葡萄色の海と金色に染まる空。



 太陽の戦車が一日の旅程を終えてオケアノスに辿り着こうとしていた。
 繰り返されるなんでもない営みに、美しさと切なさで動けなくなる。

 見慣れてた筈なのに何度となく感動の濤波は打ち寄せる。そして何故だか酷く切なくなる。二度と太陽は昇らずこの美しい景色が失われるのでははないかという、理解し難い不安だ。
 解っている。そんな筈はない。かのティタンは不死なる神だ。
 しかし、少しでも長くこの美しい景色を見ていたい。夜の帳が空を覆うその瞬間まで見ていたいと思う。

 そうしてハルモニアはいつも浜辺に立ち尽くす。



 石材に富むが肥沃さに乏しいこの島で育ち、母と二人の兄の為に僅かながら働いていた。
 母にはそんな事をする必要はないと言われた。贅沢な暮らしをしているわけではないが、少しの余裕はあった。兄たちの父からそれだけの食扶持は与えられているようだった。それでも上の兄は危険を承知で漁に出たし、下の兄は土にまみれて畑を耕した。少女と呼べるようになった頃、ハルモニアもそれに倣ったのだ。
 初めは母も兄も反対した。あなたがそんなことをする必要はない、と。今も母は同じように言う。しかし、ハルモニアは市場に出掛けたり、畑仕事を手伝う。争い事どころか些細な諍いも厭うハルモニアが殆ど唯一家族に逆らい続けていることだ。
 あなたがする必要はない。母と兄たちの限りない気遣いに満ちた言葉の筈だ。しかし幼かったハルモニアはその幼さ故の感覚の鋭さでその言葉に奇異を感じとった。そして知った。

 彼女は養女だった。



 おや、とハルモニアは首を傾げる。いつも見届ける日没前の風景に見慣れない影があった。子供達の姿は既になく、網を繕う漁師の姿もないこの時間。沈む太陽で金色に輝く波打際。それを切り取る白い影。ハルモニアには老人のように思われた。
 彼は波と砂に足を取られながら酷く不安定に歩いている。若者であればもちろん、老いた者でもこの島で育ったものならあんなふうには歩くまい。それなら旅行者か。どちらにせよ助けが必要だろう。今にも転びそうだった。
 ハルモニアは彼に近付くべく、抱えたままの籠を足元に置いた。

 海からの、一際強い風。
 髪を押さえて少し目を瞑った。薄く目を開くと風に背を向けた男がこちらを見ていた。目が合ってギクリとする。

 別に疚しい事なんてない。
 反射的に思って、見詰め返した。
 そして気付く。

 男の顔は若い。逆光はあるが思いの外近いそこにいるのでそれは確かだ。しかし、海風に乱され沈みゆく夕日に染められた髪は、白い。まるで老人のそれだった。

 奇妙な違和感。否、奇妙というなら若い男が白髪という時点で奇妙なのだ。それ以外の何かが…とそこまで考えてはっとした。彼を老人と判じていたのは髪の色と足取りからだった。その思い込みでその男を奇妙と判じた己の浅ましさをハルモニアは気付き、恥じた。

 後ろめたさを振り払うように正面から彼の視線を迎え入れた。そして気付いた。左右の眼の色が――

 「今日は」
 彼は――
 「こん にちは」
   ――何者だろう。

 不意に発せられた言葉にハルモニアは少し淀んで答えた。
 太陽が今にも沈みそうなこの時間はどの挨拶が相応しいのか。こんにちはと言うには暗過ぎる気がしたし、こんばんはと言うには明るくて躊躇われたが、結局相手の選んだ言葉をぎこちなく鸚鵡返しした。ここにきてハルモニアは彼に掛けるべき第一声を持っていなかったことに遅蒔きながら気が付いた。
 「あの…」
 そして何を言うべきなのか次ぐ言葉も浮かんでこない。何か訊くのは何かを酷く損ねてしまう気がした。ハルモニアの懊悩を知るはずはなく彼は少し首を傾げるだけだった。
 もうすぐヘリオスが大洋に浮かべた船に辿り着く。ハルモニアは思った。


 「ハルモニア!」
 凪いだ景色を悲鳴じみた女の声が切り裂いた。
 「ハルモニア、こちらにいらっしゃい!」
 「母様?」
 振り返った先に母が蒼白な顔で必死な顔で駆け寄るのを見てハルモニアは不思議に思う。
 ハルモニアをきつく抱きしめて母・エレクトラは言う。
 「ハルモニア大丈夫? 何もされていない?」
 「母様…私は何も」
 「行きましょう、ハルモニア」
 「ええ、だけど…」
 エレクトラの言い方は変だった。確かにこんな人気のない所で男が近くにいたのはよろしくないだろう。しかし、まだ三、四歩の距離があった。男の手は届くまい。
 普段のエレクトラなら彼に聞こえよがしにこんな言い方はしない。普段の母がとても優しく、人を疑い不躾な事を言うひとではないと解っているので、ハルモニアは歩み出すのを躊躇った。
 「ハルモニア!」
 ますます甲高く悲鳴のような声にハルモニアは肩を震わせた。母の顔は涙が零れそうなほどに怯えている。
 エレクトラはハルモニアの手を引く。ハルモニアもエレクトラの表情を見て彼女に従った。そっと振り返ると彼はじっとこちらを無感動に見ていたが、ふっと思い出したように海に向き直った。

 風が止まり、昼と夜の裾が触れ合う黄昏。
 男はまるで見捨てられたように白い。



<2009/08/16>
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