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ストロベリーショートケーキ




「野分くんって兄弟いる?」

部屋の湿度を少しだけあげながら濡れた髪をそのままに戻ってきた彼は、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのキャップを開ける。わたしの家だというのに、彼が好き勝手にモノを使うのはいつものことだった。許可をしたのはわたしだから、何も言わずにそれを眺める。
野分くんはわたしの質問に「いませんよ」と答えてから、綺麗な喉仏を上下させる。

「どうして?」
「今日バイト先の駅前でかわいい男の子を見かけたんだけど、なんか野分くんに似てて」
「へえ、僕とどっちがかわいいですか?」
「すぐそういうこと言う」

いつものこと。この光景に慣れてしまったのはいつからだったか。野分くんのマイペースも、わたしの冷蔵庫に彼のためのミネラルウォーターが置かれているのも、当たり前のように彼がシャワーを浴びて出てくるのも、その背中も全部、見慣れてしまった。
ペットボトルを持ったまま、わたしが座るソファに近づくと隣に座る。まだ濡れたままの髪が視界にうつって、彼の肩にかかったままのタオルへ手を伸ばした。

「拭いてくれるんですか?」
「うん」

わたしは野分くんのことを何も知らなかった。知っているのは野分火丸という嘘っぽい名前と、ひとつ下の十九歳だということと、警察のお手伝いのお仕事をしているらしいということだけ。
だから今日、バイト先に向かう途中の駅で彼に似た男の子を見かけた時、もしこの子が野分くんの弟とかだったら知っていることがひとつ増えるな、と少し浮かれたのだけれど、それも違ったようだ。わからないことはたくさん。知っていることは、今までと変わらない。ああ、野分くんには兄弟がいない、これはひとつ増えたこと。

出会ったきっかけは、わたしが前のバイト先である居酒屋帰りに、変な酔っ払いに絡まれていたところを助けてもらったことだった。怖かったせいであんまり詳しく覚えていないのだけれど、気がついたらスマホに野分くんの連絡先が入っていて、気がついたら定期的に家に来るようになっていた。

恋人、とは言わないのだろうなということはなんとなくわかっている。けれど体だけの関係というにしてはただ家に来て話すだけの時も多くて、彼が何を目的にここへきているのかは定かでなかった。
一度、二ヶ月近く連絡が取れなくなった時があって、その時は「ああ、飽きられたのか」と失恋じみた気持ちになったのだけれど、その後野分くんは何事も無かったかのように、ケロッとした顔でわたしの家のドアを再びノックした。二ヶ月ぶりに見た野分くんは相変わらずで、右腕に巻かれた包帯だけが以前と違っていた。
聞くと、酷い火傷を負ったらしい。それをまじまじと見つめていたら「生々しいので見せません。ちょっと痛いのであんまり触らないでくださいね」と言われて、ただ黙って頷くしかなかった。そこでもわたしは、野分くんのことを何も知れなかった。

「っ、の、わきくん」
「なんですか?」
「す、するの?」

ぼんやり考え事をしながら彼の髪を拭いていたら、いつのまにかお腹に手が触れて、腰へかけてスルスルと撫でられる。野分くんはしない時でもいつもわたしの家に来たらすぐシャワーを浴びるから、何が「そういうこと」のサインなのかを未だにわかっていなかった。
「だめですか?」と言いながら野分くんはもう既にソファにわたしを押し倒していて、タオルを持っていたはずの手には彼の細くすらりとした指が絡められていた。

「だ、めじゃない、けど」
「じゃあ、しましょう」

しましょう、と言ってするのも変な話だ、と思いながら目を閉じる。

「野分くん、すき」
「知ってます、顔に書いてありますから」

そっか、野分くんは知っているんだな、と服を脱がされているのにぼんやりした。
結局わたしは何にも知らない。彼のことも、彼がわたしのことをどう思っているのかも、この関係が何という名前なのかも。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


彼女のことは全部知っておきたかった。出身がどこで、大学で何をしていて、友達がどのくらいいて、どこでバイトをしていて、僕のことをどう思っているのか。

「野分くんって兄弟いる?」

だからこの質問をした理由を聞いて、反射的に眉を顰めてしまった。バイト先って、彼女はここから歩いて行ける距離の居酒屋で働いていた筈だ。詳しく聞くと数週間前に大学の方にあるケーキ屋に変えたらしい。自分に何の報告もなく、またそれに気づけていなかったことにイラつきながら大人しく髪を撫でられた。
年上だというのに僕より遥かにアホそうなこの人は、恋人ではない。たまたまウチの管轄でたまたま怪物に絡まれていて、なんとなく近づいてみたら相性が良かった、それだけ。
組み敷かれているのに何の危機感もなさそうに、僕のことを信用しています、と顔に書いてあるのが滑稽だった。僕のことなんて、何も知らないのに。


