あの日の笑顔
10


 いまの僕を見たら彼女は笑ってくれるだろうか。想いと心がズレてしまう前は、僕たちのあいだにはいつだって笑みが絶えなかった。そしてこれからも一緒にいよう幸せになろうって約束を交わした。
 その誓いは守ることはできなくなってしまったけれど、いま前を向く僕に君は笑ってくれるだろうか。これからは優哉と幸せになるからと、そう告げてから五年も過ぎた。相変わらずのんびりだねって笑って言ってくれるかな。

 この部屋に一人きりでいることにも随分と慣れた。あの頃みたいに素直に毎日が楽しいって思えるようになった。けれど失敗が怖いって思うのは答え合わせができていないからだ。

「答え合わせなんてもう彼女とはできないのに、僕は馬鹿だな。もういい加減、忘れなくちゃ駄目だろ」

 優哉と一緒にいるいまが幸せだと思っているのに、どうして過去のことが忘れられないんだろう。もう全部終わりにするんだってそう決めたはずなのに、立ち止まってしまう自分が嫌になる。
 いまの幸せを身に染みるくらい感じているのに、ふと陰りに立ちすくむ。優哉に少しでも変わって欲しいなんて思っていたけれど、本当に変わらなければいけないのは僕だ。

「佐樹さん?」

「……あ、おかえり」

 ぼんやりと写真を見つめていたら静かな空間に遠慮がちな声が聞こえてきた。それに驚いて肩が跳ね上がるが、急いで後ろを振り向く。しかし少し怪訝そうな表情を浮かべる彼に笑みを浮かべようと思うけれど、あまりうまくいかなかった。

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもないよ」

 そっと気遣うように歩み寄る彼は優しく髪を撫でてくれる。その優しさに少しだけ罪悪感が湧いてきた。また彼女のことを考えているなんて知られたら、気に病むだろうか。嫌な思いをさせてしまうだろうか。
 思わず視線を外したら膝を折り僕の顔をのぞき込んでくる。それでも俯いていると両腕で抱き寄せられた。

「どうしたの? なにか不安になった?」

「なんでもないよ」

「それ、佐樹さんの悪い癖ですよ。俺に気を使って言葉を飲み込んじゃうの」

「なん、でも……ない」

「本当に、なんでもないなら、泣かないでしょう?」

 震える声を抑えようとすると喉が詰まってこらえきれなかったものがこぼれ落ちる。こんな自分が嫌だ。彼のことだけを考えられない自分が嫌だ。けれど思い出は消し去ることはできないこともわかっている。
 それでも僕のことを好きでいてくれる優哉を裏切るようで、胸が苦しくなった。どんな時でも彼は僕を問い詰めるような物言いはしない。僕が吐き出すまで辛抱強く待ってくれようとする。

「ごめん」

「謝らなくていいよ」

「ごめん、ごめ……んっ」

 口を開けば出てくるのは同じ言葉ばかりで、それを優哉はやんわりと唇で塞いだ。僕の膨れ上がる感情を飲み込むみたいに口づけられた。何度も触れては離れる唇のぬくもりに胸が引き絞られるような気持ちになる。

「もう、いいですよ。結婚式、思い出しちゃいました? 昔のこと」

「ごめん、少し前は本当にいまが幸せだって思えてたんだ。今日はいい日だなってそう思ってたんだ」

「うん」

「これはもう終わったことだって思っていたし、いままでもそんなことがあったなってくらいで。……なのになんで僕は、こんなに弱いんだろう」

「佐樹さんは優しいから、大切に思った人を無下に扱えないだけですよ。そういうところ、俺は嫌いじゃない」

「優しくなんて、ない。お前を一番に考えられない自分が嫌だ」

 いま一緒にいられることが嬉しい幸せだ、それだけでいいはずなのに、どうして振り返ってしまったんだろう。夢を見てしまったから、思い返してしまったから――けれどそれはいまさら考えることでも悩むことでもない。

「それは違うと思う。佐樹さんは、たぶん俺のことを考えすぎていま苦しいんですよ」

「え?」

「……あの人を、幸せにできなかったことを悔やんでいるんでしょう? もし俺のことも幸せにできなかったらって思ってるんじゃない? それってもう俺のことしか頭にないってことじゃないのかな」

「そう、なんだろうか」

「もうそれは、そうだってことにしておいてください。あなたを愛しているのも、あなたが愛しているのも俺だけ、それだけでいいでしょう?」

 視線を落とした僕を優哉はきつく抱き寄せた。大丈夫って包み込んでくれるその彼の優しさにすくい上げられるような気持ちになる。
 俯いているとぽつぽつと溢れたものがまたこぼれ落ちた。それを拭う手のひらに頬を撫でられて、引き寄せられて唇にぬくもりが触れる。愛されているなと思うのと同時に、目の前にいるこの男が本当に愛おしいなと思う。

「優哉、好きだ……好きだよ」

「俺もあなたが好きですよ。あなた以外もうほかにないから」

「うん、僕もだ」

 両腕を伸ばして背中を抱きしめれば、すり寄るように頬を寄せてくれる。そして恭しく額にもキスをくれて何度も好きだと繰り返してくれた。抱きしめたらなんだか隙間が埋められていくような不思議な心地になる。

