「ちょっと、待ってください」
「退いて」
「困ります。というか危ないですって」

 鍛冶場に響く狼狽したブロンテスの声と女の耳慣れない低く掠れた声。目を遣ればすぐ隣。女が手を振り上げた所。槌も矢床も放り出して。ステロペスが批難めいた声を上げるが知ったことではない。振り下ろされる女の細い手首を掴んだ。落ちた槌や矢床や剣が鈍く或はけたたましく金属音を立てる。
 女は珍しく髪を結い上げ簡素な服装の、それ以上に珍しくも泣き腫らした顔のアプロディテだった。

 アプロディテは腕を取られたのが予想外だったのか目を見開いてしかし次の一瞬で表情を変える。綺麗な碧の目。それを縁取る睫毛は濡れたままに眉を顰めて睨んできた。
 似合わない表情だと他人事のように思う。

「顔くらい叩[はた]かせなさいよ」
 腕に力が篭るのが解る。握りしめた掌に爪が食い込んでいるのではないだろうか。アプロディテの声は昏い。
「嫌」
 顎をひいて目も合わせずにアプロディテは言う。
「…………あの子を死なせた癖に…何よ」
 掴んでいた手を振りほどかれた。解放されてアプロディテは自らの腕を抱く。今にも倒れてしまいそうなのをそうやって耐えているのだ。
 落ちた道具を拾い終えていたアルゲスが何か言いかけるのを片手と視線で制して、座る角度を変えてアプロディテに向き直る。
「アプロディテ」
 俯いていた彼女が顔を上げる。激情が幾分薄らいだ唇から言葉が零れた。
「だってあの子、まだ若かったの幼かったの。歳が若いから死んじゃいけないとかそんな事言わないわ。だけどまだ何も知らないのよ。世界の美しさも醜さも、愛の喜びも悲しみも。死ぬことなかった。…殺されて良いはずがなかった!」
 涙が溢れ頬を伝う。取り繕うことも出来ずに涙を流すアプロディテにいつもの華やかさはない。
「それで貴女の夫である私を問い詰めに来たの? “どうして彼を殺したの”って?」
 我ながら冷たい声だ。
「……」
 涙の拭われない赤く腫れた目元。嗚咽を漏らさないように引き結ばれた唇。無言で少し見つめ合った。睨み合ったの方が近いかもしれない。
「狩りの途中、仕留め損ねた猪に逆襲されたんだってね」
 アプロディテのぴくりと肩が跳ねた。
「その大猪は少年に嫉妬したアレス神が遣わした或いは彼自身が変身したものだ。否、女神の夫であるヘパイストス神だ。否否、折り合いの悪いアルテミス女神が遣わしたのだ。或いは報われぬ恋ばかりのアポロン神かもしれぬ」
 つい昨日のことがそんなふうに囁かれていた。昨日。一日前だ。少なくともアプロディテがここまで動けるようになるのにそれだけ時間がかかったのだと、ぼんやり思った。
「やめて」
「いずれにせよ少年を愛していた地下の畏き女神が手元に置くため他の神を唆したのだ、とかね」
「やめてよ」
「本当か嘘かともかく、それって全部、貴女の」
「やめて!」
 襟元を掴まれる。掠れた声。息がかかる程の近くで見るアプロディテの顔は余りに弱々しい。隠すようにその顔を胸へ押し当てられた。
「お願い、言わないで…」
 言って頽れる。ずるずると押し当てられた頭が腰まで落ちて行くのを支えるべきかと少しだけ思いつつ見送った。今も嗚咽を上げ始めた彼女の肩を抱くべきか迷っている。
 不図、ブロンテスが気遣わしげにこちらを見ているのに気が付いて手を振った。今日はこれ以上仕事を続けることは出来そうもない。
 ブロンテスたちが頷きを交わして出て行くと、コークスが燃える音とアプロディテの泣き声だけが残った。

