ささめく海。
 女は鮮やかな紺碧の海に臨む砂浜にいた。
 陽を避ける為に布が張られ、その陰りで足置きのある椅子に身を委ねて女は海を見ていた。

 海風に当たってはいけない裡へと侍女達は言ったが、不思議と凪いでいたので、女はどうしても肯んずることが出来なかった。そしてひとりになりたいと更に無理を言って、人払いもさせ此処にいる。
 此処は女が初めて大地を踏んだ場所だった。

 別に感傷に浸っているわけではない。女は思ったが、それは逆説的に女がセンチメンタリズムを抱えていることを告白していた。女はそれに気付いていたので少し溜息を吐いた。
 背後に砂を踏む微かな音。
 女は誰何もせずに言った。
 「あなたが来るなんて思ってなかったわ」
 「そう」
 而して答えたのは男だった。彼は女の夫である。女は振り向きもせずそれを悟っていた。男は背後からそっと女に近付き坐ったままの彼女の斜め前で向き直った。
 「久しぶり」
 女は男を見て少しだけ瞠目した。
 「しばらく見ない間に変わったわね」
 「そう?」
 「変わったわ」
 男の抑揚のない相槌に女は微笑んで言った。
 「わたしを連れ戻すよう、ヘラに言われたのかしら?」
 『貴方は彼女の夫なのだから』と男の母が言いそうなことである。
 「そう言われた」
 「あら正直ね。違うって言うと思ったわ」
 少なくとも女が『変わった』と判じる前の男であったなら、女の顔色を伺って当たり障りのない言葉を選んだ筈である。しかし男は何の淀みもなく諾と答えた。女には何故かそれが嬉しく思えた。それだけに続く男の言葉に女は困った。
 「ねぇ、どうして戻って来ないの?」
 何処にとも、誰の元にとも男は言わない。しかし女は元いた場所から逃げ出しているのだと男が気付いていることに気付いた。責めるわけでも慰めるわけでもない男の淡然とした声に逃げ場がない事を思い出された。

 女は目を閉じる。目を閉じれば聞こえるのは寄せては返す波の音だけで男が現れる前と同じ静かな世界だった。男との会話は夢幻だったのではないかと思える程に静かだ。そっと女は自らの腹に触れる。何も答えなければ男は去るだろう。或いはずっと沈黙を保ったまま其処にいるのかもしれなかった。しかし、
 「…………わたし、子供が出来たの」
 「…そう。…おめでとう」
 女は短くない逡巡の後にようやく答えた。目を開ければ男は少し思案顔をして女が掛けた時間よりは短くその言葉に辿り着いた。女はじっと男の顔を見る。
 「…おめでとう…で、いいんだよね。……誰の子供か判る?」
 男は妻である女にそう訊いた。
 「さぁ判らないわ」
 それは本当だった。しかし正確ではない。
 「アレス?」
 男が口にしたのは彼の弟の名だった。男の表情は何処までも透明で感情が見えない。女にはそれが少し苦しかった。
 「多分」
 「あれは知ってるの?」
 「知らないと思う」
 「そう」
 男は言ってそっと女の手に自身の手を重ねた。男の左右違う色の眸は女の腹に視線を注いでいる。女は男の手を腹に触れさせるように重ねる順番を変えた。男の指先が薄い布越しに女の柔らかな腹に触れている。相変わらず冷たい手だと女は思った。
 「ねぇ、私がこのまま子供をどうにかするとは思わないの?」
 男は穏やかなまま言う。実際、男にはその権利があることを社会は認めていた。女も静かに訊いた。
 「そう思えばいいのかしら?」
 男は答えず、膝を折る。それは片脚が不如意な男にとってかなり困難な筈であるが、男は女の傍らに膝を突き、臨月には程遠くまだ膨らんでいない女の腹に頭を寄せた。ぴたりと耳を付けて胎児の鼓動を聴こうとするように。
 酷く子供じみた男の行為に女は男の髪を撫でる。
 「ねぇ、どうして戻って来ないの?」
 男は繰り返した。
 女は何度も男の髪を撫でる。そして海を見た。男が女を見上げた。
 「わたしね、多分子供を愛せない」
 男は何も言わない。
 「嫌いとかまして憎いとか言うんじゃないの。愛せない。子供の愛し方が解らない。男女の愛ならよく知ってるの。だけどそれ以外の親や兄弟姉妹や友達や子供への愛情の持ち方が解らない」
 「…そう」
 「それにね、わたしだからって子供を愛したいって思ってないの。愛せないことに自己嫌悪してないの。愛せないって思っても愛したいって思えないの。子供の父親は愛してるのにね。……だから逃げてきちゃった」
 「そっか」
 男はそれだけ言って腹に女の腰に腕を回して女を抱きしめた。まるで女の腹ごと胎児を抱きしめているようだった。女の腹に頬を寄せ男は言う。
 「抱きしめて、キスをして、名前を呼んで…それでいいんじゃないのかな」
 男の声は酷く細い。
 「それだけで足りる?」
 「さぁ、……私も解らない」
 「そう」
 女は男の頭を撫でる。それは幼い子供をあやすようだった。当人たちは気付いているだろうか。

 海がきらめく午後の事だった。


 風止まりのふたり


<2010/02/21>
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