今夜はクレイジー・ナイト
03

 相手が自分より非力な生き物だと思うと躊躇いが生まれる。しかし冷静になれ、これは我が人生においてもっとも危機的状況だ。しかし勢いを付けて身体を起こそうとすると次は腰をつつつ、と指先がなぞる。

 するとまたぞわりとした感覚が広がって固まったように動けなくなった。え、ちょっと待って、俺ってこんなにあちこち弱かったっけ? いままでの自分を思い返してもここまで反応してしまうほどひどくはなかった。
 頭の中で疑問符が飛び交って焦りまで湧いてくる。ちらりと見上げれば企みを含んだような瞳で見つめ返されて、また汗を掻くような気分になった。

「こ、これ以上は本気でやめて!」

「え? まだこれからですよ?」

「ほんとにほんとに! 嫌いになるから!」

 ちょっと子供みたいなこと言っているなと思ったけれど、嫌いになる、の一言が効いたのか手が止まった。じっと見つめてくる目が時折パチパチと瞬いて、小さな顔が傾げられる。
 次の反応を待つと人差し指を口元に当てて、んーと悩ましく眉を寄せた。なにを考えているのかわからないが、どうかまた突飛な方向に行きませんように。

「柚人さん、僕のこと好きなんですか?」

「えっ?」

「嫌いになるってことは好きっていうことが前提ですよね?」

「あー、そうねぇ。き、嫌いではないっすよ」

 年のわりにこういう細かいところにすぐ頭が回るのがちょっと怖い。なにげなく発した言葉をさっとすくい取られて、それを目の前に突きつけられる感じがすごく苦手だ。よく言えば聡い、と言うところなのだろうが。

「嫌いじゃないってことは好きですか?」

「ふ、普通?」

「……ふ、つ、う?」

 あ――しまった、今度は機嫌を損ねたかもしれない。綺麗な顔が不服そうに歪んで眉間にしわを刻んだ。しかし人として嫌いかと言われたらそこまで嫌いじゃないし、かと言って好きだと好意を寄せるほどではないし。

 それ以上の言葉が見つからなくてどうしようかと頭を巡らせていると、ふいに肩を掴まれて覆い被さられた。驚いて身を固めたら首筋に噛みつかれて牙が当たる。かじり付くみたいにがぶがぶと噛まれて慌てて小さな身体を押し離した。

「い、痛いっすよ」

「僕は怒りました。普通って裏を返せばなんとも思っていないってことですよね?」

「……うっ、でも俺はその場をやり過ごすための嘘は好きじゃないっす」

 むぅっと口を尖らせて不機嫌をあらわにする拓実はちょっと目が据わっている。たまに怒ってご機嫌斜めになることはあるけれど、いままでで一番のお怒りのようだ。だからと言って嘘をついて好きだなんて口が裂けても言えない。

 子供のご機嫌取りなんて口先でなんとでもなるだろうと大抵の人は思うのかもしれない。しかし嘘をついて喜ばせておいて本当はなんとも思っていないと言うのは、子供であれ大人であれ俺はいいこととは思えない。

「拓実くんは言葉だけの好きが欲しいんすか?」

「……僕は柚人さんに好きになって欲しいです」

「人の気持ちを力ずくでなんとかしようとすれば、逆に離れていくものだと俺は思ってます」

「じゃあ、どうしたら僕のこと好きになってくれますか?」

「物事には順序ってものがあるんすよ」

「順序?」

 不思議そうに首を傾げるこの少年に、どうして大人たちは大事なことを教えないのだろう。物事はスキップして進んだほうがいいこともあるが、人の気持ちはそれに追いつかないことが多い。
 はい、俺はまったく追いついてません。って言うかこんな話をしていいんだろうか。これって順序立てて俺を攻略してね、ってことにならないか?

「うーん、それでも大人になってもねじ曲がったままだとよくないよな」

「柚人さん?」

「仕方ないな。うん、まず、人の気持ちはお金で買えないのは覚えたほうがいいっすよ」

「お金、嫌いですか?」

「……いえ、大好きです。いやいや! そうじゃなくて! お金やものをあげて傍にいてくれる人は、拓実くんが好きなんじゃなくてお金が好きなんすよ。金の切れ目が縁の切れ目って言うでしょ。拓実くん友達はいる?」

「学校で挨拶を交わす人はいます」

 ああ、ものすごい訝しげな顔になってる。頭の上にたくさん疑問符が浮かんでいるのがよくわかる。これまですべてお金で解決してきたんだな。お金に不自由していない代わりに人の縁を結べていないなこれは。

「なにか要求されたらものをあげれば済むと思ってないすか?」

「みんなそれで喜びます」

「拓実くんは誰かに喜ばせてもらったことは?」

「うちにいるみんなは優しいです」

「家族以外で」

「……ない、です」

 しばらく考え込んで発した言葉はやけに小さかった。改めて周りを見回して誰も傍にいないことに気づいたのだろう。少し俯きがちになったその様子にため息をついて、俺はようやく身体を起こした。
 そしてバランスを崩してひっくり返りそうになった彼の手を引き寄せてから、両手を前に突き出す。しばらく拓実はじっと黙ってそれを見ていたが、ポケットから取り出した小さな鍵で手錠を外した。

