澄み渡る青の世界
01

 三月の中頃――その日はいつもと変わらない始まりだった。まだこの時も仕事を始めていなかったので僕の仕事は目下、美代子さんのお手伝い。アパートの周りを掃き掃除したり、空き部屋が痛まないように軽く掃除したり、ご飯の支度もした。

 この場所に転がり込んでから、ここへやってくるのは園田さんと八百屋の吉吾さんくらいだ。六世帯入る部屋が三つも空いていて収入には困らないのだろうかと不思議でならない。
 そもそも建物自体が古いし、内装も古めかしい。苦学生が集まるような場所でもないし、今どき風呂なしでは入居者も見つからなさそうだ。レトロと言えば聞こえはいいがやはりボロアパートなのだ。

 それでも美代子さんの部屋の畳は新しいし、ホットカーペットが敷かれて最新のエアコンもついている。家電製品も新しいものばかりで、あまりお金には困っているようには見えなかった。
 紺野さんは売れっ子作家のようだから、それなりの収入があるのかもしれない。そもそも僕が一人増えたところでなんてことないという顔をしている。

「今日はお日様ぽかぽかだね」

「本当ね。お洗濯物がよく乾きそうだわ」

 入居者がほかにいないので庭は広く使い放題。大判のシーツやタオルケットまで存分に干せる。一番の大仕事、洗濯を終わらせて美代子さんと二人縁側でほっと息をつく。そうしていると上のほうでカタンと小さな音がした。
 おそらく窓を開けた音だろう。

「紺野さん起きたのかな? 布団を干して、ついでに掃除もしてくるよ」

「そう? よろしくね」

 作家というのはいつも仕事に追われて徹夜をしているようなイメージではあるが、普段の紺野さんはそこまで追い詰められて仕事はしていない。ただ夜のほうが捗るようで、深夜まで執筆をしてお昼の少し前に起きてくることが多い。
 そして適当に部屋にあるものを食べながらひなたぼっこをして、また仕事に向かう。少々生活がずさんではあるが光合成しているだけマシである。

「紺野さんおはよー! 今日は天気がいいから布団を干そう」

 ノックもせずに玄関扉を開いたら、台所でパックから牛乳を直飲みしている彼と目が合った。呆れて目を細めたけれど、なにも言わずにさらにごくごくと飲んでそれを冷蔵庫にしまう。

 よれたスウェットの上下、ボサボサの頭、これにいつもなら無精ひげが加わっているのだが、今日は顔を洗った時に剃ったのかスッキリとしている。これはだいぶ珍しい。
 そうこうしているうちにオーブントースターがチンと音を立てて、焼けたトーストを取り出してそのままかぶりつく。

「もう、ながら歩きしちゃ駄目だよ! パンくずがこぼれちゃうよ」

 後ろを追いかけて皿を差し出したら黙ってそれを受け取る。起きたばかりだけれど今日はあんまり寝起きは悪くないようだ。僕が布団を干している傍で黙々とトーストを食べている。
 喉に詰まらないのかなと心配になるが、難なく飲み込んでしまった。そして手のパンくずをそのまま払い落とそうとするので、慌ててゴミ箱を差し出した。

「二階の掃除するから美代子さんのところ行ってて」

 大きなあくびを噛みしめる顔に肩をすくめたら、立ち上がった彼はじっと僕を見つめてぐしゃぐしゃと乱雑に人の頭を撫でて部屋を出て行った。

「子供扱い、されてる?」

 見えなくなった後ろ姿にため息が出る。どう見たって自分のほうが年下なのは明らかだけれど、端から相手にされてないみたいな態度はへこむ。
 あんまり雄弁ではなく、あんまり表情豊かではないけれど、僕はあの人が好きだ。どこに惹かれる要素があったか、それを深く考えるとわからなくなるのだが、小さな優しさが温かい。

 面倒くさがっても鬱陶しがっても、紺野さんは僕を否定しないのだ。この心にある気持ちをないものにはしない。だいぶ無視はされている気はするけれど、絶対に拒否しない。
 だからいまはまったく相手にされていないが、いつかきっと振り向かせてみせるんだ。

「ほんと紺野さんの部屋ってものが少ないなぁ」

 押し入れから掃除機を引っ張り出して日に焼けた畳の上を滑らせる。これが締め切り目前だと資料やらなにやらが散らばっているのだが、基本的にあるのは布団と机、本棚くらいだ。掃除のし甲斐がない、とも思うが片付いているのはいいことだ。

「わっ、風っ」

 窓を開け放っていたので急に吹いた風でカーテンがはためいた。それとともに引っかかったものがバサリと畳に落ちた。
 仕事机の本立ての端っこに少し出っ張っていた冊子のようなもの。掃除機を止めてそれを拾い上げると、それは写真集だった。青色を集めた不思議な写真集だ。

 わかりやすいのは空、海、シーグラス――ほかは青を映し出した空間や外壁、階段、風に煽られたような布、グラスやカップ。色んな色合いではあるけれどすべてが青色だった。
 濃淡のある青が滲むように混ざり合ったシーグラスは特に綺麗だ。鈍い光だけれど宝石みたいにキラキラして見える。

「ふぅん、紺野さんこういうの好きなんだ。青って言っても色んな色があるもんなんだな。すごく綺麗だなぁ」

 かなり年季が入っているのか写真集は少し古ぼけている。表紙が色褪せていたりへこみがあったりちょっとだけ破けがあったり。それでも大事にしているのはなんとなく伝わる。
 それを見て僕は胸をわくわくさせてドキドキさせた。今日のために選んだものは間違いじゃないかもしれないと思えたからだ。そっと写真集を元の位置に戻して小さな含み笑いをすると、もう一度掃除機のスイッチを入れた。


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