小説 | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -





絶対的少年値



荒れ果てた高専の地面に染み付いた跡を見て、五条悟の血も赤いのかと、今さらなことを何故だか思った。

天内理子の件は、事が全て終わった後に本人たちからではなく高専の職員から聞いた。純粋に、同じくらいの年の女の子が殺されてしまったことに対して悲しさや哀れみを覚えると同時に、何故だか少し羨ましいようにも思えてしまって、それもとても悲しかった。死を以て得る自由を羨むなんて、きっと生者の傲慢だ。



「準一級の任務ですか?」
「あくまで私たちと同じような補佐の役目でなら、と思いまして」

困ったような顔をする補助監督の男性に、なんだか申し訳ない気持ちになる。わたしの扱いは、きっとそれはそれは面倒くさいものだろう。
本人に大した力もなければ、家だって別に格式高くもなんともない。ただ「あの」五条の所有物である以上、何もさせないわけにもいかない。けれど傷をつけるわけにもいかない。その上、呪術界は常に人手不足だ。厄介極まりない女でも、使わなければ回らない。

「大丈夫です。資料、明日までに読んでおきますね」
「よろしくお願いします!」

足早に去る背中を見送って、手元の資料に目を落とす。
本来ならこんなものも渡されない。祓除が目的ではなくまだ調査の段階だと言っていたが、それでも早く対処するに越したことがないであろうものに、わざわざ日を置くのもきっとわたしの為だ。
漏れそうになったため息を、なんとか飲み込んだ。気を遣われていたとしても、用意された仕事なのだ。きちんとやらなければ、ここでもわたしは「いらない」ものになってしまう。




「ナマエ」
「傑くん」

声のした方へ振り向くと、傑くんと五条悟が並んでこちらを見ていた。傑くんは優しくていい人だけれども、たまに性格が悪い。何も五条悟といる時に声をかけなくたっていいのに。

あれから、五条悟とは特に何もない。ただ単にあれは嫌がらせだったのか、わたしから思ったようなリアクションを得られずに興醒めしたのか、キスはおろか触れてもいない。たまに事務的な会話をする程度で、以前と同じ距離を保っている。

「聞いたよ、任務行くんだってね」
「うん。まあ、わたしは前線に立たないお飾りだけどね」
「でも聞いた話によると、最近等級が準一級まで上がった案件らしいじゃないか。無理せずね」
「は?」

わたしが「ありがとう」と答えるより先に、不快さを隠すことなく含んだ声が傑くんの言葉に被さるように落とされる。
確認するまでもなくそれは五条悟によるもので、わたしが目線を向けた頃にはとっくに、彼の六眼はこちらを睨みつけていた。

「お前が?準一級?は?」
「悟、そんなに捲し立てない」
「こんな雑魚即死だろ、死にてーのかよ」

「そうだよ」と答えたらどんな顔をするんだろう、と思いながらまた目線を逸らした。見慣れた床とつま先が視界に入って気が落ち着く。
別に良いじゃないかと思う。五条悟に必要とされたいとは思わないけれど、誰かに頼ってもらえたり、必要としてもらえるのはわたしにとって一種の慰めなのだ。たとえそれが、おべっかであったとしても。
傑くんが五条悟を宥めているのを、不思議な感覚で聞いていた。いらない女なら、いつどこでどうやって死のうが構わないだろうに。そうしたらお前だって、この先に出来る、もしくは既にいるかもしれない好きな女と正式に結婚でもなんでもできるのに。



「では、ミョウジさんはここで待機していてください」
「わかりました」

高専と似たような山奥。トンネルの中に入っていく先輩と補助監督を、車の側から見送る。
今年に入ってから数人が、全国各地で神隠しのように消えている事件。今回はそれの調査らしい。と言ってもわたしは車と共に待つだけの役目だが。つい先日に行方不明者が出た現場はなんとなく嫌な雰囲気で、そこに何かが「いた」ことを明確に感じさせた。

これなら暇つぶしに本でも持ってきたら良かったな、なんて思いながら報告書を捲る。
今回の案件はもともと都道府県も発生時刻も状況も異なる為に、それぞれ別の事件として処理されていたものだ。高専が調査をすることになった理由は、被害者の身辺に聞き込みをしていて浮かび上がったとある共通項。
被害者は皆、おそらく呪霊が見えていた。

この一連の事件を一体の呪霊が連続して行っていたとするならば、その呪霊にはある程度の知性があり、慎重に行動する理性もあることが窺えた。それを踏まえて、準一級にまで等級が上がっている。
トンネルを抜けた先、車の入れない山奥にかかった帷に視線を向ける。

「大丈夫かな……」
「だいじよようぶだよ」

背後から突然聞こえた知らない声に振り向くよりも早く、腹部に焼けるような痛みが走った。咄嗟に見やった先、自らの腹を貫く何かの爪か牙か鋭いものが、わたしの静脈血で赤黒く濡れている。
ひゅ、と喉が鳴った。痛みで呻いたつもりなのに、声が出てこない。

「きみすごいねおねおいしそう」

耳元から聞こえるような、足元から聞こえるような、骨の奥から響いてきたような。全身の皮膚が粟立つ声色のひとことに、全てを理解した。
ああ、こいつもわたしの呪力狙いか。
わかった途端に全身の力が抜けた。なんなんだ、どいつもこいつも。



「おおおきた」

目を開くより先に声がして、意識が完全に覚醒するより先に腹部の痛みで息が詰まった。恐る恐る視線を向けると、わたしの腹から地面にかけて赤黒い血が溢れ出している。
わたしは何故だかそれを見て、おそらく今はそんな場面ではないだろうに、あの日地面に染みていた五条悟の血の色を思い出していた。どこを刺されたって言ってたっけ。あの男がこんなふうに痛み苦しんでいる様なんて、想像がつかない。

