「ヘパイストス。お待ちなさい」
「はい。母上」
ヘラは鈍く痛む頭を押さえ溜息を吐いた。傍に侍ったイリスが憂慮顔で何か言いかけたのを目で制す。
青空の広がるオリンポス。その空が憎々しいくらいにヘラの心は暗澹としていた。
先頃、息子達が起こした事件は全くの醜聞であった。それも嘲笑を呼ぶ類の。
夫が妻に姦通されたというだけでも充分に醜聞なのだが、夫が妻と情夫を衆目に晒すことでその度合いは格段に増した。更には夫と情夫は兄と弟なのだ。
当事者は彼女の息子達、則ち兄ヘパイストスと弟アレスの兄弟である。事件の渦中にはもう一名、ヘパイストスの妻でありながらアレスと通じたアプロディテがいるのだが、兎も角、ヘパイストスとアレスはヘラの息子であり、それがヘラにとって堪え難いことであった。
目の前にはヘパイストス。あまり出歩かない彼を見かけてヘラは何を言うか定まらないまま咄嗟に呼び止めたのだった。思えば事件以来面と面を向かって話すのは初めてである。
「何か」
平淡な声で言ったヘパイストスは髪を切り幾分か印象が変わっていた。
ヘラは不意にぎくりとする。
別に疚しくはない。うろめたくもない。後悔もしていない。その筈だ。
乏しくなった表情で著しく何かを損ねていた反面、目に掛かっていた前髪も短くなって左右で違う色の瞳がよく見えた。焦点の合っていないようなぼんやりとした覇気のない視線。その奥。自分を責めるような気配への咄嗟の反駁だった。反駁こそが自身の罪悪の在りかを告白しているのだがヘラはそれに気付かない。否、気付かないふりをした。
ヘラのヘパイストスへの罪悪。それは彼を、彼女の息子を、嬰児を棄てたことに起因している。
ヘラとて自分のしたことがどういうことだったか、充分に理解していた。非道と言われようと当時の自身を責めるつもりはない。そういう意味では彼女は後悔などしていない。それは事実だ。
だからヘパイストスが少しも自分を赦さなくても、それ以上に恨んでも仕方がないことだとヘラは思っていたのだが、我が子と認知してからヘパイストスは決してヘラを責めることはなかった。それどころか躊躇いがちな笑みを浮かべ少しでもヘラのことを喜ばせようと、懸命にヘラの誉れある息子であろうとした。ヘパイストスは技を磨き腕を上げ名を高めた。陰で不具を嘲笑われるとも贖って余る程。それは母であるヘラにとっても栄誉であった。
ヘラはヘパイストスを棄てている。恨むべきだろうに。事実かつては脅し紛いの方法で認知を迫ったのだ。ヘラも思う所があり、我が子と認め、名を与えた。彼女が棄てた息子にしたのはそれだけだ。何一つ彼に詫びていない。赦しも請うていない。なのに。
気味が悪い。そう思った。娘たちは勿論のことだが、その頃にはオリンポスを嫌いそして嫌われるようになっていたアレスの方が愛しいとさえ思った。ヘラにはヘパイストスが理解出来なかった。
しかし、それでは自分が理不尽だと重々に承知していたので、けしてそんな態度を出すまいと決めていた。ヘラは母としての責務を果たそうと決めた。ヘパイストスがよき息子であろうとするならヘラもよき母であるべきだからだ。責務としたのは気付かないふりをしていてなのに責められもしない罪の為でもあった。それは疵を庇う様に似ている。
よき母とよき息子。互いに微笑みを交わし、不自然ながらも歯車は回り続けていた。
しかし、
ヘラは長い睫毛に縁取られた瞼を閉じた。目を開けた次の瞬間には動揺を静めてヘパイストスを見詰め返した。
ヘパイストスは明らかにあの事件以降変わった。或いはこちらが本来の気質なのかもしれない。笑みひとつない褪めた表情のヘパイストスの熱を孕まない両の眼はヘラの疵を撫ぜる。
ヘラはイリスとホーライを下がらせて彼女達と距離を取る。彼女達も心得ていて女主人に従った。
「ヘパイストス、貴方、けじめはきちんとなさい。いつまでアプロディテを好きにさせているのですか」
「は、」
「まだ情愛が残っているのなら連れ戻しなさい。もう愛想が尽きたのなら離縁なさい。貴方の母として、そして婚姻を司る女神としての忠告よ」
「……」
ヘパイストスは瞠目した。
「どうしたの?」
「…いえ、ただ」
ヘパイストスの戸惑いを見て、ヘラは努めて優しい声音で言う。
「奇怪しなことを言ったかしら? 貴方まで私が意趣返しの為にアプロディテを娶らせたと思っていたのではないでしょうね」
曰く、自分に恥をかかせたヘパイストスに多情なアプロディテが不貞を働くことを見越して妻わせた。
己が権能を誰が汚すものか。
息子が当事者なら母であるヘラも、婚姻の司たるヘラも同じく嗤われるというのにそんな愚かな真似をするはずがあるか。事実、息子達が当事者であるのには頭が痛い。が、付き纏う下らない讒言はもっと腹立たしい。
まさかふたりして結婚の申し入れをした筈のヘパイストス自身そんな噂に惑わされてはいないだろうが、ヘラは敢えて言った。そしてなるたけ優しく見えるよう微笑んだ。もしヘパイストスが思い違いをしていてもこの表情を崩さず否定しよう。声を荒げたりましてや取り乱したりはすまい。それが斯くあるべき母の姿であろう。以前と変わらぬ母を貫こうと、ヘラは決めた。それ以外にこの息子と接する方法を見出だせなかった。
「いえ、そんなことありません。ただ…、」
無機質だったヘパイストスの瞳に狼狽が見え、そして彼は含羞んで言う。
「ただ、………いえ、何でもありません」
「そう」
ヘパイストスは少し笑ったが、ヘラには何故なのか解らなかった。解らないまま微笑み返す。
「どちらと定まらないにしても彼女に会いに行くべきよ。アレスでなく、貴方が。貴方はまだ彼女の夫なのだから」
「……はい」
「ならばお行きなさい」
ヘパイストスは頭を下げた。伏せた顔の表情は読めなかった。その姿が透明な炎に変じ、刹那、火が舞い上がって燃え尽きて微か焼け焦げた臭いが残る。見送った火の先、相変わらず青空が広がっていて、ヘラはやはり重い溜息を吐く。
言うべきことは言った。これでいい。ヘラは母親として接することが出来た筈だ。あのひとの子の母として他の誰かに劣ったりする訳にはいかない。イリス達がそっと歩み寄って、ヘラは女王然と背筋を伸ばし、美しくひとつ笑みを浮かべた。
私達は解り合えないのを目隠しして幸福に笑う
<2010/07/10>