私はなんて愚かだったんだろう!

 門までの道を走ったのは初めてだった。いつもなら目を楽しませてくれる美しく調えられた木々も色とりどりの花々も雅やかな噴水も今は過ぎ去る背景に過ぎない。長いスカートに足が取られ転[まろ]びそうになる。制止する声もあったようだが聞いていられなかった。息が上って苦しかった。それでも足を止めようとは思わなかった。少しでも早くあの子に会わなければ。謝らなくては。
 包帯だらけの横顔が見えて私は叫んだ。


「ヘパイストス…!」

 ああ声が巧く出ない。

「母上?」

 ヘパイストスは振り向いて不思議そうに小首を傾げた。そして何か気付いたように言葉を重ねた。

「母上、どうしたんです。走ったりして。危な」
「…ごめんなさい。ヘパイストス!」

 ヘパイストスが私支えるべく少し低い姿勢で差し出された右腕を通り越して抱きしめる。今までこの子にしていた抱擁がどんなに感情の籠らないものだったのか自分でも解るほどに。力一杯に。
 近くには兄を迎えに行っていたアレスの他、アポロンやディオニュソスまでいたが構っていられなかった。しかしアレスが気を利かせたのかすぐに気配は去った。
 おずおずした様子でヘパイストスも腕を回す。そこには躊躇いが感じとれて、私がこの子に対して向けていた疑心のようなものをこの子も知っていたのだと解った。

 ヘパイストスは私を決して赦しはしないだろう。
 私が嘗ては棄てた我が子・ヘパイストスと曲がりなりとも和解した時から抱いていた確信めいた思いだ。嬰児に過ぎない自分を天から海に投げ落とす母親などどうして赦せよう。憎んだままで当然なのだ。そう思っていた。その思いはそれまでの時間を埋めるように母子として過ごすうちに少しずつ変化した。
 気味が悪い、と。
 ヘパイストスは恨み言ひとつ言わず、献身的ですらあった。それは私には全く理解出来なかった。気味が悪かった。だが遠ざけるのはいかにも私が理不尽ではないかと、私はヘパイストスに接する時は努めてよい母親であろうとした。よい母親を演じていたと言ってもいい。
 きっとそれをヘパイストスも疾うに気付いていた。だから私がこんなふうに抱きしめるのが不思議なのだろう。

 少し腕を緩めて見上げれば、ヘパイストスは戸惑いを隠せないまま遠慮がちに笑っていた。包帯の巻かれた頭を撫でれば照れたように酷く嬉しそうに笑う。

「ごめんなさいね、ヘパイストス…私の所為で」
「いいえ。母様、いいえ」
「だけど貴方が投げ落とされる必要なんてなかった」
「母様が縛られた上に吊るされる必要もなかったでしょう?」
「だけど私を庇うなんて…」
「私は貴女の息子なのだから当然です」

 髪から頬に手を滑らせればヘパイストスはそっと手を重ねてきて穏やかに目を細めた。


 私は、ヘパイストスがあそこまでして私を庇うなんて、思いもしなかったのだ。
 忌々しくもヘラクレスと名乗るあの不義の子の船を難破させようと、ゼウスを計り眠らせ、海に〈風〉を送り込んだ。そのことでゼウスは酷く立腹し、私を吊し上げた。それに異を唱えたのがヘパイストスで、結果、ヘパイストスは再び天から投げ棄てられた。

『今も…っ。今も夢で魘されるほどなのに…あの方は今も夢で見て、怯えているのに…………………ひどい…』

 ゼウスは歯牙にも掛けなかったがカリスのひとりが涙ながらに言った言葉は、ただ見ているしか出来なかった私の胸を縄以上に締め付けた。その後のやりとりも他の誰かも何か言っていた筈のこともよく覚えていない。

 自分を棄てた母だろうに。海に落とされたのは恐ろしかっただろう。母を憎んだだろう。同じ目に遇うのはもっと恐ろしかっただろう。なのに。
 ヘパイストスは…あの子はどんな気持ちで私を庇った? どんな気持ちでゼウスに歯向かった? どんな気持ちで墜ちていった?

 今、どんな気持ちで笑っている?
 堪らなく切なくなって、もう一度、強く、抱きしめた。

「ごめんなさい…ごめんなさいね」

 何を、とは言わなかった。言えなかった。たくさんありすぎた。謝らなければいけないことが多すぎる。私はヘパイストスを棄てたことをようやく後悔した。棄ててそれに罪悪感を持たなかったことのな罪深さを知った。オリンポスに迎えてからこの子は私のことを母と慕っていてくれたのに。ずっとこの子からの愛情を疑っていたなんて…私はなんて愚かだったんだろう!

