「聞けよヘパイストス! アプロディテがさー」
 「ちょ! 私、作業中!」

 ヘパイストスの工房は三ヵ所ある。シケリア、レムノス、そしてここオリンポス。大きな火力が使えるシケリアでは主に兵器を造り、人間との交流も多いレムノスでは鍛冶一般、神々の世界オリンポスでは趣味のアクセサリー作りか急な仕事、というのが大体の分類なのだと言っていた。
 何となくオリンポスにはいないだろうと他の二ヵ所から捜してしまい(いつもだったらその勘は当たるのだが今回に限って外れのだ、ついてない!)、ようやくヘパイストスを見つけて作業机に向かう無防備な背中に抱きついた。
 振り返る余裕さえ与えないスピードだったので、どちらかといえば体当たりに近い。ヘパイストスは机にぶつかりそうなのをなんとか堪えたようだ。

 「お前ね、私以前に言わなかった? 作業中後ろから近付くなって」
 ヘパイストスは俺を跳ね退け肘を割り込ま身体を離すが、そうはさせない。すぐさま胸倉を掴んで椅子に座ったままのヘパイストスの身体を自分に向かさせる。
 「それより聞けよ、アプロディテが人間のなんとかってのに入れ込んでて今日もそいつの所行ってくるって!」
 「お前こそ聞きなよ。今、私、矢を造ってるの。後ろから来られたら手元狂うでしょ。危ないでしょ」
 「まだガキらしいぜ。何が気に入ったんだか! アプロディテ、今日デニムにブーツなんだぜ」
 「へぇ、それはそれで似合うんじゃない」
 「全然似合わねぇよ! その上、味気ないポニテ。いつものアクセもなし。そいつの為に! 信じらんねぇ!」
 「私はそれを私に泣き付いてくるお前が信じらんないよ」
 表層の怒りを吐き終えて今度は悔しさだとか悲しさだとかの層が上がってきて溢れそうだった。ヘパイストスが何か言っていたが無視して、表情がぐちゃぐちゃに歪むその前にヘパイストスの肩に顔を押し当てた。アプロディテをなんとか笑顔で送り出した俺は頑張った、と自分で思う。
 なんでもその人間は若いというより幼い少年らしい。その少年が狩りを好むのでアルテミスみたいに弓矢を持って共に野山を歩いているのだと言っていた。あのアプロディテが!
 なんでだって人間にあんなにも心を移すのか。
 楽しそうに話すアプロディテを思い出して、ぐすぐすと鼻を啜る。咽喉の奥がしょっぱい。涙腺と繋がってるみたいにとめどなく出てくる鼻水はヘパイストスに擦[なす]り付けてしまえ。八つ当たりをしてるんだか、甘えているんだか自分自身よく解らない。背を撫でられ慰めの言葉をかけられたらきっと嬉しいと思う。ちょっとは期待しているのだから甘えているのだろうか。
 しかしヘパイストスは俺の襟剥りを後ろから掴んで引きはがした。べりんって音がしそうだ。視界がぼやけてよく見えない。袖で目元を拭う。やっと見えたヘパイストスは呆れたような諦めたような顔だ。
 「私、まだ彼女の夫なの。一応」
 「ああ。……なら解るだろ、恋人奪られた俺の気持ちが!」
 「解るよ。解るよそりゃね。けどていうか、だから、お前が私の所来るのおかしいでしょ」
 「うん?」
 「私・夫。お前・愛人」
 「あー………気にすんなよ。今更だろ」
 ヘパイストスの溜息混じりの言葉に(忘れていた訳ではないが)自分達の関係を思い出した。アプロディテにとって俺は愛人で、ヘパイストスが夫なのだ。
 俺がアプロディテと関係してヘパイストスがそれに報復した一連の事件は、巷で面白く可笑しく歌われるオリンポス有数の醜聞だ。ぶっちゃけムカつく。それはともかく、俺達がそれぞれに上手く折り合いをつけるようになって永い。ヘパイストスは結局アプロディテと離縁してないし、俺は相変わらずアプロディテと愛人関係を続けている。その上で俺とヘパイストスはこんなふうに決して険悪な仲ではないのだ。……険悪ではない。多分。

