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ボイリング・ナイト




わたしの唯一の男友達と呼べた人間が、特級呪詛師と呼ばれることになったその日。

自分が衝撃を受けているのだとわかる一方で、現実感はまだないまま。とりあえずでも眠りにつこうと寝台の上で目を閉じたわたしの鼓膜に、ドアのノック音が響いた。
これを無視していたら、なんていうのは今だから言えることだ。この日高専にいた人間はきっとひとり残らず不安であったであろうし、わたしもそのひとりであったし、ドアを開けない選択肢はそこになかった。


「……え、」
「…………」

ドアを開けた先には、見慣れてしまった白髪がだらんとして立っていた。
驚くわたしと目を合わせることもせず、ただ黙っている様子はこちらへ恐怖心を与えるに十分だった。

「な、なに……?」
「…………」

問いかけにも答えない塊は、ゆらと揺れるとわたしの傍をすり抜けて勝手に部屋へと入り込んだ。何がしたいのか見当もつかなかったけれど、その異様な雰囲気に呑まれて何も言えずドアを閉める。

「…………」
「……寝ねーの」
「え?」

振り向くと五条悟はこちらを向いていなかった。背中越しに聞かれた質問を反芻する。「寝ねーの」。寝ようとしていたのにお前がきたんだろ、と思ったが黙っていた。
背中から何かを読み取れるほどこいつとの間に信頼も関係もないが、それでもその言葉といつもより覇気のない佇まいから、この夜にここへ来た理由はわかる気がした。

「……あんたも、寝ないの」
「!」

わたしの言葉に視線を寄越した五条はそれまでに見たことのないくらい弱々しい顔をしたかと思えば、傷心と安堵をない混ぜにしたように息を詰まらせては吐いた。
何故だか、今のこの男なら同じ部屋で一晩過ごしても何もしてこないだろうと思えた。無理矢理キスされたことを忘れたわけではないけれど。

呪霊に襲われたわたしを助けてくれたあの日から、五条悟がこちらへ向けている感情がだんだんと柔い輪郭を持っているように感じられて、ずっと居心地が悪い。
傑くんが冗談で言うような青春めいたものではないにしろ、わたしと彼は嫌いの方面で両想いだと思っていたのにそれが間違っていたのかもしれないと考えさせられている。
わたし自身が生きたいかどうかは別としても助けてもらえたことに恩義は感じているが、でもだからといって彼への感情が真反対になるわけではない。ただ少しだけ、五条悟を人間だと認識したことで愛着や憐憫のようなものが生まれているのかもしれなかった。

それ以上は何も言わず布団に入り込むと、五条に背を向けて横になった。
少し間が空いてベッドのスプリングが軋むので、動かないまま「寝るなら電気消して」と言うとまた少し間が空いて部屋が暗くなる。やけに素直で犬のようだった。
背後に体重を感じながら目を閉じて、再び眠ろうと試みる。他人と並んで寝るのなんて、幼い頃に親とした以外初めてだ。硝子と互いの部屋に泊まる時はそれぞれ布団を持ち寄っていたし、そもそも友達もふたりしかいない。

「…………」

寝息が聞こえる気配はなく、かといって何かを話すこともせず、沈黙が流れていた。とてもじゃないけれど、目を閉じているだけでは眠ることなどできなかった。状況のせいなのか、起きてしまったことのせいなのか、何もしていない筈の身体には倦怠感すらあるのに、脳だけがいやに冴えている。
友人として、傑くんのことが好きだった。けれどわたしには何もできなくて、無力だ。
不意に後ろが寝返りをうって、何かがわたしの腹部に触れた。流石に驚いて声が出そうになったけれど、触れたものが五条悟の手のひらだとわかり、引き寄せられた先で肩にかかる彼の頭の重みを感じては、黙るしかなかった。
わたしですら、こんなに悲しくて訳が分からなくて遣る瀬無い気分になっているのだ。きっとこの男にはそんなの比較にもならないほどの後悔や疑問や寂寞が襲いかかっているのだろう。

五条悟は何も言わなかった。
ただわたしの体が今ここにあることを確かめるように抱きしめて、最強を冠する男を受け止めるにはあまりにも頼りないわたしの背中に顔を埋めて、息をしていた。
ひとの体温というのは不思議だった。眠れるわけがないと感じていたのに、体にかかる重みや温もりが、だんだんとわたしの眠気を誘い出している。それに抗ったところで利点もなく、今度こそ眠ろうと息を深く吐く。背後で丸まっている同い歳の少年も、同じように眠れることを祈りながら。



その日以来、わたしが眠りについた後、五条悟は部屋を訪れるようになった。

決まってわたしの部屋の電気が消えて、わたしが寝た後になって布団に潜り込んでくる男は、最初と同じに何かやましいことをしてくるわけでもなく、ただわたしを後ろから抱きしめて眠って、朝になれば去っている。
初めは驚いたものの、そもそもわたしにそれを嫌がる権利もなければ立場もないので放っておいたところ、何故だかそれが今日まで続いている。
まるで幼子が安心して眠るために毛布を求めているようなその様は、拒む側が悪者のように思えて、何も言えずに寝たフリをする他になかった。

