「ざまァねぇな」
 口許に嘲笑が浮かぶ。
 組み敷いて見下してやった。
 殴られるなどと思っているのならおめでたい。内腿を撫ぜた。これがどういう状況か充分に解る筈だ。しかし下にいる男は眉を顰めさえしなかった。
「抵抗くらいしろよ。それともそっちの趣味かよ」
 口汚く罵りながら頬が引き攣る。笑みというには凶悪過ぎるだろうと自覚出来た。
 見上げてくる男は打ち捨てられた死体のように表情がない。褪めている。あの日見せた狂気じみた鮮やかな笑みは微塵もなかった。無感情だ。驚くでなく怯えるでなく、まして怒るもなく、不揃いな色の眼が見上げてくる。
 苛立ちに唇を噛んだ。
「何か言ったらどうなんだよ」
 アレスは憮然と言う。



 あの日以来、変化は明らかだった。
 ヘパイストスは廃人か何かのようにじっと自傷に耽ることはなくなった。それまでと同じように公の場に出てくるようになった。
 しかし、笑わなくなった。かつり、と致命的な何かを欠いたように笑わない。
 漸く立ち直ったけれどショックが大きいかったのだと誰かが言った。そして媚びを売るように慰めようとする者達がヘパイストスを取り巻く。ヘパイストスはそれを避ける。初めはひとりになりたいだけなのだと、至極普通の判断がなされる。だから時間が経つとまた耳障りの良い言葉を吐こうと近付く。ヘパイストスはその輪から離れる。それが二度・三度と繰り返されると、身勝手さを善意と思い込んでいる連中は親切を裏切られたと思う。ヘパイストスは偏屈だと言われるようになった。もっと悪し様な声が上がるのにもそう時間はかからないだろう。
 好い気味だ。アレスは思った。
 その筈だった。

 白い回廊で、それまでなら幾人かの馬鹿共と歩いていてアレスと目が合いかけると脅えたように顔を背けていたヘパイストスが、取り残されたように独りいて無感動のままアレスを一瞬見据え、そのまま視線を前方に戻した。アレスは動けずヘパイストスを目だけで追った。すれ違い際の横顔はアレスへの関心の薄さを物語っていた。振り返って歩み去る背中を睨みつけた。

 アレスが嫌悪していた愛想笑いが消えて、アレスが馬鹿と呼んだ者達から離れて、いつの間にかヘパイストスはアレスと同じ立ち位置にいる。アレスは初めどうしようもない戸惑いを覚えた。今まで交わることのなかった視線が同じ高さにある。だというのにすれ違ったヘパイストスの眼は温度なく無関心を映していた。同じ高さの視線はそれでもアレスを素通りしているのだ。気付いて肚が煮える。

 思い出される狂態。
 腐りかけた果実のように甘ったるい味。口元を拭うが、記憶の中から舌に・口腔に絡み付く。
 むかついて吐き出したいのにそれは胸に溜まっていく一方だ。酷く気分が悪い。

 アプロディテに会いたかった。
 別に彼女にこの思いを吐露して楽になりたい訳ではない。ただ彼女がいればアレスは平静を装おうと思える。アプロディテには心配させたくない。弱いところは見せられない。あんな男などに心乱されはしない。アレスは自分らしい自分を取り戻せるのだ、彼女さえいれば。
 とっくに謹慎は解けている。しかし、アプロディテはオリンポスに戻っていない。何故。アレスはすぐにでも会いたいのに、アプロディテは違うのだろうか。……違うのかもしれない。アレスはその可能性に思い至った。否、今までは気付かないふりをしていたのだ。

 彼女との繋がりなんてただの二度だ。それも後のそれはあんな恥辱を加えられたのだ。あの男に。アプロディテの夫であり、アレスの兄であるヘパイストスに。

 胸に溜まっていたむかつきが嵩を増す。熱いのか冷たいのかは判らなかった。ただ咽喉まで競り上がってきて無茶苦茶に叫びそうになる。
 きっと彼女はあれを恥じて戻って来れないのだ。誘ったアレスは仕方がないのかもしれない。だが、アプロディテの申し開きも聞かず晒しものにするなんて非道過ぎる。妻を愛してなどいないのだ。あの男は。そうでなければ出来る筈がない。
 アプロディテはきっと原因になったアレスをも忌避するだろう。
 アレスにはそれが堪らなく悲しかった。辛かった。そして憎かった。ヘパイストスが。
 胸中に渦巻く灼けるような凍えるような黒い感情に突き動かされ、アレスは足音を荒立てて歩み出した。



