時に心の痛みは躯を蝕む。

 懊悩。縺れる言葉。淀む思考。動かない指先。それは胸の裡を焼く炎、即ち恋心に因るものだ。
 恋の炎というのは厄介なことに中々消えてくれやしない。熱に煽られて冷静さを欠いた常にない挙動をしてしまうし、なんでもないふりをしていても“彼女”を見た瞬間に燻っていたそれが身を焦がす。そんなもの、抱え込んだ時点で致命的なのだ。
 堪えきれず思いの丈を告げてしまった。赦されないと知っていたけれど、どうしようもなかった。そうせずにはいられなかった。だから、“彼女”の答えを聞いて、それは予想していたことで、最悪というには生温く、それだけに窒息しそうなほど。籠から放たれた鳥は帰らぬのと同じ。言ってしまった言葉を悔いた。





「アポロン、教えてくれると嬉しい。相談というか何というか…」

 言葉だけなら控え目な癖に、断ることを許さないように自由な左手でがっつりと俺の腕を掴むヘパイストス。
 そう、これはヘパイストスだ。俺とは父を同じくする兄弟で、いつもどちらかと言えば感情の起伏の少ない、ともすれば少しぼんやりとした、だけどひとの良い、皆から仕事を頼りにされ一切の文句も言わず腕を振るう鍛冶神ヘパイストス。それがどうしたことか、包帯と下ろした白い前髪から覗く目は赤く、ぐずぐずとした鼻声だ。もしかして、いやいやもしかしなくてもこれは泣いている。
 えーっと、今俺の腕を掴んでいるのはヘパイストスの筈だ。なのにヘパイストスという像と噛み合わない。

 いやいやおかしいと言うなら最初からおかしい。なにせこのヘパイストス、俺たちが気を利かせて辞したのがつい先刻。あの様子だと母子水入らずで感動の再会を満喫しているんだろうな、とか皆で言っていたのに、幾らも経たないうちにこちら、会議場に続く回廊にやって来た。それも走って。“足萎えの”と吟われるヘパイストスが走って、である。
 そして今に至るわけだが…迎えた時は何ともないように見えたが、地上[した]にいる間、何かあったのだろうか。

「異議あり! なんで俺やおじいちゃんじゃなくてアポロンなのさ?」

 アレスも頷く。ディオニュソスの言い方は何か含むところがあるようだがそれはさておき、言っていることは尤もだ。ヘパイストスとディオニュソスはやたら仲が良いし、アレスは実の兄弟でなんだかんだあったのにそれなりに仲も悪くはないらしい。この中で一番親しいと言えないのが俺だ。

「アポロンしか頼めない」
「だから何でだよ」

 と、これはアレス。

「そうそう。言っちゃなんだが、俺よりもディオニュソスやアレスの方が相談しやすいんじゃないか」

 言いながらそれを敢えて避けて俺を指定してきたからにはそれなりの理由があるんじゃないかと思った。
 ディオニュソスは葡萄酒の神。ひいては酩酊や狂乱、非理性的、非秩序的なことをも司る。アレスは軍神で同じく混沌とした事柄の神だ。そして俺ことアポロンと言えば予言に医術に音楽、弓術、牧畜とオールマイティーで理想的な青年の光明神。なるほど、俺の方が頼りになるよな。うん。

「いや解ったヘパイストス。俺でなければならないと言うなら話を聞こう!」
「ありがとう、アポロン」

 目元を擦りながらヘパイストスは微笑さえ浮かべて言った。そうなるといよいよディオニュソスが口を尖らせ、アレスの目付きに剣呑さが増す。

「えー。俺たちには話せないってこと? アポロンにはできるのに?」
「父上に投げ落とされたの心配してた俺らよりアポロンのがいいとかどんな薄情もんだよ」

 いや、俺だって心配はしたぞ。ふたりの比じゃないかもしれないが。

「ディオニュソス…、アレスも……。だけど、こんな…失恋した時どうすればいいかなんて話、アポロンにしか聞けない」

 ……ん?

「悪いヘパイストス。もう一度言ってくれ。何が何だって?」
「貴方以上にあっちで振られこっちで振られなんてひといないもの。だから失恋した時どうすればいいかなんてはな」
「何でそうなる!! 俺は理性と文化、天上天下あらゆる輝かしいもの“そのもの”だぞ! 他にもっとあるだろ! なんで俺を捕まえてしつれ、アレス、ディオニュソス。何だ。何で解ったような顔して頷いてるんだお前らは!!」

 全く。信じられない。俺が失恋慣れしているみたいに言って。そりゃまあ……うん…うん…えっと…半分くらいは……いやそもそも、

「戦いを控えたこの時期にまさか色ボケとはな」

 はーっと溜め息を吐く。父上の怒りを買い地上に落とされたヘパイストスがこんなに早くオリンポスへの帰還が許されたのはその為だ。俺なんか一年も人間の奴隷だったぞ。まあアドメトスいいやつだったし、楽しかったけど。
 それはさておき、だ。何を深刻そうにしているかと思えば失恋か。地上で知り合った娘に袖にされたとかそんな所だろうか。