「ありがとうございましたー!」

明るく響く彼女の声に、呆れと自嘲の両方を含んだ笑みが漏れてしまった。わざわざ新しいバイト先を確認しに来たのは、立地とまわりの雰囲気のチェックと、不用意に仕事で出くわすことがないようにする為であって他意はない。調べさせればすぐわかることでもあるが、調べたことの形跡が残るのが嫌だった。
彼女の存在はなるべく秘めておきたかった。恋人ではないのだからそんなに丁重に扱ってやる必要もないとは思いつつ、恋人ではなくともあのキツネババアに知られれば弱味としてつかわれる。勝手に巻き込んでしまっては可哀想だという愛着くらいは持っていた。

場所も確認したし、この店は怪物との繋がりもない。居酒屋より遥かに安全だろう、と踵を返したその時、ヘッドホンで覆っている耳が厭らしさを含んだ男の声を拾う。

「いいじゃん、いま暇でしょこの店。ケーキあとで買うからさ、連絡先教えてよ」
「こ、困ります」

はぁ、とため息をついた。なんでそう、変なモノを釣ってしまうのか。そういう隙につけ込んで都合の良い関係として彼女を置いている自分が言えたことではないが、もう少し断る技術をつけた方がいい。
店のカウンターでおろおろしている彼女に目を向けると、どうやらふたり組の男に絡まれているようだ。

「……、仕方ない」

2秒ほど逡巡して、店の方に足を向ける。ほんとうはこの姿で会いたくはないけれど、着替えている間に彼女はきっと押し負けてしまうだろう。

店の自動ドアが開くとチリンチリンとベルが鳴って、六つの視線がこちらに向く。
僕の姿を見て「あ!」という顔をする彼女は無視して、色とりどりのケーキが並ぶショーケースに近づいた。

「い、いらっしゃいませ!」

男たちから逃げる口実を得て明らかに安堵した表情の彼女がこちらに寄ってくる。「おつかいですか?」と言うので適当に「そうです、母に頼まれて」と答えた。
当たり前に会話を始めた僕たちに腹が立ったのか、男のひとりがショーケースを殴り音を立てる。振動でケースの上に並んでいたクッキーの袋が数個倒れてしまった。

「おいおい俺らが先だろ?何割り込みしてんだよガキ」
「え?買わないのかと思って」
「ハァ?」
「だって財布ないですよね?」

言いながら店の外を指さす。さっき男から抜き取った品のないスタッズだらけの財布を、タイミングよくカラスが突いているところだった。

「早くしないと飛んで行っちゃいますよ、カラスは光るものが好きですから」
「なん、はぁ!?なんでだよ!いつ落とした!?」

慌てて財布の方へ駆けていく男がベルを鳴らすのと、スタッズを咥えたカラスが飛びたつのが同時だった。ほんとうは財布を燃やしてやろうかと思って火種を仕込んでいたのだけれど、まあカラスがやってくれるならその方が自然で良いか、と手をしまう。

「……君がやったの?」
「いいえ、たまたま財布が落ちていたのでそうかなって。それより、おすすめはどれですか?」
「あ、えっと……」

いいえ、と言えばそれを信じてしまうのだから簡単で良いが、いつか絶対に痛い目に遭うだろうなと思う。こんな子供の質問にまで真面目に季節のオススメだとかいちばん人気だとかの紹介をする彼女のような人間は、もっとちゃんとした男といた方がいい。ちゃんとした、というのは正式に人間で、正式な恋人になってくれるという意味の。

「お姉さんがいちばん好きなケーキは何ですか?」
「え?うーん、いちばんはやっぱりショートケーキかなあ……」
「じゃあそれをひとつ」
「ひとつで良いんですか?」
「はい。僕は食べないので」

実際には「僕しか食べないので」だ。甘いものが嫌いなわけじゃないけれど、2個も食べるのはちょっとキツい。
丁寧に梱包された箱を受け取って店を出ると、さっきも聞いた「ありがとうございました!」が背中にかかった。何の疑いもなく優しさを振りまく彼女はやはり滑稽で、それでいて愛しいと思えてしまった。どこでこれを消費しようか、と考えながらスマホを見る。いちばん好きなのはショートケーキ、か。
他の男の方がいい、と思った矢先に考えるにしてはあまりにも矛盾している思考に、このエゴを彼女に分けてやれたらちょうどいいのに、などと考えた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