「ままだまままだししなないでね」

声のした方には何かの気配がしていた。恐らく呪霊だろう。食うなら意識のないうちに済ませてくれたらよかったのに。
なんて、なんとなくわかっている。この呪霊がわたしを生かしているのは、わたしのこの体質を最大限に享受するためだ。
女がいちばん力に満ちるのは、その腹に命を宿している時であろう。この呪霊は何らかの方法でわたしをその状態にしてから、自らの養分にしたいのだ。だから「しなないでね」。
じわじわと全身を蝕む失血の重みに、浅く荒い息を繰り返しながら、ああ、と実際にはつけない溜息をついた。そんなことでしか生を望まれない。ほんとうに最初から最期までずっと、わたしは胎としか扱われないのかと、自分の人生という名の物語の一途さに呆れ返って吐き気がする。

天内理子も、死ぬ間際はこんな気持ちだったんだろうか。生まれてきた時から何かの為の存在で、そのために自分を奪われて。
けれど彼女は殺されてしまう前に「生きたい」と言ったという。わたしは今自分の人生に呆れ怒り、嘆きこそすれ、では生きたいのかと問われたら、なんと答えたら良いのかわからなかった。


ごぷり、と喉から音がすると意識に反して口が血を吐き出した。それを見かねたのかカチカチと足音らしからぬ足音が聞こえ、蜘蛛の手足のような細長い何かが視界に入った。わたしを襲ったのはこんな形のやつだったのか、とぼやけた頭で認識する。知性があると思われていたが、腹を貫けば人は孕むどころか先に死ぬということがわかっていないようなら雑魚だな、と悪態をついた。これなら五条悟に飼い殺しにされる方が、見た目だけは良くてマシかもしれない。

なんて思っている間にも腹から血は流れ、思考にはどんどん霞がかかっていた。寒い。死ぬなと言われたけれど、無理かもしれない。守る義理は何ひとつないのに、言われたとおりにできない謎の罪悪感のようなものを感じながら、勝手に閉じる瞼に抗うことができなかった。
朧げな頭の中で声がする。わたしの名前を呼んでいる。聞いたことがある。あの男の声に似ている。やだな、最後くらい硝子や傑くんの、優しい声を聴いていたいのに。なんでそんな乱暴に呼ぶの。なんでそんな荒っぽいの。


「……ナマエ、…ッナマエ!!」

怒っているような、焦っているような声が、霞の隙間から漏れ聞こえた。瞼を動かすことはできなくて、聴覚と、手のひらを誰かが強く握っている感覚だけがある。

「硝子、はやくしろって」
「やってるだろ、見てわかれ」

全てが鈍い全身の中、手のひらだけが世界との繋がりをじわじわと覚えていた。骨が軋むほどに握られているそれは、わたしの意識をぼやけた向こう側から引き寄せるかのようだった。
大きい手だなあ、と今更なことを何故か思った。こんなに大きい手なら好きなものを好きなだけ掴めるだろうに、なんだってわたしの手なんかを必死になって握るんだ。
何度も何度もわたしの名前を呼ぶ声に、少しずつ体の輪郭を取り戻す。目を開けたがる体に反応して瞼が揺れると、手を握る力が強まったのを感じた。わかったって。わかったから、もうそんなに泣きそうな声で名前を呼ばないで。

「ナマエ、」


やっと目が開いて、認識したのは古びた天井の木目と視界端に揺れる黒髪だった。

「ナマエ」

安堵の色を含んだ傑くんの声は耳の奥に残るそれとは違い、穏やかだった。
カラカラの喉から彼の名前を呼ぶと、自分で思っていたよりずっとかさついて弱々しい音が出た。それに傑くんは少しだけ眉を下げて、傷を硝子が治してくれたこと、治した後もしばらくそばに居てくれたけれど彼女自身も消耗していたために交代して今は休んでいることを教えてくれた。

「よかったよ、悟が間に合って」
「……そう」
「うん。あんな必死な悟初めて見たよ。やりすぎてトンネルを半壊させるから怒られていたし」

先生を呼んでくる、と席を立つ傑くんに何も言えないまま自分の手のひらを見つめる。まだ骨に、指の感覚が残っているようにすら思う。
自分の記憶も、傑くんの言葉も、この感覚も、あの時手を握って名前を呼びかけていた人物が五条悟であることを確かにしていた。それでもどこか信じられないのは、今日までわたしが知り得た彼は絶対にそんなことをしないことも確かだからだった。
普段向けられる視線の温度とあまりにも噛み合わない。そこにある意味を、ほんとうは感じ取るべきで、しかし今はまだ感じ取らない方が良い気がして手のひらを握る。



「脳が焼き切れるよ」
「自己補完の範疇で反転術式も回し続ける」

怪我も治った昼下がり、少し離れたところで三人がしている会話を聞きながら、五条悟の横顔をぼんやり眺めた。
何やらすごいことが出来るようになって、それを行うためにさらにすごいことを出来るようになっているらしい彼は、まるで違う次元を生きているかのように思うのに、その血はわたしのそれと同じに赤く、手のひらは温かく、頭の先からつま先まで人間であるらしい。
思えばわたしは今まで、五条悟という強大すぎる何者かに呪われた気で生きていたが、実はそうではないのかもしれない。

あの日の手の感触が、未だに思い出される時がある。「いらない」はずなのに、まるで大事なものかのように、必要なものかのように扱われては、わたしはどちらとして生きたら良いのかわからない。
硝子が面白がって投げるさまざまなものを弾いている五条悟を見ながら、だとしても、だとしたら、尚更商品としての「わたし」はいらないんじゃないかと思う。わたしの呪力なんかなくても、彼はもう既に最強なのだから。