 既に夜である。扉を乱暴に押し開けて押し入った。
 薄暗い照明。寝台に何をするでなくぼんやり腰掛けていたヘパイストスは闖入者を一瞥して興味なさげに言った。
「何だ、お前か」
「アプロディテかと思ったかよ。あんたの所になんか戻って来るもんか」
 アレスは言いながら近付いて正面に来ると滑らかな動作で佩いた剣の柄を持ってヘパイストスの頭を横から撲り付けた。
 寝台に横倒しになったヘパイストスの両手を捕らえてベルトで結わえ寝台の柵に縛る。
 蹴り上げるように残った身体を寝台に押し上げた。

「ざまァねぇな」
 口許に嘲笑が浮かぶ。
 組み敷いて見下してやった。
 殴られるなどと思っているのならおめでたい。内腿を撫ぜた。これがどういう状況か充分に解る筈だ。しかし下にいる男は眉を顰めさえしなかった。
「抵抗くらいしろよ。それともそっちの趣味かよ」
 口汚く罵りながら頬が引き攣る。笑みというには凶悪過ぎるだろうと自覚出来た。
 見上げてくる男は打ち捨てられた死体のように表情がない。褪めている。あの日見せた狂気じみた鮮やかな笑みは微塵もなかった。無感情だ。驚くでなく怯えるでなく、まして怒るもなく、不揃いな色の眼が見上げてくる。
 苛立ちに唇を噛んだ。
「何か言ったらどうなんだよ」
 アレスは憮然と言う。

「お前さ、馬鹿だよね」
「黙れよ」
 漸く出た言葉はやはりアレスの感情を逆撫でた。
 手にした小瓶。コルクを空けて中の液体を含む。にがい味。アレスは微かに顔を顰める。そして半ばを飲み込んだ。咽喉の内側を伝う感触が気持ち悪い。瓶を投げて空いた右手でヘパイストスの頬に触れ、滑るように髪に指を差し込んで掴む。残りを含んだままヘパイストスの唇に自分のそれを押し当てた。
 髪を強く引っ張る。直に伝わるくぐもった声。舌で割って入り、口腔を蹂躙する。気持ち悪い。そう思った。だが快いと感じる自分もいるのに気付いていた。生理的であれ声を漏らす。以前なら逆に苛立っただろうヘパイストスの反応。薬の効果が出た訳ではない。今飲んだばかりだ。だが愉しいとアレスは感じ始めている。
 そう、先程口にしたのは催淫剤に類するものだ。

 男が男に犯される。それは最大の辱めだ。尊厳も矜持も剥ぎ取られることなのだ。両者に互いへの尊重だとか愛情だとかあれば違う。なければ屈従を強いられることでしかない。故に敵に女役を勤めさせることで心を削ぐ、ということもされてきた。
 辱めること。尊厳も矜持も奪うこと。アレスが今からしようとしているのは正しくそれだった。
 気持ち悪い。悍ましい。正気のまま犯せるとは思わなかった。だから何かで聞いた淫を催すという菜の根を搾った。素人の作った精製などまともにしていない粗悪な薬だ。効き目もあまり期待していない。だがないよりましだ。

 ヘパイストスの咽喉が小さく鳴ったのを聞いてからアレスは唇を離す。名残を惜しむように透明の糸が引いた。
 長く息を吐くことで上がった呼吸をすぐさま調えたヘパイストスの褪めた貌はいつもと変わりがない。
「生きてるんだか死んでるんだか判らない顔しやがって」
 だがやっと歪ませてやった。アレスは笑んでしかしすぐに極めて冷徹な表情をして言った。
「全部無茶苦茶にして、全部奪ってやるよ。お兄様」
「お前には出来ないよ」
 だから抵抗もしないというのか。
「吐かせ」

