約束
01


 四月の始め――その日は本当なら午前中に予定を済ませて、夜までゆっくりと家で過ごすつもりだった。けれど朝一番にかかってきた電話でその予定は大きく覆されてしまう。人の休みをしっかりと見計らっているその電話の主に、ありったけの恨み言を言ったがそんなことか通じる相手ではない。よくわからない曖昧な言葉で話を流されて、向こうの都合のいいように動かされる。

「なんだ優哉、まだふて腐れてるのか?」

 今日は水曜で店の定休日だ。しかし電話で呼び出されて店の鍵を開けたのは、普段とほとんど変わらない時間だった。
 不機嫌さを隠さずイライラとしたまま口を引き結んでいたら、のんびりとした足取りで男が一人近づいてくる。すらりと背の高い、黒縁眼鏡をかけたその男――幸村浩介は、甘い顔立ちもさることながら、雰囲気にも華やかさがあり人目を引く。
 見慣れているであろう身近な人間でさえ、浩介がやってくると皆その姿を嬉しそうに振り返る。色めき立った女たちの視線に目配せしながらも、やつはまっすぐとこちらへやってきた。

「笑えとは言わないけど、ちょっとはその眉間のしわなんとかしてくれよ」

 小さな子供を相手にするかのような声音に、傍にやって来た浩介を思いきり睨み付けてしまった。けれどそんな俺の視線などものともせずにやつは肩をすくめて笑うばかりだ。
 ひどく子供扱いされているこの状況にますます苛立ちが募るが、こうしてカリカリとして余裕のなさそうにしているところが余計にそう思われる原因なのかもしれない。浩介の手の内で転がされるのは癪だが、このまま子供のようにあしらわれるのも嫌で大きく息を吐いて気持ちを切り替えた。

「お、ようやっと落ち着いたか。よしよし、それじゃあ始めさせてもらおうか」

「次からこういうことは当日に持ってくるのはやめてくれないか」

「ん、ああ、悪いな。こっちも急に穴を開けられて焦ってたんだ。ここ最近の新しい店でほかでも取り上げられていないところなんてそうなくてな。思い浮かんだのがお前んとこくらいだったからさ」

「どこかほかの雑誌に取られたのか?」

 少しばかり苦い顔をして肩をすくめた浩介に首を傾げると、大げさなくらい大きなため息をついた。
 この男は飲食系の情報雑誌を手がける編集長だ。確か去年新しくできた雑誌で、刊行以来ずっと雑誌の売り上げもよくなかなか評判がいいと聞く。紙ものの雑誌が廃れていく中でそれはなかなかの快挙だろう。

「ページ割いて特集を組んでもらうんだとよ。もっといい条件をつけてくれるなら受けてもいいって言ってきたから、こっちから断った」

「ふぅん、話題になるような店だったんじゃないのか」

「まあな、去年オープンしてから店の評判もいいし、いま口コミでもかなり広がってる。予約もなかなか取れない人気店だ」

「でも、お前の中でなにか気に入らないことがあったわけだ」

 理知的で穏やかそうな顔立ちをしているが、幸村浩介という男は好き嫌いがはっきりとしている。ごますりやおべっかが嫌いで、案外他人に容赦ないところもある。媚びへつらうくらいなら、余計なものは切り捨てるという男だ。

「店はいいけどオーナーが気に入らない。プライド高くて鼻につく野郎だ。上からの紹介じゃなかったら俺は受けなかったな。大体取材スタッフは女がいいとか言う時点でふざけんなって話だろ。うちはキャバクラじゃないんだよ」

「ああ、それで今日はこういうメンバーなんだな」

 店に浩介たちがやって来てからなんとなく違和感はあった。カメラマンを筆頭にやって来たスタッフ四人すべて女性だったからだ。開けられた穴をそのまま埋めるため、スタッフの変更も利かなかったのだろう。わざわざ編集長直々のお出ましになるくらいだったのだから、会社としては大きな企画だったのかもしれない。

