移り恋
01

 時計の針は十八時ジャスト。退勤記録を入力して、パソコンの電源を落とす。
 勤務時間は九時から十八時まで、残業はほとんどしない。

 高遠雅之はデスク周りを綺麗に片付けると、腰掛けていた椅子からすっと立ち上がった。そんな雅之に、周りの同僚たちは「お疲れ様」と声をかける。

 その声に「お先に」とにこやかに返して、雅之はデスクの足元においていた鞄を手に、仕事場をあとにする。足早に会社から最寄りの駅に向かい、やってきた電車に素早く乗り込む。
 多少混み合っていても電車を見送ることはない。雅之には急いで向かわなければならない場所があるからだ。

「このぶんだといつも通りに着くな」

 腕時計に視線を落とした雅之はほっと息を付いた。
 向かう先、そこは私立ひびきの保育園――若い保育士が多いが、それを指導する園長が大らかながらも、しっかりとした人柄で。安心して子供を預けられると、巷で評判がいい保育園だ。

 園はのびのびとした雰囲気。広い敷地には小さな畑などもあり、子供たちの笑い声がよく聞こえて、和やかだと近隣からの声も上々。
 お迎えは連絡さえしっかりとすれば、日付が変わる前までは待ってくれる。

 忙しいシングルマザーや、共働き夫婦にますます好印象。ただしあまりそれが続くと園長から、厳しいお説教があるとかないとか。
 雅之はよほどでない限り、残業をすることはないので、その経験はまだない。

 経験ある人たちの話では、園長からのお言葉は最も過ぎることばかりで、頭が上がらないらしい。
 とはいえそんなことがあっても、任せたい。そう思われるのだから、安心してもいいだろう。

「高遠さんお疲れ様」

「あ、お疲れ様です」

 そんな人気の高い保育園を運良く利用をし始め、半年ほど。雅之は同じ時間帯に顔を合わせる、お勤め帰りの母親たちとだいぶ顔見知りになった。
 会えば必ずと言っていいほど、声をかけてくれるので、どの子の母親かもわかるようになってきた。

 しかしなぜ毎日声をかけてくれるかは、雅之はイマイチわかっていない。興味がないものには関心が湧かないためか、こういうものなのだろう、という認識程度しか持っていなかった。

「今日も高遠さん素敵ね」

 などという会話はもちろん耳に届いていない。
 雅之は今年で三十一歳になるシングルファーザーで、IT企業で真面目にコツコツ勤めて九年ほど。

 三十路は過ぎたが、いまだに私服姿は二十代半ばほどに見られることもある。若々しい容姿は子供がいる、と言えば驚かれるほどだ。

 物腰が柔らかく真面目で、穏やかそうな風貌が人に好印象を与える。
 前妻と離婚をして二年が過ぎ、そろそろ新しい恋愛を始めても良い頃合いではあるが、基本性格がのんびりしていて、そういった欲求が薄かった。

「こんばんは」

 ガラガラと硝子の引き戸を開けて、保育園の玄関に足を踏み入れると、奥の方では子供たちの笑い声などが聞こえていた。
 そんな賑やかな中でも雅之の声が届いたのか、保育士の一人が奥からひょっこりと顔を出す。その顔を見て、雅之はにこやかな笑みを浮かべた。

「高遠さんこんばんは」

「こんばんは」

 とことん鈍くてのんびりマイペースな雅之だが、それでも気づいてしまう好意が、この保育園にはあった。好意を寄せてくれる相手は、まだ若く二十歳になったばかり。
 毎朝毎晩、変わらず気分が良くなるような、ハキハキとした元気の良さと笑顔で出迎えてくれる。

 雅之自身もその爽やかさや笑顔には、仕事の疲れなどを忘れさせてくれる程の癒やしを感じていた。
 ただ一つ問題があるとすれば、『彼』が男性であるという点だろうか。

 そんな彼――響木淳は、今日もまた実にいい笑顔で雅之を出迎えた。
 のんびりとした足取りで近づいてくる彼は、百八十センチある雅之の身長より少し低い程度で、今時の子のような華奢な印象はあまりない、健康的な体躯だ。

「お疲れ様でした。今日も希くんいい子でしたよ」

 目を細めて笑うその顔は、本当に人好きする印象で、柔らかい声音は相手にほっとした安心感を与える。
 明るい髪色とその笑顔で「太陽みたいな子」と、母親たちからの評判はここの保育士の中では特に高い。

 そんな笑顔につられ雅之が微笑めば――希くん、お父さんだよと、淳は背後を振り返り声を上げた。すると奥の部屋から小さな足音を立てながら、雅之の愛息が駆けて来る。
 大きな瞳に、父親譲りのくせっ毛の髪がふわふわと跳ねる、大人しいながらも利発な高遠希、四歳だ。