 ヘパイストスの上半身は丁度クッションの上なのでこちらが見える筈だ。アレスは上体をずらし、ヘパイストスのシャツを捲くり上げ、裸の胸を吸う。皮膚の下に緊張が走るのが判る。噛んで、舐めて、手で触れて、撫ぜて。少しずつずれていきながら腹の筋を舌でなぞる。ベルトを抜き取る。舌先で臍を弄る。
 手強い。右脚のサポーターベルトを外しながらアレスは思った。ヘパイストスのまるで石でも見るような感情の篭らない視線が注がれている。ここまでされても無抵抗。声を無理に抑えている様子もない。息が少し上がっている。しかしそれだけだった。

 見上げれば案の定、熱のない目があった。その目を見詰めながら右手で脚を曲げさせブーツの留め具を探る。固い音。外れた。何度か繰り返して全て外す。一度身体を起こして両手でブーツを脱がせた。そして背後に投げる。
 残った右脚のも脱がせてしまおうと手を掛ける。
「やめろ」
 不意にヘパイストスが言った。アレスは驚いたが、言ったヘパイストス自身も驚いているようだった。
 ああ、なんて表情[かお]をするんだろう。
 今まで不快にしか思えなかった胸の痞が快いものに変わる。
「何で今更嫌がるんだよ。ハッ、だったら尚更止めるか」
 アレスは獰猛に笑んだ。手早く左のそれより複雑で物々しい留め具を外す。抵抗のつもりか脚に力が入った。しかし抵抗と呼べる程の力はない。アレスは意に介さずブーツを脱がせた。裾から覗く大袈裟に包帯が巻かれた右足。違和感。ああ、左脚と長さが違うのだ。一瞬思って包帯も乱暴に取り去る。成長を忘れたような、海を夢見るような足だった。これが母に棄てられた理由か。確かめるように触れる。
  ぎちっ
 そちらに目を遣ってヘパイストスの手を拘束しているベルトが鳴ったのだと知った。同時に認めたヘパイストスの顔。恐怖でも羞恥でもなく、しかしヘパイストスの顔が歪むのが酷く可笑くて、身を沈めて足の甲に口付けた。びくりと反応。爪先にまで走る緊張。音を伴って吸い込まれる息。ぞくぞくした。ヘパイストスの顔が見たくて、曲げさせた膝を抱えたまま上体を起こす。震える呼吸。唇を噛んで何に堪えるような顔。しかし堪え切れず今にも崩れそうな顔。
 アレスは笑んで右足に再び接吻を落とす。わざと音を立てて吸って舌を這わせ愛撫した。そう。まるで愛撫だ。親指を含んで甘噛みして爪と指の間を舐める。微かに声を孕んだ息遣いが耳朶を打つ。ああどうしよう。愉しい。アレスは惑う。惑いながらヘパイストスに覆いかぶさってまた唇を重ねた。口の中に声が響く。一度息をついて、唇を食んだ。微かに甘い。歯列をなぞりながら暫くその味を愉しんで離れた。堰を切ったようにヘパイストスは熱い呼気と声を吐き出して、その声と顔がアレスを昂らせた。ヘパイストスのズボンをおろして脚から抜き取り下肢を晒させ、右手を顔の横に突いて、左手で膝裏から持ち上げて、そして、
 目が合った。暗い照明の中でも判る左右違う色の瞳。目を見開いて。強さを削り取られた弱い貌。白い睫毛に光るのは汗か涙か。濡れた唇が何か言おうと開きかけた。
 その瞬間穿った。仰け反った咽喉から声が溢れ出る。アレスも小さく呻いてから嗤いだした。肚の底から沸き上がる衝動。
「アッハハハッ! 弟に犯されるなんてこれ以上なく最悪だな! なあ! ヘパイストス! ヘパイストス兄上!」
 昏い情動のままに打ち付ける。その揺れで腕の戒めが解けかかっていた。断続的な嬌声がアレスの芯を震わせる。
 コレと恋人同士の愛し合うのが同じ行為[こと]だなんて酷い皮肉だ!
「なぁ、兄上。あの女と同じベッドで同じ男に抱かれる気分はどうだよ」
 動きを緩めてアレスは優しい声で囁いた。喘ぎながら見詰め返してくるヘパイストスの目の縁が赤味を帯びている。自分で言ってここがアプロディテと愛を交わした場所だと思い出した。背徳感が這い上がり高揚感に擦り変わる。
 アレスは陰惨な気持ちが増して激しく攻め立てた。ヘパイストスの腕を拘束していたベルトが外れる。手を伸ばす。指を絡めて引き寄せる。余った左腕は自らの背に回させた。その手が背に爪を立てた。痛い。その痛みも今は甘美なものに思えた。啜り泣くような嬌声が一際高まってヘパイストスが大きく痙攣した。アレスも咽喉で嗤って、
「ざまァみろ」
 悦びの内に吐精した。