仲が良くなったわけでもない。むしろ数の減った特級のひとりとして日々忙しさを増す日中の五条悟とは顔を合わせる数すら僅かになっているし、おそらくではあるがあの日から、五条悟のわたしに対する態度は以前よりさらに冷たくなったようにすら感じられた。




「なあ」

背後から聞こえた声に、一度目は反応が出来なかった。黙っているともう一度、苛立たしげな声が聞こえて、やっとわたしを抱きしめている五条悟がこちらに声をかけたのだと理解した。

「な、に」

返した声が、少し震えているのも掠れているのも嫌だった。これはずっと黙っていたせいであって、お前の存在によるものではないと口早く言い訳をしたい気持ちに駆られて唾を飲む。
そちらが返事を催促したくせに、五条悟はすぐに話し出さなかった。
そもそもが初めてなのだ。この男がわたしを抱きしめては眠ってを繰り返す中で、声をかけてくることなど。

「…………」
「……」
「……嫌じゃねえの」

嫌って何に対してだよと思ってから、この状況のこと以外ないなと自分の中で結論つけた。と同時にため息を吐きそうになる。まだそんなことを言っているのか。わたしにはお前を拒む権利がないと、いつまでたってもこの男は理解しないのだ。
嫌に決まっている、と返しかけて、それだとなんだか言葉の方がわたしの感情よりも強い気がしてまた黙った。少しくらい大袈裟だとしても言えばいいのに、今日までこの男を受け入れてきた自分との辻褄が合わない気がして。それがなんだか恥ずかしいような気がして。迷いに迷って口から出た「別に」という返答は、どうやら質問の主を満足させるには至らなかったらしかった。

「別にってなんだよ」
「いや……だって」
「だって?」

強くなる語気に空気がピリついた。
自分より力のある相手の機嫌を損ねてはいけないという本能的な危機感と、自分の置かれている立場をわざわざ口に出したくない気持ちで逡巡してから口を開く。

「……わたしは、何をされてもアンタのこと拒めないから」
「は、」

わたしのことを後ろから抱き込んでいる腕に力が入り、体を引かれた。視界が動いて、瞬きの次には目の前に五条悟と彼越しに見慣れた天井が見えた。
何もしないだろうと思って許した同衾だが、それはあの日に限った話だ。逆らえないのは事実ではあっても、言葉を間違えたかもしれない。
押し倒したわたしの肩を掴む手には力が入っていた。

「じゃあ、俺が今ヤらせろって言ったら、どうすんだよお前」
「……好きにして、としか、言えない」
「んだよそれ……っ」

珍しく目を合わせてしまった青い相貌が、見開いては悔しそうに歪んだ。
けれどこう言うしかないのだ。目の前の男が望んでいる反応がこれではないことも、それがわたしに向いた感情からきていることも、なんとなくわかっている。
でもだからといって泣いて嫌がることも、口先だけで「貴方なら良い」「好いているから平気だ」などと嘯くことも出来なかった。
あの日、わたしの手を握り必死で名前を読んでいた彼の声を思い出すと、わたしに縋って丸くなっていた最強を冠する少年の弱く震えた呼吸を思い出すと、嘘はついてはいけないと思った。好きではない。目を合わせるのも苦手だった。しかし同じ悲しさを知っている。わたしは、五条悟に同情をしていた。

「俺は、お前のこと……お前が、どう思ってんのか聞いてんのに、」
「……ごめん、わかんない」
「はあ?ほんとお前……わかんないって、なんだよ……」

わたしの胸元へ顔を埋めるように項垂れる、その白髪をぼんやりと眺めては撫でたいような気持ちになっていた。今この瞬間の五条悟はここ最近の中でもいちばんに人間らしかった。
そうして、人である彼から意思を持つことを望まれているのに何も言えないわたしが、わたしだけがずっと人形のままだった。でも仕方がないのだ。たとえこのまま憐憫が恋や愛を勘違いさせてたとしても、わたしにはそれがわたしの本心なのか、幼い頃からかけられた呪いが決めた道筋なのかの判断はつかない。もしここに傑くんがいたら、そこに答えをくれたかもしれないけれど、彼はもういない。
同じ体勢のままお互いが黙り、時計の針の音だけが響いていた。ここからは見えないがおそらく常よりも夜は深く、明日もわたしは学校、五条悟は仕事のはずだった。

「……あの、とりあえず、寝ませんか」
「……」
「寝たいです」
「……最悪かよ、クソ女……」

もぞもぞと胸元の塊が動いて、横に退いたかと思ったらそのまま正面から抱きしめられた。今までは後ろから抱き枕のようにされていたから、手を置いた場所から心音がして、なんとなく居心地が悪かった。

わたしの感情なんか待たなくて良いのに。あの日の最低なキスのようにぞんざいに扱って、わたしはそれを諦めていたら成り立つ関係だと思っていたのに。
目の前の拍動が、わたしが彼に応えることを責め求めているようで、苦しくなる。重さを感じる腕の中で、バレないように耳を塞いだ。