「貴女さ、私の所に来れば何でもあるって思ってるでしょう」
 「大体ならあるだろう。それに実際あった筈だ。見た覚えがある。私の記憶に誤りがあるはずはないが、もし、無ければ造ればいい」
 「……造るの私だよね?」
 「ああ無論だとも」
 「まあいいけどね」
 何でもない事のように言うアテナにヘパイストスも何でもない事のように言った。

 「だけどあったかなぁ、そんなの。私何で造ったんだろう」
 ヘパイストスの持つ分厚いファイルの背には『楽器』。開けば小さな文字の羅列。視線を斜めに走らせて目的の文字を探す。
 「さあ。だがそんな妙なモノだから私も記憶していたのだろうな」
 アテナの手には同様に『武器T』のファイルがあった。
 「妙とは随分な言い方だね」
 「気に食わないか? ならば変なモノとしよう」
 「…妙の方がマシかなぁ」

 パラパラと規則正しいページをめくる乾いた音。
 一冊改め終わったアテナがファイルを脇によけ、次の一冊を手にする。『武器U』だ。ヘパイストスが『装身具T』に移った時には既に半ば程まで進んでいた。


 オリンポスにあるヘパイストスの屋敷は優美壮麗として名高い。しかしアプロディテのその時々の趣味に合わせて増改築を繰り返した為に、内側が迷宮[ラビュリントス]のように複雑怪奇であることを知る者は多くない。
 いくつもある部屋のうちの一つ、地下の工房に続く半地下の部屋。普段はヘパイストスが休憩室として使うか、彼の造った物を受け取りに来た者が待合室として使うかの部屋で、味気ないソファーとテーブルがあった。
 ファイルがいくつか積み上げられたテーブルを挟んで、ソファーに座ったアテナとパイプ椅子に座ったヘパイストスが向かい合っている。

 「何故紙媒体なんだ。データにしておけば後で検索しやすいだろうに」
 アテナが言った。批難めいた響きはなく只疑問を口にしたというような声だ。
 答えるヘパイストスも言い訳を探すような声ではない。
 「だからだよ。だから敢えて紙なの」
 「ふぅん。…用心深いんだか無防備なんだか判らんな」
 様々な言葉が省略されている端的なヘパイストスの返事に、アテナは少し左方に瞳を遣り、意味を了解した。その間もページをめくる手を止めない。ヘパイストスが持つそれより残りページは随分と薄くなっている。

 ヘパイストスが造る武器や道具は時折、非常に強力なものがある。例えば、よく知られている雷火の矢は管理をゼウスからアテナが任されているのでその心配はないのだが、それ以外の管理の緩いモノをオリンポスに対して敵意や悪意を持つ者が手にすれば…。そんな危惧はアテナにもある。確かにそんなモノをすぐに探せるのは危うかろう。
 ヘパイストスもその可能性を考えながらしかし、隠すつもりがない。何処にあるのか判らなければ使いようがないのに、時間と根気があれば誰が所有しているのか・何処に保管しているのか調べることができる。
 自分達が使うことも考えれば探す手段は必要だ。それがこのファイルだが、厳重に守られている訳ではない。ここの資料室に放りこまれているだけだ。“敵”がここまで入り込める訳はない、とアテナもヘパイストスも思ってはいない。アテナはその可能性も考えているし、ヘパイストスも同じだからこそ“あえて探しにくくしている”と言ったのだとアテナは推測した。

 『武器U』を置いて『武器V』を取る。
 そして確信した。やはりヘパイストスは本気で隠すつもりがないのだ。確かにここや資料室まで辿り着くのはこの屋敷の構造を知らなければ難しい。しかしこれも絶対ではない。そしてヘパイストスは“絶対”の術[すべ]を持っている。持っていて用いていない。
 悲観的なまでに用心深い考えが出来るのに、無防備なまま楽観的に装っている。なんだかチグハグしている。アテナが言ったのはそのことだ。
 アテナはヘパイストスの表情を窺い見た。その時、平素は表情の薄いヘパイストスが珍しく微かに眉を寄せて言った。

 「解らないって言えば貴女の趣味って解んない。アルカイオス? 貴女ああいうの好みだっけ」
 ヘパイストスも『装身具T』を置いて『装身具U』を持ったが、ページをめくる音は間延びしがちに聞こえた。
 「ヘラクレス、と呼んでやれ。それが今の名だ」
 「野生味が強いっていうか粗暴が過ぎるっていうか」
 「ああ、否定は出来ぬな」
 「少しは否定してあげなよ。カドモスやペルセウス、ベレロポンとも全然タイプ違うじゃない」
 「そうだな。カドモスは慎ましい所が、ペルセウスは向う見ずな所、ベレロポンはあの生真面目な所がそれぞれ気に入っていたよ」
 「知ってる。それで今度のはどこが気に入ったの?」
ここにきてヘパイストスは完全に手を止めてアテナを見る。新たに『武器W』を手にしたアテナは、ヘパイストスと目が合って笑んだ。

 「あれはあれで我らに敬謙な態度を見せる」
 「それは今までも同じじゃない」
 「確かにそうか。あれでも、というのは私の中でそれなりに大きな理由ではあるが。なら、そうだな最たる理由はヘラクレスが今までで一番数多く大きな困難に挑んでゆく宿命[さだめ]を負っているからだな」
 アテナは珍しく言い惑って答えを出した。今まで無自覚だったのか、と僅かに自問する。
 「もしかして今まで考えてなかった?」
 「……貴兄のそういう所が癪に障る」
 「どう致しまして」
 言ってヘパイストスは少し笑った。