 「今更だけどね。お門違いじゃないの。お前がアプロディテとの時間をアドニスに奪られて辛いからって、私の所に来るなんて。私がお前に対して同じ事を思ってないと思うの?」
 「…今までそんなこと言ってなかった癖に今ここで言うのかよ」
 「あのひとは“ああいうひと”だからね。悔しいとか思わないよ。私は」
 言ったヘパイストスは真実そう思っているのだろう。俺とは対照的にいつもの湿り気のない乾いた声だ。そう。だからこそこの兄に(彼の言葉を借りれば)泣き付きにきたのだ。少々情けないが。
 「じゃあいいだろ。傷心の弟に優しい一言くらい掛けてやれよ」
 「何で」
 「何でって」
 「更に言えばお前だって人間の恋人がいたりするでしょ。お前はひとにしたことで、いざ自分がされたら嫌だ辛いだから慰めろなんて随分虫がいいじゃない」
 「……悪かった」
  ヘパイストスの言い分は正しいとは思う。思うのだが、ようやくそれだけ言った。ヘパイストスはちょっと溜息を吐いて、俺の頬を突く。
 「そんな膨れっ面で言われてもね。…まぁお前にしたら上出来か」
 結構めり込んだぞ。痛くはないが。
 ヘパイストスはそれだけ言って作業机に向き直る。
 「あと、後ろから急に来ないでよ。さっきだってこれが顔に刺さりかけたんだから」
 思い出したように言ってから途中だったらしい鏃の研磨作業を再開した。少し磨いでは眇めて見てまた少し磨ぐ。傍目には前後での違いは解らないが何かが違うのだろう。
 「そういえばそれ、誰の?」
 机に並んだ箆や弓。アポロンは勿論、アルテミスにも小さいのではないだろうか。随分小振りに見える。
 「アドニス」
 「…誰?
 「件の少年」
 「?」
 「だからぁ、今、アプロディテの寵愛を得ている人間だよ」
 「……はぁ!? え、ちょとあんた、え? ぇええええ!!」
 「煩くしないでよ」
 「何で! どうして!」
 「アプロディテに頼まれたの。アドニスの弓矢造ってーって。あと箙も造るんだけど実はまだデザイン煮詰めれてないんだよね」
 何を暢気に。絶句とはこのことだ。怒っているのか呆れているのか、ともかく二の句が継げない。
 いくら悔しくないつっても妻の愛人に造ってやるか普通!
 「それがあんたの仕事ってか」
 呆れた事だ。
 「おや、理解が早いじゃない」
 言った背中には言葉を返さず机の弓を取る。やっぱり軽い。こんなもので狩りが出来るのだろうか。
 「なぁ。これまともに造るのやめろよ」
 ふと思ったまま口にした純然たる悪意。獲物と対峙して始めの矢が射てなければどうなる? その獲物が獅子や猪のように獰猛なら?
 「わざと粗悪に造れって?」
 ヘパイストスは椅子から立ち上がって弓をひったくる。そして俺を正面に捉え弓弦を引いた。
 きりきりきりきり。
 動けない。
 矢も番えずに引き絞る。
 恐ろしくはない。
 しかし。
 きりきりきりきり、ひゅん。
 鋭い風切り音がして、ヘパイストスは弦から手を放していた。
 「お前、馬鹿だよね。私にそんなこと出来ると思ってるの」
 「そんな馬鹿なこと汚いことしないってか。いい子ぶりめ」
 眉間に皺を刻んで笑みの形に口を歪めながら吐き捨てた。
 恋人が他のやつを好いているなんて言えば嫉妬するのが普通じゃないか。嫉妬すれば少しくらいの悪意も湧く。妻の愛人の為に仕事だからって弓矢を造ってやるズレた良識なんだから、そんな普通の感覚も解らずどうせ俺にも悪い考えはやめろとでも言うのだろう。しかし、
 「捨ておけばいいじゃない。人間なんて死ぬもの」
 何でもないように言うので、一瞬意味を判じかね、そして肚の底から笑いが込み上げてきた。
 ヘパイストスは座り直して鏃と箆を継ぎ合わせる。
 「けどよ、さっさと死んで欲しいんだよ。そいつ」
 「長くたって50年くらいだよ」
 「うわ、人間ってそんだけしか生きられねぇのか」
 「病でも怪我でもちょっとしたことで生きられなくなるよ」
 「ふん、弱いな」
 それにしたってアプロディテの前からそいつには早く消えて欲しいのだが、少しだけ気が晴れた。
 不死なる神々の前で死すべき人間の命は余りに果敢無い。
 「まるで風に散る花みたいにね」
 厭に綺麗な言い方に堪えきれず声を上げて笑った。


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<2010/03/06>
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