カウカサスに男は居た。
〈太陽〉が昇る場所に近い故に酷暑であり、〈天〉に近い故に極寒でもある、東の果て、カウカサスが男の処刑場だ。
男は雪降り岩肌も露な山頂に不壊の鎖で繋がれ、大鷲に肝臓を啖われる。不死であるが為に死なず、それどころか喰い千切られた肉も臓器も大鷲が主の許へと帰る夜の間に再生した。そしてまた陽が昇れば大鷲に啖われるのである。際限ない苦痛。それが男に課せられた刑罰であった。
その終わりは唐突にやってくる。半神ヘラクレス。彼が大鷲を射た。
翼のついたペタソスを被り、ケリュケイオンを携えた神々の使者が若々しい外見にそぐわぬ厳かさで男に告げた。
「プロメテウス、我が子ヘラクレスに栄誉を与えんとする大神ゼウスよりの恩赦である。速やかにオリンポスへ帰投し、誓いに従い大神の知らぬ彼の秘密を余さず申せ」
「……相変わらず、君はゼウスに忠実だ」
穏やかな声。男、プロメテウスは襤褸のような姿でしかしその眼は静かで堅い意思は少しも損なわれていなかった。
彼が漏らした言葉に使者ヘルメスはまなじりを裂く。
「あんたがあのひとに不忠実なだけやろ。ほんまゼウス様もよぉ赦す気になったわ」
柔和にして快活、見事な弁舌で大神の意に沿う結果を出してきた伝令神の彼が殊、父たる大神[ゼウス]よりの命の最中で言葉を荒げるのはかなり奇異なことだ。ヘルメスはプロメテウスにとって兄の娘の息子、ヘルメスからすれば大叔父にあたる。しかし彼がプロメテウスを見る眼に肉親の情はなく、発せられる言葉以上に酷く冷ややかで、ともすれば敵意を孕んだ剣呑なものだった。
プロメテウスは苦笑する。
「返答の如何次第ではこのままやけどどうするんプロメテウス?」
「無論。彼の君の秘密を教えよう」
これは予てより知っていた未来。ヘラクレスが現れるより前に、縛に就くより前に、人間に火を与えるより前に、メコネでの件より前に、神々を二分する大戦より前に、ゼウスと出逢う前に、ずっと昔に知り得た未来だった。
ヘルメスは苦り切った表情をなんとか圧し殺し、振り返って言う。
「ふん…、ほな後は頼むわ」
ヘルメスの背後に控えていたのはクラトス、ビアー、ヘパイストス。いずれも嘗てゼウスの命を受けプロメテウスをカウカサスに縛り付けた当人たちである。
ヘパイストスが何かを言いかけてまるでプロメテウスの痛みに触れたかのような顔で俯いた。プロメテウスが知る彼から随分と大きくなったように見えたがその動作は記憶にあるまだ幼さの抜けきらないあの頃と変わりない。
「大神もお待ちですので速く始めていただけますか、ヘパイストス様」
「判っている」
慇懃な、しかし高圧的なクラトス。それに答えたヘパイストス。
両者のやりとりを見て、しかしプロメテウスは自分が多くの時間を奪われていたのだと悟る。
歩み寄ってプロメテウスに微か目礼するヘパイストスはやはり以前の面影を残しているが、クラトスへの答[いら]えには全くの無表情を刷いていた。先を見通すことが得意なプロメテウスでも過去を窺い知るには失った時間が剰りに永い。らしくない、感傷だ。
ヘパイストスが楔に手を掛ける。プロメテウスが痛みで我を忘れ暴れてさえもびくともしなかったそれは呆気なく外れ、プロメテウスを縛っている鎖が緩んだ。
岩に穿たれた五つの楔はすっかり抜かれ、鎖も次々に取り払われて、しかし最後まで外されないうちに焦れったいとばかりにヘパイストスがプロメテウスを抱き起こす。そしてそのまま抱き締められる。まるで子供がするみたいな抱擁で、プロメテウスは不覚にも眼窩の奥が熱くなるのを感じた。
ああ、どんなに未来を推し測ることが出来ても自身の感情はその通りにならないものだ。
「お早く、ヘパイストス様」
「…………すまない、プロメテウス」