インターホンが鳴って、大学の課題から顔を上げた。何か宅配を頼んでいただろうか。野分くんは今朝出て行ったからしばらく来ないだろうし、セールスか宗教勧誘か。居留守を使おうかな、と思ったところでもう一度インターホンが鳴る。

「連絡したんですけど、見てなかったんですか?」
「え、あ、ごめん」

恐る恐る開けたドアの向こうには野分くんが立っていた。連日来ることなんて滅多にないのに、というか初めてかもしれない。

「どうしたの?忘れ物?」
「いえ。これ、仕事でもらったのでお裾分けです。好きでしょう?」

スーツのネクタイを緩めながらこちらに手渡されたのはネットで話題のケーキ屋さんの箱だった。フルーツがこれでもかと乗っていて見た目から美味しそうなのだけれど、確かすごく高い。警察のお仕事ってこういう差し入れとかがあるのか、すごいな。なんて思いながら箱を開くと、中にはひとつしかケーキが入っていなかった。

「ひとつしかないけど、わたしが食べていいの?」
「僕は昼間食べたので」
「そっか」

ケーキ屋でバイトをして一日甘い匂いに囲まれているのだけれど、うちのお店は廃棄の処理に厳しいのでおこぼれを貰えることはなかった。頻繁に買うには高いのがケーキというもので、お財布事情的に日々欲だけを溜め込まざるを得なかったところにこんな高級店のものが貰えるなんてラッキーだ。しかも、わたしのいちばん好きなショートケーキ。なんで知ってるんだろう。わたしが忘れただけで、いつかその話をしたんだっけ。

野分くんがシャワーを浴びて出てくるのを待って紅茶を入れたら「待っていなくて良かったのに」と笑われたけれど、貰ったものを勝手に一人で食べてしまうのはなんとなくわたしには出来ないことだった。
彼の分も紅茶を用意してからケーキをお皿に出す。いただきます、と手を合わせてからフォークを入れた。いちごがたくさん入っているから、生クリームとスポンジはこんなに柔らかいのにうまく掬えない。
結局大きな塊になってしまって、それを口いっぱいに頬張るとクリームの甘さとイチゴの酸っぱさが広がって、幸せの味がした。向かいに座った野分くんは頬杖をついてわたしがケーキを食べる様を眺めていたのだれど、不意にその口を開く。

「もし、そのケーキに毒が入ってたらどうします?」
「え?」
「……なんでもないです」

質問の意味がよくわからなくて、ショートケーキを見下ろした。これに毒、入っているんだろうか。悩んでいると「毒は入ってませんよ。というか今ひとくち食べたでしょう」と言われた。そうだった、毒入りケーキだとしたらわたしはもうとっくに死んでいた。
続きを口に入れる。変わらず幸せの味がする。もしケーキに毒が入っていたとしても、それがこの味をしているならわたしはきっと文句を言わないだろう。それが野分くんがくれたものであるなら尚更。
そう告げながら顔を上げると、野分くんは見たことのない顔をしてこちらを見ていた。いつも笑顔か、真顔か、ちょっとえっちな顔くらいしか見せてくれないから、今のこの顔がどういう感情なのかわからなくて、知らないことがまたひとつ増えてしまったな、と思った。

「野分くん」
「なんですか?」
「わたし、野分くんのこと好き」
「……僕も好きです、あなたのそういうところ」

いつもみたいな答えが返ってくると思ったのに、違う言葉が脳に入って混乱する。わたしのことを好き、と言った時の野分くんはさっき見たのと同じ顔をしていて、さっきも好きだと思ってくれていたのかな、なんて自惚れたことを思ってしまう。

「の、野分くん」
「はい」
「….…、やっぱなんでもない」

そのままの勢いで、「わたしたちってどういう関係?」と聞こうとして思いとどまった。野分くんがわたしを好きなこと、好きだと思う時にあんな顔をすること、知っていることがふたつ増えたからって欲しがりすぎてはいけない気がした。わたしはきっとこれで十分、好きと言ってもらえただけで満足するべきだ。
引っ込めた言葉と一緒に俯くとカタ、と音がした。野分くんが椅子から身を乗り出す。彼の左手がゆっくり伸びて、わたしの頬を撫でる。

「もっと欲しがっていいんですよ、恋人なんだから」
「え」

瞬きをすると、いつもの笑顔の野分くんが小首を傾げた。「だめですか?」と聞かれて、手に握ったままのフォークが震えた。

「だ、めじゃない、けど」
「じゃあ、そう思っていてください」

今さら恋人でいいんだ、とか、勝手に、とかきっと文句を言ってもおかしくない場面なのに、わたしは喜びで口をはくはくとさせたまま何度も頷く。今日はすごい。みっつも、知れてしまった。

「野分くん、すき」
「知ってます、顔に書いてありますから」