もう一年前になる。


 高い天井。柱の材は大理石。精緻な細工。潤沢な天鵞絨の幕には金糸の刺繍。贅を凝らした客室の、しかし、窓の外は暗いとも明るいとも言い難いまるで黄昏時。
 冥府は富はあれど停滞している。

 ハデス自身はこの停滞を穏やかなものとして受け入れている。暗鬱といわれる冥府だが、ハデスにとっては目映い太陽の下よりもずっと過ごしやすかった。だが他の者にとっては? この少女にとってはどうだろうか?

 黒檀のテーブルを挟んだ少女の視線は真っ直ぐにハデスに注がれる。少女の髪は彼女の母のそれを写したようによく似た金色できっと陽の下でこそ輝くだろう。
 少女とは手を伸ばせば触れられる距離から少しだけ遠い。ハデスは待ち望んだ筈の再会の酷く気が滅入っていた。


 ハデスが生まれてこの方歩んできた道は冥い。
 彼は当代の支配者、クロノスの長男として生を得た。嫡男である。本来であれば祝福こそされ厭まれることなどない筈だった。しかし、クロノスになされた予言――あるいは呪いだったのかもしれない――が彼の、そして彼の兄弟たちの運命を大きく歪めた。

 クロノスはかつて母と共謀して自身の父・ウラノスを討った。伝え聞くばかりで仔細は詳らかではないが、ウラノスは息子に自分と同じように子に討たれる定めにあると予言したらしい。そしてクロノスは生まれる我が子を喰った。比喩なのか文字通りなのか、当の本人であるはずのハデスもよく解らない。覚えていない。ともかく、ハデスの生はそれが始まりだった。

 しかし、全く望まれない命ではなかった。その証左が名だとハデスは考えるのである。名は命の次に与えられる贈り物だ。少なくともハデスの母は、レアは、彼女の憐れな子供たちに名を与えていた。
 長女には家族の絆であり神聖な火の炉――ヘスティア。第二子に大地の母――デメテル。続く娘に女王として女主人――ヘラ。だがいずれも彼女は夫により喪った。夫の目を欺く願いを込めたのか初めの息子には、見えざる者――ハデス。母の加護を願ったのか、大地の夫――ポセイドン。そして、末の息子に、彼女が最後と決めた息子には輝くような名――ゼウスと。

 とかく、ハデスにとって名は存在の肯定であったし、母の願い、そして祝福だった。


 思ってハデスの脳裏に浮かんだのは既に幾年も会っていない姉の姿で、かつて幽閉より解放された時の、翳りのない少女の姿だった。
 ああ、なんてことをしてしまったのだろう。
 その後悔さえ何度目のことか。ハデスは深く嘆息する。

「そなたにも、姉上にも、本当にすまないことをした。謝って済むことでもない」

 穏健さと公正さで知られるハデスが謝罪するのには訳があった。

 目撃者でもあるハルピュアイが詠うには、冥王は豊穣女神の娘を水仙の花で誘い、黒馬の戦車で冥府へと拐かした。〈太陽〉からそれを聞いて嘆いた女神は仕事を放棄し、作物は枯れ草花のない季節が始まった。困り果て、また彼女を哀れんだ神々と人間どもの父は伝令神を冥府へ遣わし娘を返すよう求めた。冥王もこれに応じ、娘を返した。しかし、その前に娘には柘榴の実を与えていた。これは冥府の物を口にした者は冥府の住人となり、地上に還れない。その理を知っていたからだ。娘はそれを知らず、四粒だけそれを食べてしまった。娘は娘のまま母の元へ還ることは叶わぬ。冥王の妃として、冥府女王として、四つの月地下に在らねばならぬ。女神が娘と引き離されている間、彼女の悲しみが地上に冬を齎すのだ、と。

「すまない」
「今更…」
「全く今更だな。我ながらどうかしていた」
「そんな言い方をしますか…卑怯ですっ」
「ああ、そなたの物言いは全くその通りだ。私は卑怯だ」

 ハデスは自嘲して、左手で顔を覆う。だから少女の変化を見落とした。

 あの時、何故自分はあんなことを、この少女を拐かすなんてことをしたのだろうか。少女の意思を無視して、姉を悲しませると知っていて。しかしそれでも少女を手離そうと考えると胸の奥が軋む。古傷のように痛んで、そこで意志が挫けてしまう。だから柘榴の件があろうとなかろうと地上に還すなどとは言い出せない。多分あの時もその痛みが少女を攫うなどという愚行をとらせたのだ。

 ハデスはなるだけ優しげに微笑んで見せた。

「せめてそなたが此方に逗留する間は不自由な思いをさせまい。そして私のことは使用人か何かだと思ってくれていい。必要ならば私が与えられるものは全て与えよう。母がいないことと太陽の光の届かないことがそなたにとって不憫だが、それで許してほしい」
「ならば、わたくしに名を下さいな」

 少女が言った。
 その瞳は透徹。永きに亘り地中で堅く守られ形を得た樹液の琥珀色。
 ハデスはその瞳にたじろぐ。

「そなたは…それがどういう意味か理解しているだろうか。名は祝福だ。そなたの名は母が…デメテルが、そなたに幸あれと願った、願いそのものだ」
「解っています。そして、そのお母様から私を奪ったのは貴方でしょう、ハデス様?」
「………そうだ」

 少女の言葉にハデスは眉を顰める。それは真実だ。未だ信じられぬ事だがデメテルの願いを踏みにじったのは他ならぬハデスだった。

 デメテルが娘に、この少女に名付けたのは乙女を意味するコレー。瑞々しく伸びやかな芽吹きのような名だ。デメテルの願ったのは、少なくともこんなところへ娘を嫁がせるなんてことではなかったはずだ。永遠の命を常春の地上で、母元で暮らすことのはずだ。こんな仄暗い地の底が少女の居場所であるがずがない。

 名を与えることは運命を軛き、命を握ることに等しい。これ以上なく姉から娘を奪うことになる。憚られた。
 そしてこれ以上、彼女を見つめるのも背信のような気がして瞑目する。

「本意ではないとでも言うのですか。私を奸計で冥府に繋ぎ止めたくせに、貴方は略奪者なのに、謝るなんて卑怯です。奪うなら全て奪いきってください。そうでなければ私は…」

 硬質な声が沈黙した。
 見れば少女の無感情を刷いたような顔。その頬を透明な液体が伝っていた。そして唇が微かに言葉を紡ぐ。

「…私は、私の気持ちは…何処にいけばいいのです…?」

 感情と理解が追い付いて来ない。
 何を、言っているのか。
 何故、この少女が泣かなければいけないのか。
 ハデスは身を乗り出して頬に手を伸ばしかけて、やめた。下ろしかけたその手を、少女が掴んで自らの頬に当てる。
 触れた頬の柔らかさと、温んだ涙がじわりとハデスの胸の痛みを和らげた。





<2013/04/25>
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