急かすクラトスには答えずヘパイストスはプロメテウスに謝った。
そしてプロメテウスに鎖を掛ける。軽く、申し訳程度の体裁を整えるように。鎖の穴に長細い石を挿し込み固定する。鎖の端をクラトスに渡し、余った鎖はぱきんと切った。残りはまとめて担ぎ、楔を抱えて、入れ替わるようにプロメテウスの両隣にはクラトスとビアーの兄妹が並ぶ。
「こちらは任せて首尾よくあなたの父上様のの命を果たしなさいませ」
「言われるまでもなく。それとも私が事を仕損じた記憶がある?」
「ならば結構」
「はいはい、ほなオリンポスに戻るで」
神馬の戦車[チャリオット]が駆ける。
着いたのは、頭上に晴れ渡る空と眼下に雲海を臨む、いと高き、神々の住まうオリンポス。
整備された道。技巧を凝らした邸宅。造りモノのように美しい庭園。以前より一層手が加えられている。プロメテウスの後を継いでここまでにしたのは彼の鍛冶神に違いない。プロメテウスは先程別れた後ろ姿を思い出す。背も高くなって、すっかり大人になった。それだけでなく技術も長じたのだのだと思うと我がことのように嬉しい。
前を行くヘルメスに着いて歩く。大道の突き当たり。会議場。中へ進み、静寂。ひとの気配は絶えている。しかし、此処にはいるはずだ。他ならぬプロメテウスを磔刑に処すとした本人が。
扉のの前でヘルメスが足を止める振り返ってプロメテウスを見た。不快そうに顔を歪め扉に向き直る。
「只今帰還しました」
どうぞ入ってください、と中から声。プロメテウスはいつの間にか手を握り締め、それが湿っていることに気が付いた。
クラトスとビアーが左右の扉に手を掛け、開け放つ。
すり鉢形の会議室。だだ広く。清浄な空気。射し込む光。中央にただひとり、ゼウスがそこにいた。
外から扉が閉められた。退路はない。そんな覚悟めいた思いが咽喉元に迫り上がり、飲み込んだ。
階段を降りる。足音が、鎖の音が響く。ほんの数歩のところまで近付いて、プロメテウスは笑った。
「貴方は変わっていないようだ」
「君は…随分と窶れてしまいましたね」
「貴方がそうさせたのですが?」
「君は解っていたでしょう」
「ええ、貴方以上に」
顔を見合わせて互いに笑った。ゼウスは幾分にも苦笑であったが、それでもこうしてふたりして笑うのはいったいいつぶりだっただろうか。
「ほんで、訊かんでええんですか、ゼウス様」
ヘルメスが溜め息混じりに進言した。
「ああ、ええ、勿論です。さて、プロメテウス。君が知りうる僕の秘密とやら、教えてくれますか?」
ゼウスの視線がプロメテウスに注がれる。その灰色の目。
プロメテウスは僅かに逡巡した。
果たして自分は何のためにあの刑罰に甘んじたのか。
嘗てゼウスは傲慢だった。兄姉たちを解放し、父に打ち勝った彼。オリンポスにあってはメティスの助言で多くの女神を愛し、その領分を広げ、神々の父と呼び習われるに至った彼を傲慢と判じることこそがプロメテウスの驕りであったのかもしれない。しかし、ゼウスは葬り去った彼の父の一族を、冥府を、海を、地上を顧みることはなかった。それはいつか思いも寄らない所から彼の足を掬うのではないかという危惧が、否、〈先見〉の名を持つプロメテウスにはよりはっきりとそれを知っていた。だから様々な進言を繰り返した。初めは意を汲むことの多かったゼウスも、段々とそれを厚かましいと思ったのか意見がぶつかることが増えた。そして遂にはプロメテウスが人間に火を与えたのを罪とし、最果てでの磔刑に処したのだ。
息を吸って痛みの記憶を押し込めた。
「貴方は今、ポセイドンとひとりの女性を巡って争っている」
「それとこれに何の関係が………あるんですね」
溜め息混じりに言ったゼウスに、然りとプロメテウスは首肯する。