 「少しは手を動かしたらどうだ」
 「ああうん」
 アテナのやや無愛想な声にヘパイストスは再び視線をファイルに戻した。
 「そういう貴兄はどうだ。ヘラクレスの、何がそんなに気に食わぬのか。嫌いか、やつのことは」
 「そうだね。別に嫌いという程じゃないんだけど、強いて言うなら名前? ヘラクレス――“ヘラの栄光”だなんてうらやま…じゃなくて、そう、母上を馬鹿にするにも程があるじゃない」
 「成る程、そう取るか」
 「母上を宥める為に、なんて誰が言い出したの。母上への厭味か皮肉にしか聞こえな…ていうかまさかそこまで考えての改名?」
 「ほら、また手が止まっている。あれはデルフォイの巫女に従ったまでだ。頭も悪くはないがそういう事にまで回るまいよ」
 アテナは四冊目を置き『呪具T』に移る。同時にヘパイストスも『呪具U』に移った。
 「ならアポロンの当てこすり?」
 「彼もヘラ様との折り合いは悪いがな。そんな遠回りなことはせぬだろう。考え過ぎだ」
 「そう」
 「ヘパイストス、貴兄は瑣事にこだわる。狷狭に思われるぞ」
 聞くまいが一応の忠告だ。
 「それはどっちでもいいけど。私、悪意に対して敏感なんだよね」
 「被害妄想か悲観主義の拡大解釈の間違いではないか」
 自嘲的な声音に斬り捨てるように言ってやった。虚勢を張る嫌いのあるヘパイストスが自らを弱く言うような時はだいたい本気ではない。少なくとも悲しいとか辛いとかの感情を伴っていない。アテナはそれを知っているので鋭く言った。
 それが証拠にヘパイストスは顔に緊張ひとつなく、
 「酷い言い方」
 とだけ返した。
 それもいつもの遣り取りなので、アテナも会話の流れのままに言った。

 「そんなネガティブな貴兄に好意的解釈をくれてやる」
 「どんな」
 「彼は多くの困難を越えてこそ我々と同じくオリンポスの席に列するを能う。父上とヘラ様が約束された。そして試練を与えるのはヘラ様だ。ヘラ様なくして称賛も神格も得られない。ヘラ様が彼を憎み、与える試練が苛酷であればある程、克した彼が得る栄誉はより輝きを増すだろう。名のままに、彼は“ヘラの栄光”を浴す者だ」

 「どっかで聞いた解釈だね」
 「折角慰めてやったのに随分な言いようだな」
 「慰める気なんて全然ないのによく言うよ。適当に言ってたでしょう」
 「それなりに本当の事も言ったつもりだが?」
 「ある程度は適当な訳だね。だけど成る程。貴女がさっき言ってたのが解った」
 アテナは『呪具T』を置いて『調度品』を改める。

 「貴女は今までで一番多くそして大きな困難に立ち向かうから気に入ってると言ったけど、正確にはその困難に打ち勝たせることに執心してるんじゃないの? 彼を通して貴女は母上と闘っている。そして彼がゼウス様の言うように試練を乗り越えて神として列せられるようになれば、貴女の勝ち。刃を交えずに貴女は神々の女王を尅すことになる。アテナ、貴女は」
 「だとしても」
 アテナとヘパイストスの視線が互いを捉えた。凍って波ひとつ立たない湖のように静謐な面持ちだ。
 「ヘラクレスが昇天を果たすのは父上の意向だ」
 しん、と音が途切れる。


 「ま、いいけどね」
 先に言ったのはヘパイストスで、もうめくるべきページが残っていないことに気付いて最後の『その他』に手を伸ばす。最後と言ってもとりあえず一抱え持ってきただけなので、なければ新たに資料室から取ってくるだけなのだが。
 「いいのか、貴兄は母が敗けるのが嫌なのだと思っていた。この私に、ひいてはヘラクレスに協力するか」
 「求められたら力を与えるのが私のモットーだもの。母上が止めろと言うならその求めに応じるけれど」
 「面倒な男だな、ヘパイストス。一度ヘラクレスに会ってこい。やつの愚直なまでの真っ直ぐな性根に触れたらもう少しはまともになれるだろうよ」

 「んーそのうち…あ、」
 気持ちの篭らない返事をしかけたヘパイストスの声色が変わって、アテナは目的のものをヘパイストスが見つけたのだと知った。
 「何処にある?」
 「シケリアの方」
 ヘパイストスはファイル右下の保管番号を確認しメモを取る。僅かに顔を顰めた。俯き加減だったがアテナはそれに気付いた。
 「しかし何故[なにゆえ]そんな珍妙な物を造ったのだ。青銅製のがらがらなど使う機会があるとは思えぬ」
 「だから覚えてないって言ったでしょ。いいじゃない。これから役に立つのだから」
 アテナが席を立つ。ヘパイストスもふらりと立ち上がった。
 「そういう事にしておくか」
 「本当に覚えてないんだって」
 「解った解った」
 アテナは先を行ってドアの所でヘパイストスを待って、それから歩調を合わせてふたりは歩き出す。


  幕間<ヘラクレス十二の功業(ステュムパリデスの鳥)>


 開いたままの資料。張り付けた写真の下には素材と簡単な設計図、そして『用途・大きな音でビビらせる』と書き添えてあった。



<2009/12/08>
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