 この子はまだ私を赦してくれるだろうか? 赦しを請うことはできない。この子は赦さないだけの理由がある。それでも赦して欲しいと思う。もう一度、母子の関係をやり直したい。ヘパイストスが母と慕ってくれるなら、そうすることで少しでも償いとなるのなら、今度こそ母として接することができる筈だ。
 我知らず、涙が溢れた。

「…ごめんなさ…い……」
「母様」

 ヘパイストスの存外白い、そして冷たい指先が頬の涙を拭った。光が白く滲んだ世界でやはりヘパイストスは少し困ったように微笑んだままだった。よくよく見れば顔の右半分は包帯とガーゼを当てて、右腕は添え木で固定した上で首に回した布で吊って、残った左腕も袖から白い包帯を巻き付けているのが見えた。
 息が詰まる。

「…ごめ…なさい、私の所為よ」
「母様、」

 右目がある筈のところに触れ、髪を撫でる。

「…怖かったでしょ…う?」
「怖くなんかなかったですよ」
「痛かった……でしょう…?」
「いいえ、母様。別に痛くなんかなかったです」

 ヘパイストスは静かに笑う。

「貴女に棄てられた時の方がずっと痛かった」

 一刹那。

「それにあんなの怖くないですよ。貴女に棄てられた時の恐ろしさと較べれるべくもない」
「ヘパイス」
「ほんとうに、あの時は怖かったのですよ母様。ただただ墜ちていく。風を切って。ひたすら落下する。怖い。怖い。厭だ。生まれたばかりの私はまだその言葉を知らなかったけれど、その感覚が身体を、心を支配する。どれくらいの時間だったのか。今なら永遠とも思える時間、そんなふうに譬えたかもしれない。実際、それに終わりがあるなんて思わなかった。突然終わったのは海に叩きつけられた時。痛い。そんな言葉じゃ足りないくらい痛かった。ひとの噂には私がその時、脚を不具にしたのだとか言うけれど、まさか。そんなので済む筈がない。骨という骨は砕けて皮は裂け肉はひしゃげて頭蓋から脳漿は流れて神経も筋肉も引きちぎられて破れた肚から内蔵は溢れてそれだって元が何なのか解らないほどにぐちゃぐちゃで私はそれでも死なないんだからぐちゃぐちゃの形を失った身体の全てが痛かった」

 まるで大切な思い出を語るように嬉しげで楽しげな微笑を浮かべてヘパイストスは言った。

 私は瞬きひとつ出来ない。声ひとつ発することが出来ない。
 理解が追い付かない。何を言って、いや、しかし、それも当然のことではないのか、憎まれて当然だと思っていたではないか、だが、何故、どうして、そんな表情[かお]をするのか。

 ヘパイストスはふわりと笑って私を抱きしめた。子供が甘えてするような抱擁に、私は動けない。

「ねぇ、だから大丈夫ですよ母様。あのひとがしたことなんて貴女にされたことに及ばない。あのひとだけじゃない。斬られても撲られても刺されても、貴女以上のことなんてない。母様、貴女以上なんてないんです」

 頬に冷たい指先。それは温度は違えどあのひとに酷く似ていて。薄い玻璃色の眼が私を捕らえる。

「貴女以上に私を傷つけるひとなんていない」

 言って手を取り、口附けを落とす。

「貴女以上に憎いひとなんていない」

 額に、頬に、口附けて、

「貴女以外憎む価値もない」

 唇に、触れそうなくらい近くで今にも泣きそうな笑顔で囁く。

「貴女以外愛する価値がない」

 瞼に、

「母様」

 掌に、

「母様。愛してるんです…母様」

 腕と首筋に、口附けをしてそのまま顔を埋める。

 微かに震える躯と低い体温があんまり憐れで、私はその頭を撫でようとして、やめた。
 ヘパイストスが何を言っていたのか上手く飲み込めない。否、きっとそれを嚥下してはいけない。理解してはいけない。いけない。何故。何が。何を。どうして。いけない。考えてはいけない。
 錯綜する想いに、ただ、ひとつ確かなことがある。


 愛を乞う息子に私は応えることが出来ない。














<2011/06/03>

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