 幾度目かの絶頂を齎して、迎えて、ようやく繋いだ躯を離した。
 しばらく意識を手放した後、酩酊に似た興奮から醒めて今度は虚脱感が酷い。何をしているのだろう自分は。ここはアプロディテと逢瀬した場所でもあったのだ。背徳感が振り返していた。帰ってこない彼女との距離が決定的に隔たった気がした。戻って来るものか、あれは自身に向けての言葉ではなかった筈だ。
「何で…まともに抵抗しなかった」
「…ぇには、な…も、ぅば…ぇてないからさ」
 独白に答[いらえ]があった。嗄れた声。暴力的な目合で散々に啼かされたので当然の声だった。しかし、既に平静を取り戻した声だった。
 アレスはヘパイストスの横顔を見た。天井を見るいつもの褪めた貌だ。起き上がって寝台から下りる。死体のような色をした躯。先程まであれと情交を行っていたのだと他人事のように思った。ヘパイストスが脱がされた衣服を拾ってよろめきながら出て行くのを、アレスはぼんやり見送った。

 そしてヘパイストスが言った意味を考えた。何も奪われていない。何も奪えていない。か。何を言っているのだろうか、あの男は。
 同性の交わりでは年長者が能動的・年少者が受動的役割に就く。妻と間男の姦通を知った夫は二者にいかなる制裁を加えても赦される。
 さかしまにしてやった。このヘラスの地に於いて自身にある筈の権利を行使出来ぬ者、守れぬ者は弱者として皆に笑われるのだ。なのに何も奪えていないと嘯くのか。

 アレスは鈍々と身を起こして下だけ穿いて扉から一歩踏み出した。あの脚だ。遠くへは行っていまい。水の音。そちらに足を向けた。すぐにそこへ辿り着いた。浴室だ。
 取っ手にここまで細工を凝らす必要があるのだろうかと痺れる頭で思って開いた。蒸気が漂い出る。バスタブに凭れ掛かって座り込んだ後ろ姿。近付いても振り向きさえしない。髪を掴んでこちらを見上げさせた。
「何だ。さっきかました余裕はどうした。痩せ我慢かよ」
「…る…さい」
 憔悴している。手を放すと力無くアレスの足元に崩れた。アレスは安堵した。あれだけの事をされて何でもない訳がない。それが確認出来て少し笑った。
 踵を返す。裾を掴まれた。白い指が裾を掴んでいる。振り返るのと同時に腰のベルトにも指か掛かり引き倒される。
「うっ」
 乗り掛かられて、左肩と右腕は押さえられ、組み敷かれたのだと気が付いた。ぞわりと背筋に広がりかけたそれは湯舟から溢れた湯が感覚を上書きした。しかし湯はすぐに退いて濡れた頭や背から気化熱を奪われる。いや、それ以上に乗り掛かったヘパイストスの膚がどうしようもなく冷たかった。
「何…しやがる!」
 やっとのことでアレスは言った。だが、声が震えていない自信はなかった。
 頬に触れてくる手はそれほど冷たくなかった。逆に生々しく思えてアレスは身じろぐ。すると手とは反対側から顔が近付いて耳に寄せられた。
「今度は私が抱いてあげようか」
 声を上げかけた。耳元で囁かな笑い声が聞こえた気がして身を固くする。しかしそれ以上は何も起こらず、アレスは身体を捻ってヘパイストスの顔を横目で見た。目を閉じたまま微動だにしない。意識を失っているのか。アレスは溜息を吐いた。

 ああどうしよう。何時間か前にも思ったがその時とは全く別の意味合いでアレスの中に響く。捨て置けばいい。そうするべきなのに何故かその考えは行動に移すまでもなく否定された。払い退けるには冷た過ぎる膚。どうしよう。いつまで経っても同じにならない体温を重ねたままアレスは途方に暮れた。


<2010/01/12>
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