「うちはあんまり客が増えすぎても困るんだけどな」

 店はいつも三人で回している。客席もさほど多いわけではないから、下手に来客が増えても捌ききれないだろう。それに客を待たせて、時間で急かすような接客はできるならしたくない。

「まあ、その辺はうまく書いておく。迷惑はかけない」

「あれ、じゃあ橘さんを撮るのも駄目って感じです?」

「え?」

 ふいに会話に混じる声に振り向けば、すぐ傍にカメラを片手にした女性が立っていた。こちらの視線に気づくと彼女はにんまりと笑みを浮かべる。そしてさりげなくカメラを構えてシャッターを切った。

「おい、勝手に撮るな。今回はなしだ」

「あー、やっぱり? ですよね。橘さんは顔出ししたらわんさかお客さんが来ちゃいますもんね。あー、でももったいない。こんなにいい被写体を前にして撮れないなんて」

「それより夏美、店の写真はちゃんと撮れたのか?」

「任せてください。ばっちりですよ。お店もとても素敵ですね」

 呆れたような眼差しを向けられながらも満面の笑みを返す彼女は、実にさっぱりとした性格だ。浩介とも付き合いが長いのだと最初に挨拶された時に言っていた。顔立ちは少しきつそうにも見えるが、美人の部類に入るだろう。
 今日集まったスタッフはそれぞれタイプはあるが、顔立ちが皆整っている。姉御肌のカメラマン木元夏美。その助手として手伝っているおっとり妹系の児玉春代。元気の有り余ってるインタビュー記者の宮木多美子。それをまとめるクールなライターの五条由貴。
 おそらくそれは意図して選出されたのだろう。しかし浩介は顔だけいいのを集めて満足するような男ではない。各々分野において仕事ができる人間に違いない。

「浩介さんの一押しだって言うから期待していましたけど。期待以上ですね。お二人は以前からの知り合いなんですか?」

「あー、いや。そんなに長い付き合いでもないな。そういや初めて会ったの年明けた頃だもんな」

「あら、まだそんなもんなんですか。意外です。仲がいいから付き合い長いのかと思いました」

「全然、ほら見ろよ。仲なんか良くないって優哉の顔に書いてあるだろう」

 人の顔をのぞき込んで二人してニヤニヤと笑う。その顔が居心地悪くて顔をしかめたら、伸びてきた浩介の手に乱雑に頭を撫でられた。

「ピザとデザートの写真も欲しいけど今日の今日じゃ難しいよな。明日以降に時間をもらえるか?」

「早いほうがいいんだろ。明日用意して置くから十五時から十七時のあいだに来い」

「お、そうか。助かる。じゃあ、あとはインタビューだけよろしくな」

 いままでこういった取材の申し出は何度かあったが、表に立つのが面倒で断ってきた。いまでも十分お客は来てくれているし、やはり増えすぎるのも困る。しかし今回勢いで押し切られてしまったので、少し覚悟をしておかなければならないかもしれない。日笠さんとエリオにあとで謝っておこう。

「え! 橘さんってタン・カルムで働いてたことあるんですか?」

「学生の頃のバイトですけど」

「そうなんですか! あそこの料理長さんは気難しいですよね。前に一度お話しさせてもらったんですが、ちょっとタジタジになってしまって、マネージャーさんに助けてもらいました」

