初候*土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)

 あの日の晩のあれは、夢だったのではないだろうかと目が覚めた瞬間は思った。祖父の昔語りを思い出し、夢見心地のうたた寝をしていただけなのではないかと。

 けれど目が覚めてテーブルの上を見たら、ご丁寧に一種類ずつ選り分けたいなり寿司が家の皿に移し替えられていた。そして台所には湯飲みや切子グラスが伏せて置いてある。
 ここまで来るとさすがに夢だとは言い切れない。あの晩、近所の子供たちが家に訪れたのは間違いないのだろう。しかしその後の音沙汰はなく、日常の中に少しずつそれは紛れ込んで消えかけていた。

「今日は雨か。湿度もまあまあだし、キャンバスを張るのには丁度いいかな」

 祖父が遺した家は平屋の一戸建て、離れ付き。かなり古い時代に建てられたらしいのだが、手入れが行き届いており傷んだところはない。一人暮らしには贅沢なほどの住まいだ。

 母屋には居間のほかに部屋が二つある。一つは仏間、もう一つは祖父母の寝室だったけれどいまは暁治(あきはる)のアトリエとなっていた。そこは昔、子供部屋としても使っていたのだが、居間ほどではないが広さもあるのでとても使いやすい部屋だ。
 アンティーク調のガラス戸が縁側に面して設けられているので、色ガラスから射し込む光も美しい。それを開け放てばさらに明るく、絵筆を滑らすにはもってこいとも言える。

 畳敷きだった和室は引っ越したあとにパインウッドのフローリングに換えてもらっている。油絵具を使うので畳のままではシートを敷いても、付着したり染み込んだりで汚れることが容易く想像できるからだ。
 雨特有の薄曇りの中、黙々とキャンバスに布を張る。こういった作業は無心になるものだが、今日はなぜだか胸の中がかき混ぜられたように濁っていた。

 ――美しいとは思うよ。
 ――なんとなく生気が足りないとでも言うか。
 ――もっと光を感じてごらんよ。
 ――空気感と言うのもあるだろう。

 暁治の絵を見た人は皆、悪くはないよ、だけどねぇと口ごもる。なにかが足りないよね。あれは、これは、それは――そう言いはするが誰も明確なものを示してくれない。
 なにも示さないのにこれは駄目、あれは駄目、良くない良くない。そうしているうちに絵を描くのが辛くなって、逃げるようにこの町へやって来た。田舎の静かな環境でならなにかが閃くこともあるのではないかと。

 けれどそれも随分と他人任せだと、暁治は大きく息をついた。

 昔から絵を描くのが好きで、子供の頃は大層褒められた。コンクールにも入賞したし、ポスターなどに使われたこともある。昔はただ描いているだけで良かった。
 けれどそれに値段が付くようになるとそうもいかない。ある一定の水準を満たさないとそれは良い作品と認めてはもらえないのだ。だからもうなにもかも辞めてしまえばいい、そう思いもした。

「それができてたら、こんなことしてないよな」

 張り器で布を張りながらトンカチでタックスを打つ。一つも手順を間違うことなく、身に染みついた作業をこなしていく。
 認められなくとも好きなのだ。世界を描くことが、景色を、生き物をこの手で描くことが。しかしいまの暁治はなにかが欠けている。ここにそれを見つけに来たと言ってもいいだろう。

「けどいまのままじゃ、絵で生活は賄えないし、やっぱり仕事だよな」

 この家を祖父が遺してくれていたと聞いた時はまだノープランだった。蓄えは少しばかりあるけれど、田舎とは言えそれなりの生活費は必要だ。
 ずっと絵ばかりを描いてきてほかになんの職も身につけていない。大学の過程で教員免許を取ったこともあるがいまさらそれは大変だろう。近くの高校で用務員の仕事があるのを役場で聞いて丁度いいかもしれないと思っていた。

「ん、電話。……繋がってたんだな」

 ふいに静かだった室内にリンリンとベルのような音が響く。それは昔懐かしい黒電話の音だ。その音に呼び寄せられるように立ち上がって、玄関先にあるそれに手を伸ばした。

「はい、宮古です」

「ああっ、やっと繋がった」

「はい?」

「宮古さん、携帯にかけても繋がらないから役場でここの電話番号を聞きました」

 ひどく安堵したような声で話す電話の向こうに、はて、と首を傾げかけてから、しまった――と冷や汗を掻く。田舎に来てからと言うもの、携帯電話が鳴ることもないのでずっと自室に放置されっぱなしだった。

「すみません。お手数をお掛けしました」

「いえいえ、私、大黒山(だいこくやま)高校の品川と言います」

「ああ、用務員の」

 役場で手続きをした際に暁治は学校へ書類も送付してもらっていた。都会とは違って窓口がいくつもあるわけでもなく、総合受付とでも言うのか、まとめてあれこれと世話を焼いてもらったのだ。
 本来ならばそこまではしてもらえないのかもしれないが、いささか世間からずれたところを見せる新米町民を放っておけなかったのだろう。

「宮古さん、教員免許をお持ちなんですよね」

「はあ」

「もし良ければ非常勤講師として美術の授業を受け持ってもらえませんかね」

「えっ? 教員として雇ってもらえるんですか?」

「はいはい、そうなんです。丁度空きが出て新しい先生を探そうと思っていたところで、こちらとしては渡りに船です。授業は一日一限か二限、契約はまず一年ほどでどうでしょうか。部活もぜひみてもらいたいのですが、こちらのほうも別途お給料をお出しします」

 トントンとことが進む。まさにこれ幸い、そんな言葉が浮かんでくる。慣れない用務員の仕事よりも少しは自分の手の職が生かされる仕事ができるのなら、これ以上のことはないだろう。
 こちらを窺うような品川の声に暁治は頭の中で色んな言葉を考えた。しかしここでなにか高尚なことを言っても仕方がない。答えは一つしかないのだ。

「その仕事を受けさせてください」

「そうですか! いやぁ、ありがたいありがたい。では今度の」

 ここで立ち止まってはいられないと思っていた。なにか前へ進む手立てはないかと考えていた。自分に足りないものを見つけたいとそう思っていたから、人の手に伝えることでなにかを見つけられればいい。
 まだ運の神様に見放されてはいないのかもしれない。そう思うだけで濁っていた心が凪いですぅっと清水が流れ込んでくるような心地になる。泥を落として新しい出発の日を迎えられそうだと、口の端を持ち上げて久方ぶりに笑みを浮かべた。

 冬来たりなば春遠からじ――明けない冬はない。

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