略して「好きです」/鬼道有人 鬼道有人という名前を聞いて、そんな奴は知らないという人間は、今の日本に存在しないだろう。 かの有名な鬼道財閥の御曹司で、若くして社長に就任してしまった彼。 経歴までもが有名だ。 優秀な生徒を生み出していく帝国学園在学時は常に首席。 まぁ、何より有名なのは、サッカーでのことなんだけど。 そんな彼に従い、社会に貢献しているのが私だ。 とは言っても、何もすごいことなんかない。 会社で社長に会うことなんかないし、役職のある地位にいる訳でもないし、本当にどこにでもいるただのOL。 …そこまで言うと語弊が生じるかも。 ─────プルルルル、プルルルル。 私のデスクの電話が鳴る。 これは内線だ。 となると、発信元はただ一つ。 「…営業部販売促進課第一班、事務担当の苗字です」 『そんな不機嫌そうな声で対応すると、販売成績が下がるぞ』 受話器の向こうから、愉快そうな声が聞こえる。 私がどんなに眉間にしわを寄せたって、どうせ見えっこない。 相手がそんな場所にいるのをいいことに、思いきり嫌な顔をしてみせた。 「仕事中です。用件は手短にお願いします」 『そんなに冷たくあしらうな。本当に、恋人になってから随分と変わったな、お前は』 当たり前だ、と口パクで言ってやった。 恋人などという関係でなかった当初は、あなたにこんな口を聞ける訳がなかったのだから。 「用がないならかけて来ないでって言いましたよね?」 『用ならある』 「何ですか?」 『お前の声が聴きたかっ』 彼が言い切る直前、電話は切れた。 今回は私じゃない。 恐る恐る右に立つ人物を見やると… (…また、説教と残業の日か) 電話本体から指が離れたと同時に、私はそこへ受話器を静かに戻した。 外は真っ暗。 中もほとんど暗い。 この場に居残っているのは、課長から説教と残業分の仕事を戴いた私だけ。 原因はあの人。前もあの人のせいで私はこうなった。 だから、仕事中はかけて来ないで、って言ってあったのに。 「……はぁ」 もう何度目かわからないため息。 パソコンのせいで肩は凝るし、目も疲れた。 こうしてどんどん、私はおばさんになっていくんだわ… 「そんなにため息をついたら幸せが逃げるぞ」 「もうとっくに逃げてま…」 す、と言い終わる前に気付く。 私が今いる部屋に来ることなんか絶対にないはずの人物。 その人の声が聞こえたからだ。 「俺がいながら、逃げてしまっているのか?」 正確には、あなたのせいで逃げてます。 「…何で、こんなところにいるんですか?」 「明かりがついているのが見えたからだが」 「お帰りにならないんですか?」 「帰って欲しいのならそうする」 本当に…意地が悪いというか何というか。 私が言う訳ない、言える訳ないと思って言ってる。 それがすごく腹立つ。 だけど、事実言えないのだから仕方ない。 私は、すっかり冷たくなってしまったお茶を一口含んだ。 「…社内では会わないという約束じゃなかったっけ?」 隣のデスクに寄りかかる彼に問う。 「もう社員はいない。お前以外」 「そうかしら?隣の情報管理部はよく居残っているけど」 「今日は残らないようにと指示を出してある」 公私混同?権力があるからって、私情でそんなことしていいと思ってる訳? これだから、最近の若い子は。 「残業はこれで何回目だ?」 「あなたから電話を頂いた数引く2回目です」 「何故俺からの電話だと言わないんだ。そうすれば説教もない」 「言える訳ないでしょ、役職もないただの下っ端社員が、社長から電話をもらってるなんて」 絶対疑われる。そして絶対、腫れ物を扱うようにされる。 わかってるから、言いたくない。 「自分が社長夫人であるということは、誰にも知られたくない、と」 「夫人じゃありません」 「いずれそうなる」 大きく綺麗な手が、マウスを握る私の手に重なった。 びっくりして、クリックしてしまうところだった。 「そうしたら昇格も──」 「いい加減にしなさいよこの甘ったれお坊っちゃんが」 近づいてきた顔を、空いていた左手で制する。 本当にもう、これがこの鬼道財閥の社長だって言うの? 笑っちゃうわ。 「権力があるからって、どうでもいいことに使わないでくれる?」 「どうでもいいって、俺は…」 「昇格なんか興味ないの。私は普通に働いて普通に死にたい、向上心の薄い普通の人間。誰かの上に立って偉そうにお茶を飲むなんて、まっぴら御免」 しかもその昇格が、実力の伴わないものならば、尚更。 「社長なんだからしっかりしなさいよ」 この会社で、この子に喝を入れられるのは私だけ。 年上の恋人の特権。 「…すまない」 まるで母親に叱られてしまった子供のよう。 すっ、と離れて、顔を逸らす。 こうして見ると、社長だなんて嘘みたいに子供らしい。 「有人」 名前を呼んであげると、ぱっと顔を上げて、頬を赤に染めた。 私の普段の態度が冷たいせいだろう。 デレを見せると、いつもある余裕の仮面が崩れる。 だから可愛い。可愛い私の恋人。 「あなたは、今の状況に不満かもしれないけれど」 「……」 「私は満足しているの。社内恋愛の醍醐味は、社内でいちゃつくことじゃないし、役職を利用することでもない」 椅子から立ち上がり、それでも高い位置にある顔を覗き込む。 「仕事を終えて、帰宅して、共通の話題を肴にお酒を飲むことよ」 「……おじさん臭くないか?」 「だっておばさんだもの。あなたよりはね」 そう言って笑うと、つられて有人も、くすっと笑った。 「敵わないな、名前には」 あなたがどれだけ背伸びしようとも。 あなたがサッカーをしていた頃から社会人である私を抜かすことは出来ない。 だから支えてあげるの。 あなたが、この会社の天才ゲームメーカーになれるよう。 再び司令塔として、君臨出来るよう。 私の態度も、文句ばかりの言葉も全部全部まとめて、簡単に略して言えば、 「好きよ、有人」 だから、素晴らしく成長してちょうだい。 110325 提出 |