「まぁいい。じゃあアドバイスだ。“悩むな”、以上!」
「おい、それが出来ればこんなになってないだろ」
「そこまで悟れてるアポロンって」
「あーもーうるさいぞ外野! な、ヘパイストス。な? ちょっと頭が冷えれば落ち着いて考えられるようになるさ」
「そう…だね…。じゃあちょっと行ってくる」

 ヘパイストスはそれで頷いて立ち去ろうとする。掴まれていた腕はちょっと痛い。あ、いや、このままヘパイストスに去られては困る。

「行くって、何処行くんだ」

 これから対ギガンテスの作戦会議なのに。

「もう一回ダイブしようかなって」

 ダイブ。その言葉の意味が脳裏に届く前にヘパイストスが柄になく茫洋とした笑みが警鐘を鳴らす。

「待て! 落ち着けヘパイストス!!」
「何でそうなるんだ!?」
「ねぇそんなことよりお酒飲んだ方がいいよ?」
「…ちょっと黙っててくれディオニュソス」

 確かに飛び降りなんてことより酒を飲む方がよっぽどマシなのは確かだが。

「結構さ、落ちる時間って長くて色々考えられるしさ、頭冷やすのには丁度いいんじゃないかって」
「冷えるだろうけど! もっと別のもんが冷たくなるだろ!?」

 アレスが後ろから羽交い締めにするが微妙に引き摺られている。前々から思ってたんだが、ヘパイストスって本当に足が悪いのだろうか。

「いいよ別に」
「よくない! よくないぞ!! 話を一から十まで聞いてやるから早まるな!」



 そんなこんなで宥め賺すというより、俺とアレスのふたりがかり力尽くで簡易な机と椅子しかない小部屋に引っ張り込んだ。ディオニュソスはというといつの間にかいなくなって、温かい蜂蜜ミルクと毛布を手に戻ってきた。
 ヘパイストスを椅子に座らせ、背に毛布を掛けて、カップを手に納めさせる。後は任せたと、アレスもディオニュソスも出ていく。さて、ご指名受けてるんだし、頑張るか。と、意気込んで振り返ればヘパイストスはカップを手に力なく項垂れている。
 溜め息をまた一つ。

「温かいうちに飲めよ、それ」
「………うん…」

 ちみちみと嘗めるようにミルクを飲んでいるヘパイストスの正面に腰掛けた。
 あまり使われない少し埃っぽい部屋。高い窓から陽が射している。
 なんだか酷く違和感のあるシチュエーションだ。何だって俺はヘパイストスの失恋相談を受けているんだろう。……改めて今の状況を明確な言葉として思い浮かべると違和感しかない。それも“失恋してどうしたらいいか解らない”だと? 何だそれは。初恋破れた初な少年か、お前は。……やはり考えれば考えるほど違和感しかないな…。
 しばらくして落ち着いたのかヘパイストスがぽつりぽつりと話し始めた。

「私、貴方って凄いと思うよ」
「ああ」
「さっきはああ言ったけど、本当に。恋破れて、辛くはなかった?」
「辛いさ、当然」

 いつだって胸が裂けそうに辛かった。自分の正気が疑わしい程、泣いた事だってある。

「…そっか。そりゃそうだよね」
「辛そうには見えなかったか」
「いや。思い出してみればそんなことないね」
「だろ」
「無茶苦茶な落ち込み方するものね。もう生きる気力がないとか、世界が終わったとかそんな雰囲気の」
「……そんなだったか?」
「うん。けど、すぐ立ち直るからかな。あまり落ち込んでるイメージなかった」
「現金に見えたか」
「まぁ少しは」
「………」
「今になってそれを強いと思うよ。……私はどうしたらいいのか解らない。好き、だとかさ、況してや愛してるなんて言ってはいけない女[ひと]だった。だからそんなこと言うつもりなんて全くなかった。なかったのに。……なかったのに、言ってしまった。嬉しくて、それに悔しくてさ。私がこんなふうになっても何とも思ってないんだろうなって思ってたのに凄く心配してくれたのが自分でも吃驚するほど嬉しくて、それにそれがとても悔しくて。だから心配要らないって私にとってどんなにその女が特別なのか解って欲しくて…!」
「………それで?」

 その想いが報われることはなかったのだろう。

「言わなきゃ良かったって後悔してる。…………て言うか! 他にも恥ずかしいこと色々やらかした!!」

 うわっと赤面する顔を手で覆って机に突っ伏すヘパイストス。
 何やらかした。いやしかし控えめとはいえなんだかんだ言っても父上の息子[俺たちの兄弟]だな、と妙なところで納得してしまう。

「別に無理強いしてやったとかそんなんじゃないんだろ」
「はぁ!? 出来るわけないでしょ!」 
「だよな。その程度のことだろ。だからそれで充分じゃないか」
「……その程度の…? …貴方にとってはそんなことかもね」

 ヘパイストスが自嘲か、或いは俺への侮蔑なのか口の端を歪めた。

「最後までいってないならまだ充分に取り返しがつくだろ。だからさ、ヘパイストスは何をそんな悩んでるんだ?」
「何をって?」
「告白してそれで拒絶され」
「きょ、…拒絶じゃなくて、拒否だもの。拒絶まではいってない…はず……」

