墜落と飛翔。
 悲哀と憤怒。
 恐怖と歓喜。
 屈辱と愉悦。
 苦痛と快楽。
 憎悪と愛情。

 区別がつかぬ。
 ヘパイストスとはそういう男であった。


 そもそも彼の出自といえば、不死なる神であることを差し引いても神々の父と神々の女王の第一子、卑しからぬ身である。
 しかし彼は一族の中で決して重んじられていない。むしろ軽んじられてさえあった。汗水流す労働とは無縁の優雅な生活を愉しむ神々の中で鍛冶に従事し煤けた姿をしているからだが、彼が畸形であったからというのも大きかろう。跛引く彼を見て笑うものは少なくない。畸形、そして異相。彼は生まれながらに全くの異端であった。故に面目を失うことを恥じた彼の母によって彼は生まれてすぐさま棄てられた。オリンポスの高みより〈海〉の涯へ。

 墜落する恐怖、そして筆舌尽くしがたい痛み。あまりに圧倒的だった。幼いとすら言えない彼の心の殆ど総てが埋め尽くされた。それ以外に残ったのは美しい母の姿だった。
 生まれて初めて目にしたのが彼を生んだ母、すなわちヘラだった。その美しい姿は、彼はまだ美しいという言葉を知らなかったにせよ、彼の心の一番奥底にまで届いて焼き付いた。そして、直後、彼女から向けられた拒絶と嫌悪。与えられた恐怖と苦痛。それはあまりに圧倒的で致命的だった。他の事など入り込む隙のない程の、強烈で不可逆な記憶。それは総て美しい母への憎悪に転化した。死すべき人間であらば、その死をも超える恐怖と苦痛を知り得ようか。その憎悪を解り得ようか。
 しかしその憎悪すら美しい母への想いを打ち消すには至らなかった。彼は母に愛されたかった。或いは幼子の本能からくる希求でもあったのかもしれない。
 彼は九年の齢[よわい]を重ねて、母と再会する。


 ヘパイストスがそれに気付いたのは、彼の弟に打ち負かされた時だった。
 曲がりなりにも母から許しを得、オリンポスに迎えられて、彼の心は凪いだ。否、後から思えばそれはかなり無理のある不自然な状態ではあった。オリンポスでの彼は常に嘲笑と賞賛、侮蔑と憐憫の中にあった。更にアプロディテとの結婚で羨望と嫉妬と露骨な悪意に晒された。悪意の発現こそ、彼の弟であった。弟と妻との姦通は甚く彼の自尊心を損なった。追い討ちをかけるように弟は彼に重ねて暴力を振るう。弟から振るわれた暴力と浴びせられた暴言はしかし心地好かった。隠された悪意よりも直接叩きつけられる悪意の方がよほど好意的だ。
 誰も彼も、自分のことなぞ蔭で嘲笑っているではないか。片輪者、跛引き、半端者、と。男女の交わりによらず女だけが成したからお前のような畸形が産まれたに違いない、と。お前なぞどう足掻いてもオリンポスに相応しくない、と。弟がしたのはそういうことだ。だが弟の方がよっぽどましだ。偽善的な嘘のない純粋な敵意がよほど心地好い。ああ、そうか。ならば母も同じではないか。彼女は一番始めにそれをしたじゃないか。………否。否。否。いや違う。そうじゃない。比べものにならない。母の方がよほど酷かった。恐ろしくて痛くて憎かった。弟のそれなど比べるべくもない。母がよほど…!
 弟からの暴力を甘んじて受け入れながら思うのはひたすらに母のことだった。苦痛と屈辱を受けながら笑いを堪えるのに必死だった。
 気付いてしまった。他のことなど母と比べるまでもないと気付いてしまった。
 途端に、世界が変わった。

 どんな誹謗だろうとと母の無言の拒絶がよほど彼の心を傷付けたし、どんな暴行が加えられようと母に落とされた時の凄烈な痛みの前には無に等しい。皆みんな意味がない。心を動かすだけの価値がない。

 長い時間をかけて次第に確信を深めていった。
 どれだけ時を経ようと色褪せない恐怖と痛みの記憶。それ以外は色を喪ってしまうのに。与えたのは母だ。自分にとって母がどんなに大きな傷を与えたのかと思うと、とても愉しくて嬉しかった。母からのみ産まれたから不具なのだという讒言すら、自分と母が特別な存在であることを肯っているにすぎない。父なぞこちらから願い下げだ。
 母以外に価値を見出だせない。母以外に傾ける感情もない。歓喜、憤怒、悲哀、尊敬、愛情、憐憫、憧憬、欲情、狂気すら総て、全て、すべて! 母のためにあるべきだ。
 母が唯一で、絶対で、すべてだ。
 ヘパイストスは漸くにして自覚したそれは激しい恋心に酷く似ていた。

 一目惚れだったのかもしれぬ。
 思い返せば、産まれてすぐに美しい母に一目で恋をしたのだ。多分、そういうことなのだろう。

 母が文字通り吊し上げられて反射的に父というひとに手向かった。その時に全部納得した。


 だから今、こうしてまたオリンポスから投げ落とされているのに、ひとつの後悔もない。母を庇ってこうなったなら寧ろ嬉しかった。嘗ての墜落の瞬間は覚えている。皮膚の下を這い回るような恐怖も、抑えきれない歓喜であった。
 地上に叩きつけられて激痛にのた打ち回るその時も、きっと考えているのは母のことだろう。母の為に受ける痛みはこのうえなく快いに違いない。しかし。しかし、少しでも彼女は自分のことを見てくれていただろうか。ヘパイストスはそれを思うと切ない。救いのない片恋だ。初めから絶望しかない。母の視線の先にいるのは常に彼女の夫なるひとだった。その間に割り込んだ。少しは自分を見てくれただろうか。それが叶っていたなら、


 なんて幸せだろう。


彼の幸福論


 墜落と飛翔。
 悲哀と憤怒。
 恐怖と歓喜。
 屈辱と愉悦。
 苦痛と快楽。
 憎悪と愛情。

 区別するのをやめてしまった。
 ヘパイストスとはそういう男であった。


或いは発狂に至る経緯


<2011/06/16>

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