「ごめんなさい」

「素直に謝れる拓実くんは、まだ救いがあるっすよ」

「柚人さんは、僕がお金を支払わなくても来てくれるんですか? 面倒になって来ないんじゃないですか? いまは時給がいいから来るだけなんでしょう?」

「んー、俺もいつでも時間があるわけじゃないんすよ。大学に行って仕事もしないといけないんで」

「やっぱり」

 しょぼんと肩を落とすと拓実は悲愴な顔になった。自覚がないわけではなかったんだな、これがお金が絡むからこその状況だということに。しかしそれでも根っこにある部分は子供らしく素直なんだよな。
 その素直さをもっと別な方向で伸ばしていけば、友達だってできそうなんだけど。どこでそれがひん曲がったんだ? もしかして親か? お金を与えておけばいいだろう的な?

「まあ、いつでもは駄目っすけど。休みの日は来てもいいですよ」

「えっ!」

「休みは全部明け渡せないっすけどね」

「うちに遊びに来てくれるってことですか? 僕に会いに来てくれるんですか?」

「考えてもいいです」

「なにをしたらいいですか!」

 前のめりに両手を握ってくる小さな手がちょっとだけ震えている。なんだかこう健気な雰囲気を出されるとほだされてしまう。考えるだなんて安請け合いしている自分にめまいがしそうだ。
 それでもまっすぐに見つめられたら突き放すこともできなくなる。こんなに俺、子供に弱かったかな?

「じゃあ、まずは友達になりましょう」

「友達? 恋人じゃなくて?」

「よく考えてください。拓実くんは俺のなにを知ってます? ピザ屋でバイトしている大学生、ってくらいしか知らないんじゃないっすか?」

「それは、そうですけど」

「友達に遊びましょうって誘われたら俺だって考えます。なにごとも順序っすよ」

 とりあえずいきなりの展開は避けたが、あんまり納得いってるような顔ではない。確かに恋愛の好きが先行している頭に友達でいましょうって言われたら納得はいかないな。それはわかるけれど、俺だってここで頷くわけにはいかない。

「ずっと友達のままってこともあるんですよね?」

「ん、まあ、でもそこは拓実くんの頑張り次第、とも言えるっすよ」

 やばい、また譲歩してしまった。いつもぐいぐい来る子が縋るような寂しい目をしていると良心がぐらぐらと揺さぶられてしまう。遠回しにしようとするたびに引っ張られて傾きそうになる。

「じゃあ、僕、頑張ります! 柚人さんを振り向かせることができたらいいってことですよね!」

 そりゃあそうだ。そんなこと言われたら前向きになってしまう、よな。ああ、俺って馬鹿。バカバカバカ――このままではどこかで押し負かされてしまいそうだ。それはいかん、それだけは!

「とりあえず最後に、これだけいいですか?」

「え?」

 目を輝かせたと思ったらふいに頬を染めて上目遣いで見上げてくる。それに思わず首を傾げたら、俺の両手をぎゅっと握って背を伸ばして顔を寄せてきた。その先にあるものにとっさに反応できずに固まっていると、ちゅっと小さな音を立てて唇にマシュマロが触れる。

「友達になったらキスできないですから、仕納めです」

「いや待って! 仕納めもなにも、恋人でもないんだからしちゃ駄目でしょ!」

「でも頑張るので! すぐにキスとか色んなことしましょう」

「イロンナコトッテナンデスカ」

「うふふ、頑張って勉強します」

「シナクテイイデス」

 やっぱり小悪魔は小悪魔だった。一時の情に流されるなんて俺ってなんて阿呆なお人好しだ。結果的に拓実の行動を助長することしかしていない現実が目の前に。どうして毅然と断ることができなかったんだ。
 おかしい、こんなはずではなかった。なんでだ、なんでかこの黒い瞳にまっすぐ見つめられると弱い。あれか! 小動物みたいだから?

「全然、これって肉食系、デスヨネー」

「お肉が好きなんですか? 柚人さんの好きなものいっぱい覚えますね」

「ああ、もうなるようになって」

「そうだ! 一緒にお風呂入りませんか? 僕、背中を流します! それで今夜はパジャマパーティーをして、一緒に寝ましょうね」

 前途多難――その言葉がぴったりな舞台の幕が上がっちゃった感じ。ウキウキした様子で見上げられて、うな垂れるように両手で顔を覆った。そんな俺の心情などきっとわかっていないだろう拓実は無邪気に勢い任せに抱きついてくる。

 これが夢だったら、なんて現実逃避したくなるけれど、とっても危険なハロウィンの夜はまだ続く。どうやらこの先の道のりはだいぶ険しそうだ。


今夜はクレイジー・ナイト/end

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