 いい歳した大の男が殆ど泣きそうである。

「…俺の言い方が悪かった。そんな顔しないでくれ。……でさ、断られるのは初めから解っていたんだろ」
「解ってた。解っていて言ってしまったのが口惜しい」
「相手が憎い、ではなく?」
「初めから知っていた答えを憎むのはおかしいでしょう。それに今の関係のままがいいと言ってくれたのはむしろ僥倖だと思う」

 まぁ、今の関係のまま、なんて言葉は疎遠になる前口上の可能性もあるのだが。しかしヘパイストスがその事を危惧している様子は彼の言葉からは伺えない。それを楽観的と断ずるべきか、それともその彼女とは疎遠になり得ない関係と推して知るべきか。

「僥倖、か…。それでも、言わないで秘めたままにしたかった?」
「うん、そうだね…」
「それは何故だ。どうして隠したままにしておきたかった? その女を慮ってか。言って拒否されるのが怖かったからか。恋仲になれなくても今の関係のままでも充分だって相手が言って、それを幸せってお前も言ったのに何が駄目なんだ?」
「………」
「じゃあ質問を代えよう。無かったことにしたいなんて、その時のお前の気持ちはどうなる? それも無かったことにしたいのか?」
「…そうかもしれない」
「じゃあ、その女のことを愛しいって言うのも無かったことにしたいか?」
「………そうできればどんなに楽か」
「その女はお前にとって無意味な存在にしたいってことか?」
「……………………………出来ない」

 ヘパイストスが目を閉じる。目蓋にその愛しい女を想い描いているのかもしれなかった。

「ならもう解ってるんじゃないのか?」
「だから何が」
「思った以上に鈍いなヘパイストス。全部言われなきゃ気付かないか? いいか。どんなに言葉を飾って誤魔化しても変わる訳じゃない。俺は愛欲であれ敬愛であれ憧憬であれ、その存在を無上と定めることを恋というのだと思う。だから何者にも代えがたい。だから叶わないと知っていても欲するのだろう。お前も最初から拒否されると解っていたって言っても納得なんか出来てないんじゃないか? 諦めるなんて全然出来てないんじゃないか?」
「あ、」
「だいたい振られたからって好きでいちゃいけない訳じゃないだろ。愛されないから愛することが許されないなんて、勘違いだ」
「………そう、か」

 氷解。
 ヘパイストスの硝子のような左目が息を吸ったように明度を増す。

「……そっか、…そうなんだ…」
「俺は他の何を捨ててでも、女の何を犠牲にさせてでも愛することが至上とは言わない。その時、無理に手を取らなかった。それは誇っていいことだ、と。そう思う」
「私はどうしたら解らずに逃げただけだよ」
「逃げてもいいだろ。そりゃ男ならいちゃこちゃきゃっきゃうふふーとかそれ以上したいとかあって当然だけど! だけど、お前はその女にそれが出来ないと諦められない癖に、諦めようとしている。それだって愛情の示し方だろ。そんなことも解らずぐだぐだしてたから“悩むな”って言ったんだ」

 ヘパイストスは一瞬息を止めて、長く吐き出した。そして安堵の顔を見せる。

「……アポロン…、………貴方神託が解りづらいって言われない?」
「よく言われる。儀礼的な御伺いってのもあるが、俺に神託を望むやつらには自分で考えることを止めているやつが多くてな。どうすれば解決するのか、なんて自分で考えて試行錯誤して当然だろ。その過程を跳ばして答えだけを知りたいから俺に頼るっていうのは思考の停止だ」
「………身につまされる」
「だいたい悩んでるっていうのはもう答えが解っているのに解らない振りをしているだけなんだ。常識に外れてしまっているから認められないとか、望まない結果もついてくるから嫌だとか、理由は様々だがな。まぁ俺が何言ったって人間は自分が欲しい“神託”しか欲しがらないし、そういう方向にしか解釈をしない。話が逸れたが、今回はかなり特別にお前の悩みが既に答えを得ていて、如何に無意味か解説してやった。感謝しろ」
「……………ありがとう」
「…よろしい」

 俺は大きく頷いた。
 まったく。ひとをいつも失恋してるみたいに扱ったのにこんなに懇切丁寧に教えてやったんだから謝辞もひとつくらいじゃ許してやるものかと思っていたのに、あんまり素直な言葉に文句を付けられなかった。

「そっか、私、あの女のことこのまま愛しててもいいんだ」

 溜め息のように零れた独白。そこには失くした大切なモノを見付けた時のような安堵があった。
 しかし何故だろう。俺は違和感を払拭できずにいた。


君に問う


「ところで“愛してるなんて言ってはいけない女”、人妻? もしかして処女し………まさか姉さんじゃないだろうな」
「断じて違う」
「違うなら誰かは深く問わないが、その反応は失礼じゃないだろうか」







彼の解

 躯を蝕むほどの心の痛みは幸せな恋の形に他ならぬ。
 そんな単純なことも見失っていただなんて。
 嗚呼、なんて幸福だろうか。




<2012/01/18>
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