「彼女の生む息子はその父より膂力も機知も上回る。これが貴方の危機に関わる秘密です。それが意味するところは貴方も想像できる筈だ」
「………解りました。兄さんにも忠告を入れておきましょう。ヘルメス」
「了解です」
「あともう一つ手を打っておきますか」
虚空を見遣るゼウスに色めいた気配は残っていない。
「どうぞ穏便に、ゼウス」
「そうですね。解りました」
ゼウスが頷いたのを見て、プロメテウスは瞠目する。
「? どうかしましたか?」
「いえ、何と言うか」
ひとは変わるものだ。先程、少しの哀しみを伴ってヘパイストスに対しても思ったことだが、同じことの筈なのに、プロメテウスは我知らず穏やかに微笑んだ。
「先刻は貴方は変わっていない、と言いましたが……変わられましたね、ゼウス」
「僕も訂正しましょう。君は全く変わっていない」
ふたりは顔を見合わせて、今度こそ翳りなく笑った。
「はははー…や、ないですって」
ゼウスの死角でヘルメスが渋い顔をして呟くのをプロメテウスは見た。無理からぬことではあろうが、どうにも嫌われ切っているようである。
「それではゼウス、今度は貴方が約束を守って私を解放する番ですよ」
「それがですね…クラトス、ヘパイストスは何と?」
「先程別れて邸に行かれましたが、彼の神ならば間もなく完成させて」
何故、ここでヘパイストスの名前が出てくるのか、思考を巡らせるより先に会議場の扉が再び開く音がした。
「参りました」
振り返って見れば、ヘパイストス、そして後ろにはアテナも控えていて、やはりプロメテウスに目礼した。彼女は全く変わっていない。生まれた時から完成された女神だった。それでも何処か変わったようにプロメテウスには思えた。或いはこれも感傷の表れなのかもしれなかった。
不規則な、そして規則正しい二組の足音が通り過ぎる。ヘパイストスは胸の辺りに小さな箱を持っていて、それをゼウスに渡した。
ゼウスは受け取って気が重いとでも言うように溜め息を吐く。
「“僕は決してプロメテウスをカウカサスから解放しない”と誓ったのですよ」
箱から取り出されたそれ。
「これを常に嵌めていてください」
「指輪…? ああなるほど」
「ステュクスに誓ってしまった以上、僕は君をカウカサスに縛り続けなくてはいけない。アテナが考え、ヘパイストスが創りました。君を拘束していた鎖とカウカサスの岩から創られたこの指輪で象徴的に君を縛り続ける」
真っ直ぐに見据えられた灰色の瞳にプロメテウスは頷いた。
ゼウスは音を立てて鎖を外し、残響が止んだ頃、プロメテウスの左手を取った。
「神血[イーコール]の流れ出る心臓に近い、薬指に」
嵌められたのは鈍く光を返す鋼鉄とそれのない石が交ざり合った環。プロメテウスは指を曲げ伸ばす。
「プロメテウス、これからは側にいてくれますか?」
「ええ、ゼウス。そして私も冥府に流れるステュクスに誓い、この指輪を外しません」
何の為にあの苦痛の日々を堪えてきたのか。
父と戦うことを運命づけられ、支配者となった少年だった彼の理解者たらんとした自分だった筈なのに独り善がりで理解することを投げ出した。先に見える結果に思いを巡らせても、疎ましいと見る灰色の眼の意味を考えようとしなかった。その“つけ”だったのだろう。
また互いを信頼し合うのはずっと先だ。それでもこの手を取ればそれは遠い未来にそれは叶う。プロメテウスは知っていた。
「貴方と貴方の世界の為に仕えましょう、我が君」
遠い約束
「………だけどこれはまずい」
「はい?」
「―――未来、指輪の取り交わしは結婚の約束となるでしょう。今のはその起源です」
「!?」
ヘパイストスが吹き出した。アテナも笑いを堪えているのか肩が震えている。ヘルメスは溜め息をひとつ吐いただけだった。
<2012/03/28>