小説 | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -





1



四月。
まだ少し肌寒い風の中に、春の息吹を感じられる季節。
その風を浴びながら、教室の隅で本日何度目かの欠伸を噛み殺した。
何故か教卓でパンダとジェンガをしている可愛いかわいい恋人をボーッと見つめながら、頭の中ではここ数日同じことをずっと考えている。
先の欠伸を引き起こした寝不足も、彼女が原因のひとつだった。

想いを伝えあって、晴れて恋人同士となってもうしばらく経つ。
ふたりで出掛けたり、手を繋いだり、恋人らしいこともしたし、ふたりきりで過ごす時間も増えた。
前よりは確実に距離が近くなっているのだけれど、一方でそれ以降の進展がないのが目下の悩みであった。
呪術師といえど高校二年生の健全な男子ではあるので、好きな女の子が隣にいたらアレやコレやをしたくなる。が、
いかんせん生まれてこの方色恋沙汰とは無縁の世界で生きてきてしまったせいで、世の男女がどうやってステップを進めているのかがまったくわからない。

ついに昨日の夜は「キス はじめて いつ」という絶対に人に見られたく無い検索履歴を残してしまったのだが、最終的にたどり着いたのが「はじめてのチュウ」の歌詞だったので壁に向かってスマホを投げた。
それはチュウが出来た側の曲だろうが。それが出来ないからこっちは悩んでいるというのに。
あんな胴体が風呂桶で出来ているカラクリ人形にすら遅れをとっているのかと、イラついて枕に顔を埋めた。

ナマエのことは絶対に、何よりも大事にしたい。
けれど、許されるのならもっと触れたい。

相反しそうな感情を抱えて、きっと今日も眠れない。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「ナマエって棘以外と付き合ったことあんの?」


任務終わりの放課後、教室に入ろうとして聞こえた会話に動きが止まる。
前もこんなことがあった気がする。あれはたしか憂太とナマエの会話だったか。だいたいこういう時、話を聞いてしまうと落ち込むことになるのは経験で知っている。
今回だって聞くべきじゃない。しかし頭ではわかるのに動けない。
ナマエの過去の恋愛なんて、知ったってどうにもならないのに。

「う、うーん……ある、といえばある……」
「何その煮え切らない感じ」

ある、と聞いて思わず息が止まった。
特級呪霊相手でもこんなにダメージを受けない気がする。
これが物理だったら死んでいたと思いながら、でもまあ、そうだろうと納得する自分もいた。
高校は女子校だが中学までは共学だったと聞いたし、そういうことのひとつやふたつあっても不思議ではない。
ナマエはあんなストーカーがついてしまうくらいには可愛いし、自称神様にあそこまでさせるくらいには庇護欲を駆り立てる。
これを真希に言うとただの贔屓目で盲目だと切り捨てられるけれど。


「中学の時に先輩から告白されて、なんとなく付き合ってみたんだけど一ヶ月もしないで別れちゃったの。だからカウントするか微妙だなーって」
「あーはいはい。なるほどね」

何がなるほどね、だ。パンダの軽い調子に少し腹立ちながらも聞く耳を止められない。
すぐ別れたというけれど、ナマエとその男はどこまでの仲だったのだろうか。
こんなことを考えるのは女々しいし、ナマエだっていい顔をしない筈だと思うのに、ここ最近の自分の思考回路も相まって悪い方にばかり想像が進んでしまう。


「ナマエモテるんだなー」
「違うって。ぱっと見地味だし、大人しくて言うこと聞きそうな女に見えるだけじゃない?舐められてるんだよ、いっそ金髪とかにしようかな」
「イイじゃん、つよそう」

それから会話はやりたい髪型の話に逸れていき、これまた前回と同様に後から来た真希に小突かれて教室に入った。
パンダやナマエが話題を蒸し返すことはしなかったし、自分も何も聞いていないかのように振る舞った。
頭の中は、ナマエの過去でいっぱいだというのに。




「……ぬまきくん、狗巻くん!」

は、と我に返る。ナマエが録画を忘れたというドラマを、自分の部屋で一緒に見ている途中だった。
せっかくふたりで居るのに、顔も知らぬ男のことばかり考えていて自分が嫌になる。
別に彼女の初めてにこだわるつもりはないし、そんなことでナマエへの気持ちが変わるほど弱い恋慕ではなかった。
何があってもナマエのことだけはずっと好きだと言い切れる。けれどだからと言って気にしないかと言われたら、それは別問題だ。


「大丈夫?体調悪い?」
「おかか」

心配そうにこちらを覗き込むナマエに、なんでもないと首を振る。彼女は1ミリだって悪くないのだから、そんな顔をさせてしまうのが申し訳なかった。


「……わたし、今日は帰ろうか?」
「おかかっ、」

言いながら立ち上がろうとする彼女の手を咄嗟に掴む。
ぼんやりしていたのは自分のくせにそれでも一緒には居たいなんて、わがままでダメな男だ、と自分で呆れた。
掴まれた手を離すことはせず、ナマエは元のように座り直した。なんだか情けなくて、顔を見られない。


