かん かかかっ

 心地よい、鑿を振るう音。
 ヘルメスは彫刻に没頭するアテナを見遣った。
 材はドドナの樫の木。彫り出しているのは海路を征く英雄たちを見護る女神。つまり彼女自身である。
 完成すればアテナとともに人間達に授ける為にヘルメスはその像が出来上がるのを待っていた。…というのは建前で、朝も夜もなく天に地に時には不毛の海に暗い冥府にと駆け回らなければならない彼なのでちょっとくらい休んでもいいだろうとサボっているのだ。

 そして折を見て今回の運び賃の交渉がしたいというのもあった。切り落とした枝が欲しいのだ。
 神託を囁くドドナの樫は大神ゼウスの木として大切にされている。アテナがかつてない航海に挑む英雄達の為に是非に、と言わなければ伐られることはなかっただろう木の枝だ。どう使うかは追い追い考えるとして、価値はあるだろう。

 タイミングを見てアテナに話を切り出したいが、ああも集中していると話しかけづらい。しかし、まあいいかと思った。単に待つのは嫌いなヘルメスだが、休憩という目的は果たせているし、一つのことに打ち込むアテナは清々しい。見ていて快い。
 ヘルメスは感嘆の声を上げた。

 「やーごついなぁ。これアルゴスにあげるんやって?」

  かっ かっかっ

 「そ。船首に取り付けるんだってさ」

 答えたのはアテナに道具を貸しに来てそのまま見物しているヘパイストスだ。彼も大概忙しく、どこかの工房に篭って何かを造っているのが常だが、ヘルメスと同じでアテナが像を彫り上げるまで息を抜くつもりらしい。
 以前は根を詰めすぎる嫌いがあったのだから、こうして適度にサボるようになったのは寧ろいい傾向だとヘルメスは思う。

 しかし、面白くないと言わんばかりの声音と渋面に、ヘルメスは(おや、と)首を傾げた。
 ヘルメスが知る限り彼が笑うのは(ないわけではないが)珍しい。それと同じくらい苦り切った表情をすることも珍しかった。
 溜息まで吐きだすヘパイストスを見て、ヘルメスにはひとつ思い当たるところがあった。にぱぁと笑顔を広げる。

 「なんやつまらんって感じやな。どしたん?」
 機知に富んだ深い緑色の目をきらきらさせてヘルメスは問う。

 随分と以前(確かあの大洪水より前だったと思うが)、ヘパイストスはアテナに(あのアテナに!)懸想しているらしいと耳にしたことを思い出したのだ。普段の様子からは窺えないのですっかり忘れていた。
 顛末がどうなったかは知らないが(恐らくは破れたのだろうと思われる)その恋心が燻っていて、アテナが人間に心を砕くのが面白くない、というなら機嫌が悪いのも頷ける。
 彼女は闘いに挑む人間を好き好んで庇護するが今回は特にお気に入りも多いのだろういつになく熱心だ。

 もし、想いを伝えたいから協力して欲しい、なんていう申し出があれば是非手を貸そうと思う程度にはヘルメス自身お人よし(傍目からすればお節介かもしれない)であると自覚していた。勿論いくらかの下心(つまり未だにアプロディテと離縁していないヘパイストスがそれをきっかけにして身辺整理をするのではないかという期待)があったのだが、それを差し引きしても彼は善良と言われていい筈だ。
 悩みがあるなら相談に乗るという善意を全開に、ヘルメスは微笑んだ。

  かん かん かん かん

 ヘパイストスはまた溜息を吐いて、じっとヘルメスを見た。話す気になったのだと確信しつつヘルメスはひとつ頷いた。
 ヘパイストスの持って来た残りの道具を抱える腕に力が入る。ヘパイストスはアテナの後ろ姿を見ながら口を開いた。

 「これの船に乗るイアソンっているじゃない」
 「うんうん。この冒険の主役やな」
 「なんかさぁ、母上がさ豪く気に入っててさぁ」
 「………ヘラ様が」
 「そう母上が! 今回のコルキス行きに各地の英雄招聘したり、アテナに守護頼んだりさ。至れり尽くせりじゃない。それどころか母上『イアソンが望むならイクシオンをタルタロスから解放してもいい』って! 何それ何なの!? どうしてそこまで…母様! 老婆になってたら負ぶって川を渡したからって! それがポイントなの!? 私だってそれくらいするのに。母様背負ってアケロン河くらい渡ってみせるのに!」

 無理やわぁ、……いろんな意味で。

 ヘルメスは内心(絶対すっころぶし、ていうかアケロン河渡ってどうするん、などと)思ったが、口に出さない賢明さを持っていた。言えば確実に何らかの害を被る。

  かん かかっ かっ

 そそっと距離を取ろうとしたヘルメスだが、ヘパイストスに腕を掴まれた。
 真剣な眼差しが注がれる。
 「むしろ母様が望むならお姫様抱っこで何処にだって行くよ、私は」
 知らんし。
 ヘルメスは思ったがやはり言わなかった。言えなかった。
 相変わらずアテナが鑿を振るう少し柔らかな音が続いていた。

  かんっ



<2009/07/02>
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