 しゃっくりを上げながらそれでも少し落ち着いたのかアプロディテが言う。
「…あなたってちっとも優しくないのね」
「耳障りの良い言葉と下心の見え透いた抱擁が欲しかった? 今からでいいならあげるけど。それかアレスの所に行けば良かったんじゃないの? きっと私と違って優しく慰めてくれたと思うよ」
「…いらないわ」
 す、と顔を上げたアプロディテは表情な希薄だ。
「…あなたの言う通りよ。あの子を死なせたのはあたしよ。初めから解っていたわ。どの噂が本当だとしてもあたしが愛したから、…あの子は死んだのよ」
 最後のひと文節が揺らぐ。
 そして遅蒔きに気が付いた。あの子を死なせた癖にと言ったあの言葉は自分自身に向けた言葉だったのだと。
「あたしそれが悲しいんだわ。あの子が死んだのが悲しいだけじゃなくて、あたしの所為で死んだのが悲しいの。あの子が死んだことを悲しまなきゃいけないのに自分の所為で恋人が死んだ自分が可愛そうで、そんなこと思ってる自分が嫌でもっと悲しいのよ。あの子の死だけを悲しみたいのに」
「そう」
「だからあなたに会いに来たの。きっとあなたは違うから八つ当たりをしに来たのよ」
「うん」
「アレスはね、きっとあたしに優しくしてくれる。あなたと違って“泣くな”って言ってくれる。抱きしめてくれて涙も拭ってくれるわ」
「……」
「だからあたし、それで安心してしまう。あたしも可哀相なんだって。あたしの所為じゃなかったって。あたしの所為であの子が死んだんじゃないんだって。そう思って悲しい気持ちも消えてしまいそうなのも嫌なの」
「……そう」
「……だけどそれに、もしかしたらって思う。アレスがあの子を死なせたのかもしれない。そうならあたしきっと責めるわ。きっとアレスを憎く思ってしまう。それさえアレスの愛し方なのに、アレスはあたしを愛してくれてるのに憎んでしまう。それも嫌なの。だってあたしアレスのことも愛しているのに。憎みたくなんかない。それに違ったら? ううん、違わなくてもあたしが疑ったこと知ったらアレス、きっと悲しむわ。だからアレスには会わずにあなたに会いに来たのよ。だから絶対言わないで」
「うん」

 なんて我が儘で愚かしい女[ひと]だろう。
 人間と神々には“死”という越えられない壁がある。それを解った上で人間の少年に恋をしたのではないか。なのに死んだのが悲しいと泣いて、自分の所為だと泣いて、それでは純粋に悲しんでないとまた泣いて。恋人に自分の所為ではないと慰めて欲しい癖にそれでは悲しみが薄らぐのが嫌で、それに恋人が少年を殺したのかもしれない事実を知って恋人を憎むのが嫌で、疑っているのを知られて悲しまれるのが嫌で、それを無自覚でなく全部解った上で私に八つ当たりをしに来たのだと言う。そしてそれを私が受け入れると信じて疑わないのだ。

 我が儘で愚かしい女のその流れる涙の美しさに我知らず手を延ばしていた。気化熱を奪われた頬は冷たい。泣き腫らした瞼から覗けるのはそれでもいつものように明るい海に似た鮮やかな碧の瞳で、そこに私が映り込むのが酷く無粋に思えた。

「ねぇ、アプロディテ。彼が死んだのは誰の所為でもなくて、ただ〈運命〉だった、では駄目なの?」
 アプロディテは微かに目を見開く。そしてしばらくして不思議な表情を浮かべる。例えば人間の老婆がしそうな諦観と悲嘆と安堵の綯い交ぜになった表情をアプロディテが浮かべているのがとても奇妙だった。
「…そうね。だけどそれじゃあ悲しすぎる。誰かの所為も酷いけど誰の所為でもないなんてもっと酷い。まるで死んだあの子が悪かったみたいじゃない。そんなの悲しいわ」
「別の誰かが悪いのはいいの? それで自分が愛した所為で誰かに殺されたと、だけど殺したかもしれない恋人は憎みたくないと泣くの?」
「そうかもしれない」
「……貴女って我が儘だね」
「そうかもしれないわ」
 そう言って静かに目を閉じる。苦しそうに眉の根を寄せるのを指の腹で撫ぜた。
「ねぇ…愛さなきゃよかったとは思わない? 彼はいつかは死ぬだろうけど、昨日は死ななかったかもしれない。少なくとも愛さなければ貴女がそんなに悲しむことにはならなかったんじゃないの?」
「それは出来ないわ。なかった事なんかにしたくない」
「悲しいのに?」
「ええ」
「悲しいのは嫌じゃないの?」
「……嫌よ。だけどそれ以上に何も残らない方が嫌だわ」
「……」
 アプロディテが力無く吐息だけで笑う。
「あなた、あたしに悲しまないでって言ってくれてるのかしら」
「貴女に泣き付かれるのが面倒なだけだよ」
「そう。だけど今はあなたに八つ当たりして泣き付いていたいの。こんな顔他の男[ひと]には見せられないわ」
「駄目って言ってもそうする癖に」

 わかったとは言わず細い肩に腕を回した。
 震える身体。布越しの涙が温まる。堪え切れなくなった嗚咽が溢れて、縋り付いてくる手は痛い。
 きっと彼女の心の痛みを私は理解出来ない。それを知る事はないと言うべきかもしれない。
 縋り付く痛みがそれを幸か不幸かと問い掛けていた。


e.


<2010/04/18>
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