「狗巻くん、」
「、ツナ……」
「……ぎゅってしていい?」


驚いて顔を上げると、ナマエは少し顔を赤くして、目線を泳がせていた。

「あ、いやあの、具合悪い時はハグするといいよって、ネットで……見たので……」
「……しゃけ」

こんな気分でも、しどもろどろな様子はかわいいと思えた。それに負けて頷くと、ナマエはおずおずと近づき、腕を広げて首元に抱きついた。
ふわ、とナマエの香りがしてゆっくり背中に手を回した。
この柔らかさを知っている人間が他にも居るのだと思うとモヤついて、彼女の首筋に顔を埋めてそれを消そうとする。
自分がこんなに心が狭い人間だなんて思わなかった。寛大とまでは思わないが、いろいろなことの諦めはつく方だと思っていたのに。


「いぬまきくん、」

名前を呼ぶナマエにそちらを向くと、思っていた以上に近い距離で目と目があって、反射的に生唾を飲み込む。
近さに狼狽える自分を他所に、あろうことか、ナマエは瞬きをしてゆっくり目を閉じた。
これはつまり、そういうことだろうか。
ほんとうにしてもいいのか、と期待する一方で、こんなぐちゃぐちゃな気持ちのままするのはなんだか嫌で、数秒躊躇う。
と、なかなか動かないこちらに痺れを切らしたのかナマエが閉じていた目を開く。少し泣きそうな潤んだ瞳が揺れる。


「……キス、してくれないの?」


心臓が爆発するかと思った。愛しさと下心と何か知らない衝動で、ごちゃ混ぜになった好きの感情が、肋骨の中でバケモノのようにのたうち回る。
したい。したいに決まっている。けれどやはり、こんな気持ちのまましたくはなかった。

「こんぶ、明太子」

逡巡した後ポツポツと、聞いてしまったことと思っていることを白状する。
こんなことを考えていることが知られたら、幻滅されるだろうか。勝手に過去を知って、勝手に嫉妬して、女々しい男だと見限られてしまうかもしれない。
けれどナマエは首に回した腕をそのままに、瞬きを数回繰り返す。


「そんなこと考えてたの?」
「しゃけ……」
「ならもっと早く話せばよかったね……ごめんね」

その言葉に首を振る。彼女は何も悪くないのだから、謝る必要はなかった。
「あのね、」と言いながらナマエは恥ずかしそうに目線を泳がせた。


「先輩とは手も繋いでないの。何にもしてなくて……というか何にもしなさすぎて「なんか違う」ってフラれたんだけど……」
「……すじこ」
「だからね、あんな風に手繋いだのも、こうやってくっつくのも、その……えっと……その先も、全部。狗巻くんが、は、はじめて、なので……」


照れて口籠もりながらも、そう伝えてくれるナマエの優しさが胸に痛かった。
何も知らないし何も経験がない、男としての自信のなさがこんな後ろ向きな思考回路を作っていることは、自分でわかっていた。たとえ準一級術師の肩書きがあろうと、それは彼女の前では意味をなさない。

首に回された手が制服の背中をきゅ、と掴むので覗き込むと、頬を染めたナマエが上目遣いでこちらを伺うようにする。


「あの、狗巻くん、わたしも聞いてもいい?」
「?、こんぶ?」
「えっと……狗巻くんにも他に好きな女の子とかいたのかなって……」
「おかか、おかかっ」

控えめに投げかけられた疑問に、全力で否定を返す。あんなにモヤついていたくせに、逆の立場で考えることを全くしていなかったせいで、この問いは目から鱗だった。
ナマエはきっと、呪術師の世界がどこまで血生臭いものなのかをまだ知らない。
普通の、彼女がいた世界の尺度で考えれば、自分にだってナマエのように過去があった可能性だってあるのかと、ここにきて気づく。


「すじこ、明太子……」
「そりゃ気にするよ……!え、あ、嫌だった?重い……?」
「おかか!」

彼女も自分と似たようなことを考えるのだと知って、なんだかホッとする。
ずっと憧れに近い感情を抱いていたせいか、ナマエは自分のような鬱屈としたことを思うわけがないと思い込んでいたけれど、そんなことはないのだと。安堵と共に愛しさが溢れて、引き寄せるとナマエが擦り寄る。


「……いぬまきくん、」

同じように名前を呼ばれて顔を向ける。
先ほどよりも近い距離で、ナマエが目を閉じる。心臓の音が何もしなくても耳元から聞こえた。
少し震えそうな手で頬を撫でて、そっと唇を重ねる。
自分より少し体温が高くて、柔らかい。鳩尾が熱くなって、抱きしめている腕に力が入る。ゆっくり唇を離して額をくっつけると瞼を開けたナマエが笑う。


「ふふ、やっとしてくれた」
「……ツナ」


その言葉に胸のうちが切なくてたまらなかった。もう一度をせがむと、頷くナマエに口付ける。
少し離して、角度を変えて、何度も。耳たぶが燃えるように熱い。
あの歌詞がようやくわかった気がする。これは、また今夜も眠れない。