「ああ、その記事は読みましたよ。多美子さんだったんですね。久我さんがそういうの珍しいなって思ったので、受ける気にさせただけでもすごいと思いますけどね」

「あはは、ありがとうございます。タン・カルムは料理はもちろんのこと、お店もスタッフも本当に一流ですよね。尊敬します」

「俺もそう思います」

「やっぱりこの道を目指すきっかけですか?」

「そうですね。それが一番大きいと思いますね」

「海外に出られていた時に働いていたのも、すごく有名なお店でしたね。大変でしたか?」

「いえ、大変ではなかったですよ。忙しくはありましたが、いい経験でした」

「なかなかできない経験ですよね。ところで――」

 最初は店のことだけかと思っていたが、話は最終的にいろんな方向に広がって、気づけばあれこれと口を開かされた。目の前にいる宮木多美子は年若い印象はあるが、話をすることに長けているのかあまり躓くことがない。
 どんな質問をされても嫌な感じがしないので、普段は口にしないことまで喋ってしまった。こういうタイプは気づいた頃には身ぐるみ剥がされた気分にさせられる。これで終わりですと言われた時には優に一時間を超えていた。
 常日頃そんなに話すほうでもないので、なんだか終わった瞬間にどっと疲れた気がする。

「お、優哉お疲れ。多美子の弾丸トークによく最後まで付き合った。偉いぞ」

 ぐったりとテーブルに肘をついてうな垂れていたら、どこかへ行っていた浩介がふらりと帰ってきた。責任者が現場を離れると言うことは、最初からこれだけの時間がかかると想定していたと言うことだ。
 軽い調子で任されたので油断していた。こいつが店を出て行った時点で気がつかないなんて、俺も相当ペースを乱されていたようだ。
 なんというか、ここに集まった人間は一癖あって一筋縄ではいかない。にこやかに笑っているようで、仕事を遂行することに関して容赦がない。それはなによりもプロ意識が高いと言うことなのだろうが。

「ほら、頑張ったお前にご褒美だ」

「なに?」

「北川のおばあちゃんがここのシュークリーム、お前がうまいって言ってたって」

「え? 北川さん?」

 向かい側の椅子を引いて腰掛けた浩介に思わず首を傾げてしまった。北川さんとは町内会長のおばあさんのことだろうか。目を瞬かせているうちに浩介はビニール袋に入った白い箱を開ける。
 その中にはシュークリームとエクレアが四つずつ入っていた。シンプルな形だがそれらには見覚えがある。駅前の商店街にあるケーキ屋のものだ。

「商店街の誰に聞いてもこの店のこと知ってたぞ。みんな口揃えていっぱい宣伝してくださいって言ってた」

「……」

「そこで長く店を続けるには地元に愛されるってことは大事なんだ。お前はよく頑張ってるな」

 なんだか思わず頬が熱くなった。こんな風にまっすぐと褒められたのは佐樹さん以外では初めてかもしれない。この男は嫌味なく人を持ち上げるのが得意だ。その印象は最初に会った時から強くて、誰の懐にもするりと入り込めてしまうやつだった。
 それに嫌味がないのは嘘や誤魔化しを言わないからだ。だからその言葉を誰もが疑わず信じてしまう。

「おーい、お前らもこっちに来て食え」

 この男は自分とはまったく違うタイプの人間だと思う。それでも不思議と苦なくいられるのは身に寄せたものを裏切らない男だからだろう。他人を容赦なく切り捨てることもあるが、無闇やたらに人を傷つけたりはしない。
 たまに腹が立って無性にむかつくことはあるけど、それでも隣にいるのは居心地は悪くないと思う。本当に嫌だと思えば今日だって断れたはずだ。それなのに断らなかったのは、この男に任せておけば悪い方向には進まないと思ったからだ。

「やったー! シュークリーム! エクレアもおいしそう」

「こら、多美子。シュークリームは一個残せよ。優哉の分」

「多美ちゃんにスイーツ見せたら止まんないよね」

「夏美先輩こそ!」

「お前らはそうやって二つ食べるのは予測済みだ。春代と由貴も早く食べないと食われるぞ」

 あの人に泣いて縋ったあの日から随分と時間が過ぎて、気づけば自分の傍にはたくさんの人が集まっていた。こうやって周りに人はどんどんと増えていくのだろうか。人の笑い声を傍らで聞くたびに、幼かった自分の世界がどれほど狭かったのか、それを思い知るようになってきた。


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