

けれど、国光は私の手を取って、顔からはぎ取り、そのまま私の手を膝の上に押さえつけた。
そして、そのままじっと私を見つめた。

「……え?」

正直何が起きているのか全く分からなかった。ただ、国光の黒い瞳が私を捉えて離さない。

「あの……?」

微動だにせず私を見つめる国光に、おずおずと問いかけてみる。彼の瞳の中に映り込む私は、きまり悪そうにしてて滑稽に見える。

「片方だけでは不公平だろう」

「うん?」

「だから、俺も今、お前のことを考えている」

「わ、私のこと?」

彼の言葉にぎょっとして声が裏返った。
国光は私から目線を逸すどころか、顔をさらに近づけて、ぎゅっと手を握り締めてくる。
からかっているのだろうか。でも、この人の性格的にそれはありえない。

「ぐ、具体的には……何を……?」

「それは秘密だ」

いまいち的を得ない会話に首を傾げ、あからさまに納得いかない顔をしてる私に、彼はため息をついて、やっと手を離してくれた。

「俺が何を考えていたかなんて、一々尋ねなくとも、お前ならよく分かっているはずだが」

そう言うと国光はゆっくりと、私の頬をこするように撫でる。
私はくすぐったくて思わず肩を竦めると、その様子を見て彼はふ、と笑った。

「そろそろ2限が始まるな。お前は?」

国光は思い出したように、しっかりとした造りの腕時計を見て呟いた。

「私も、あるよ。授業」

「そうか」

国光は手早く荷物をまとめて席を立った。対して全く動く様子のない私を見て彼は、

「遅れるなよ」

と言い残して、スタスタと去ってしまった。
その様子を見送ってから、私は何だかやり切れなくなって机に突っ伏した。そして絶対に周りに聞こえないであろう小さな声で、ぽつり、と呟く。

「やっぱり、わからないよ……」

正直、彼が何を考えていたか全く見当がつかない訳ではなかった。
国光の柔らかな光を含んで揺れていた、あの瞳を思い出す。
その視線に囚われると、心地よい、でもどこか胸が締めつけられるような、何とも言えない気持になる。
そして彼がそういう目をするのは、きっと、きっと私に対してだけだ。
でも、確証がない。それは都合のいい、私の自惚れかもしれない。
だから言葉が欲しい。なのに、彼は行き場のない熱だけ残して去っていく。
ああ、これから今日1日は、この悶々とした気持ちを抱えて過ごさなければいけないなんて。

『遅れるなよ』

優しい響きだった。ずるい。頭を抱えた。
考えれば考える程、胸の高なりとやるせなさが沸き上がる。

(次の授業、切っちゃおうかな……)

きちんと出席するけどさ、とひとり心地ながら私は机に散らばった教材を片付けた。
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