「あったかい」

「……佐樹さん、それは冷えてるからだよ」

「ん、そっか。言われてみたらそうだ、寒い」

 優哉の言葉に我に返れば、帰ってきてからエアコンも付けずに帰ってきたままの格好でいた。コートがなくても外より寒くないけれど冬の室内はやはり冷える。それに気づいてふるりと肩を震わせたら小さく笑われた。けれど抱きしめた熱が暖かくてぎゅっと背中を強く握る。

「お風呂、入りましょう」

「あ、うん」

「一緒に入りましょう」

「……え、あ、うん」

 別に初めてというわけでもないのになぜだか胸が騒いだ。それを見透かされているのか、やんわりと微笑んだ優哉の瞳は少し意地悪く見える。その目から逃れるように肩口に頬を寄せたら髪を梳いて撫でられた。

「今日はお疲れさまでした」

「うん、優哉もお疲れさま」

 湯を張っているあいだはなにをするでもなく、二人で浴槽の端に腰かけて今日の出来事を振り返る。エスコート役を任されて、夏休みに実家へ優哉を連れて行った時以来の緊張だったと言えば、それはなんとなくわかると頷かれた。

「色々思うところはあったけど結婚式っていいよな。幸せのお裾分けみたいな」

「じゃあ、俺たちもしましょうか、幸せのお裾分け」

「え?」

「結婚式しましょうか。どうせなら向こうで、佐樹さんの家族を呼んで。しないのかってよく言われてはいたんです。でも佐樹さんシャイだし、どうかなって思ってて」

「そ、そっか、そうなんだ」

「すぐは無理ですけど、もう少し店が落ち着いたら」

 じっと見つめられて茹でられたみたいに顔が熱くなって視線が泳ぐ。けれどのぞき込まれると逃げ場がなくなり、耳にまで移った熱を感じれば身体全体が熱くなっていくような錯覚がする。
 言葉を紡げずにいるとそっと近づいてくる気配を感じて、口先に自分とは違う熱が触れた。胸の音が耳元で響くような感覚。数センチ先で自分を見つめる瞳にますます高鳴っていく気持ち。溢れそうなその想いに視界が揺らぐ。

「泣き虫な佐樹さんも可愛いね」

「相変わらず余裕顔でムカつく」

「そんなことないですよ。もう胸がはち切れそうなくらいだから」

「ほんとだ」

 そっと握られた左手を胸元に寄せられて、触れたそこから感じる音に自然と口元が緩む。澄ました先にあるその想いを知るとちょっとした優越感を覚える。彼が自分のものであることを実感して、どうしてもにやけるのを止められない。
 そしてそんな僕の反応に優哉もとても嬉しそうに笑うから、惹き寄せられるように口づけた。驚いて瞬く瞳が優しく細められると唇が愛していると甘く囁く。それはいままで何度となく伝えられてきた言葉だけれど、いまはやけに胸に染みた。

「僕もだ、お前が愛おしくてたまらないよ。お前以外、欲しくないって思うんだ。重たいかな?」

「全然、もっと俺を絡め取るくらいに愛してくれていいですよ。あなたは俺のすべてだから、もっと欲張りになってくれていい。俺はそんなあなたを愛していくから」

 そっと持ち上げられた左手の先に唇が触れて、胸がどんどんと鼓動を早める。風呂場の誓いのキスは様にならないと笑うけれど、高まった感情は一気にこぼれ落ちていく。突然ボロボロと泣き出した僕を両腕で抱きしめてくれる彼への想いで溺れそうになる。

「どうしたの?」

「わかんない、けど。なんかすごい幸せだなって」

「佐樹さんはほんとに欲がないから、俺はちょっともどかしいです。もっとたくさん求めてくれていいよ。もう俺だけでその身体の中を全部、埋めて欲しいくらい」

「もう結構お前でいっぱいだぞ」

「佐樹さん、俺が欲深いってことだけは忘れないでいて」

「……んっ」

 両手で頬を撫でて額を合わせてくる仕草が可愛いなと思ったら、ふいに息を絡め取るみたいにキスをされた。けれどそこから逃げ出す気にはなれなくて、両手を伸ばして引き寄せる。触れる熱が恋しくなるのはいつだって彼だけだ。
 強く心が求めるのは、彼しかいない。だからもっといっぱいにして欲しいって囁いたら、綺麗な瞳に涙を浮かべて笑う。

「優哉の笑ってる顔を見ると、幸せが十割増しだ」

「俺も佐樹さんの笑っている顔を見ると、愛おしさが溢れて仕方がない」

「両想いで良かった」

 もっと大切にしなくてはいけない。彼のこと、自分のこと、ちゃんと抱きしめてなくさないように――失敗したら、繰り返さないようにすればいい。たくさんの人が傍にいてくれる、僕の行く先にはまだまだ可能性が満ちあふれている。

「これで片想いだったら俺は立ち直れないですよ」

「大丈夫だ。だってこんな気持ちになるのはお前だけだからな」

「佐樹さんは俺を喜ばせるのが得意ですね」

「うん」

 顔をほころばせて本当に幸せそうに笑うから、この瞬間を撮り損ねたのがちょっともったいない。それでもこれからもこんな笑顔を浮かべてくれるように彼を愛していこうって思える。だからいまはこの笑顔は心の中にしまっておこう。
 きっとこの先、何度だってその瞬間は訪れるはずだ。


あの日の笑顔/end
2019/10/22


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