「希、ただいま」

「まさ、おかえりっ」

 駆けて来た勢いのまま、飛びつくように手を伸ばした希を、雅之は軽々と抱き上げて片腕に収める。
 ぎゅっと抱きつく希に目を細めて、雅之が優しく頭を撫でると、それを見ていた淳もまた、ニコニコとした笑みを浮かべた。

「あ、高遠さん。今日も持っていきますか?」

「あぁ、うん。いつも悪いなぁ。迷惑でなければ」

「全然迷惑なんかじゃないですよ。ちょっと待っててくださいね」

 ふと思い出したように声を上げた淳に、雅之は少しばかり恐縮したように頭を下げる。その様子に小さく笑みをこぼすと、彼は廊下を抜け、奥の方へ小走りに駆けて行った。

「あっくん、今日も来る?」

「え? あぁ、うーんどうだろうな」

 淳が姿を消した先を、なんとなく見つめていた雅之は、ネクタイをぎゅっと掴んだ希の言葉に、苦笑いを浮かべて首を傾げた。
 すると大きな瞳を瞬かせていた希が、不機嫌そうに頬を膨らませる。

 希は入園以来すっかり淳に懐いており、ほかの先生たちでは口をあまり利かないらしい。
 いつもべったりと甘えているらしく、時折ほかの子たちがやきもちを妬くほどだと、淳の父であり園長である響木が笑っていた。

「聞いてみるよ」

 可愛い愛息の膨れっ面に、雅之の眉尻が下がる。表情は天使のように可愛いらしいけれど、意外と頑固な性格なので、希には言いだしたら聞かないところがある。
 しかし気が引ける部分は確かにあるが、雅之にもなんとなく心の片隅に期待はあった。

「お待たせしました、これ高遠さんが好きなきんぴらと佃煮と、希くんの好きなハンバーグ。焼けばいいだけにしてあります」

 奥へ去って五分ほどで、淳はまた小走りに戻ってきた。その手には小さな紙袋が一つ。それを笑顔で雅之に差し出してくる。
 その笑顔が可愛いなと思いながら、雅之は差し出された紙袋を受け取るために手を伸ばした。

 さらには紙袋の持ち手ではなく、淳の手を握り締める。

「あの」

 するときらきらとした淳の笑顔が一変、ぶわっと音が出そうなほど頬や耳、首筋まで赤く染まった。
 雅之を見つめていた目が、うろたえたように右往左往と空をさ迷い、そわそわとした雰囲気が傍目でもよくわかる。

「あのさ淳くん、今日もうちに来られる?」

「えっ、いいんですか」

 問いかけにぱっと華やいだ表情で顔を上げた、淳の顔は至極嬉しそうだ。それを見て、思わず込み上がった笑いを、雅之は喉の奥で噛み殺した。

 だが誰がどう見ても、意識しているのがバレバレな反応に、口元まで自然と緩む。
 紙袋を掴む彼の手を、雅之は更に強く握り締めてしまった。

「希が来て欲しいみたいで」

「あっ、そうですか」

 さらには明らかに残念そうな、気落ちした雰囲気に変わった淳の変化に、にやにやとしてしまいそうになる。
 少し俯き気味になった彼を見つめていると、優越感に似た気持ちが、雅之の中に芽生えてくるのだ。

 これはどうみても、好意を寄せられていると思わずにいられない。相手は女性ではないが、毎回こんな風に一喜一憂した表情を見せられて、そこになんの気持ちもないとは思いようがなく。
 こちらも期待した気分にならなくもないと、雅之は思った。

 最初はなんとなく違和感を覚えた程度だった。それでもこうしてわざと触れたり、誘いかけたりすると、その違和感がどんどんと確信に変わっていった。
 そこにある特別な感情――それに雅之の気持ちも、大きく揺さぶられていく。

「あ、えっと、父に声をかけてきますので、待っててください」

「うん、待ってるよ」

 もちろん初めは正直なところ、雅之にも戸惑いはあった。けれど淳の反応を見ているうちに、いつしかそれが可愛くて仕方がないと思うようになったのだ。
 淳の顔立ちは女性的なわけではなく、しっかりとした成人男性だというのはわかる。

 無論、雅之はゲイでもバイでもない。それでも次から次へと変わる彼の表情に、心を動かされてしまう。

 恋かな――と考えずにはいられなかった。離婚してから色恋には疎くて、そんな気分にはならなかったけれど、この気持ちの弾みはそう思うには十分ではないか。
 そうして自分の中に芽生えた気持ちを、少しずつカタチにすると、その想いは急速に膨れ上がっていくものだ。

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