「なんだ、そんなことか」
 「そんなこと…あんたにとっちゃそんなことかよ!?」
 「落ち着きなさい、アレス」
 「落ち着いてます。…俺はこの野郎にそれ相応の罰を求めますよ、父上!」



 事の始まり、否、終わりと言うべきか。一つの戦争がとりあえずは終結した。共に先王オイディプスの息子であり兄弟であった二人・ポリュネイケスとエテオクレスの相討ちによって。

 七つの門を持つ城塞都市・テーバイの王権を巡る争いだった。
 この兄弟は父王が追放された後、互いに王権を一年毎に国を治めると約した。だが、エテオクレスは約束の一年がきても玉座を譲らず、むしろポリュネイケスを追放した。
 ポリュネイケスはアルゴス王の娘婿となり、アルゴス王はポリュネイケスの王権を取り戻すことを約束した。
 ポリュネイケスがテーバイ攻勢を整えることが出来たのは、アムピアラーオスが軍勢を率いてこの戦いに臨んだことに依るところが大きい。
 アムピアラーオスは予言者であり、この遠征の結果を知っていた。知っていたが故に自分がそして他の者がこの軍に参加することを拒もうとした。彼が知っていた未来は「戦に臨めばアドラストスを除いて皆敗死する」というものだった。
 しかし彼は妻の勧めによって参戦せざるをえなかった。
 ポリュネイケスはアドラストスの妹・アムピアラーオスの妻エリピュレに祖王カドモスの后ハルモニアの首飾りを贈り、夫の参戦を促させたのだ。アムピアラーオスはそれを拒むことが出来なかった。アムピアラーオスはかつてアドラストスと争い和した後、アドラストスと再び争うことがないようにその時には全ての決定をエリピュレに委ねると誓ったからである。
 アムピアラーオスはテーバイ遠征に参加する。予言者が、未来を知る者が臨む戦に誰が敗北を考えただろうか。アムピアラーオス自身、敗北を口にしなかった。態度を決め兼ねていた諸将が遠征に参加する遠因にはなっただろう。

 そしてその結果がポリュネイケスを含めアドラストスを除いた遠征軍の死であった。
 テーバイも進攻を食い止めたはしたが、王のエテオクレスをはじめ有力な将達を失った。
 大いなる悲劇。
 英雄の時代の終わりが始まったのだ。

 その元凶。
 ハルモニアの首飾り。
 創ったのは鍛治神ヘパイストスであった。



 ハルモニアの父であり故にテーバイ王家の祖神であるアレスはその事実を看過することができなかった。
 神々が集まる公の場で問い質した。則ちテーバイの戦疫を仕組んだか否かを。
 その答えが先程の溜息にも似た呟きとあっては、血の気の多いアレスが逆上するのも無理はない。

 加えてテーバイ王家に降り懸かる不幸については以前から良からぬ噂があった。
 曰く「調和の女神ハルモニアは不義の子。鍛治神ヘパイストスは怨みを抱いて呪いを刻んだ首飾りを贈った。首飾りの所有者は不幸な死を遂げる」と。
 確かにハルモニアは軍神アレスと愛女神アプロディテの娘であり、アプロディテの正式な夫はヘパイストスである。アレスとアプロディテの関係が太陽神ヘリオスによって露見した折、ヘパイストスの苛烈な意趣返しを思えば当然の噂だろう。
 しかし実際の所、奇妙なことだがあの事件以前よりも以降の方が彼らの関係は良好であった。少なくともアレスはそう認識していたし、アプロディテやヘパイストスもそうであろうと思っていた。

 この戦が起こるまでは。
 こんな形で決着するまでは。


 ヘパイストスの短い答えをアレスは肯定ととった。ならばヘパイストスのした理不尽を許すべきではない。だから罰などという言葉が出たのだが、ヘパイストスは座したまま少しの動揺さえ見せない。己に正当性があるとでも思っているのだろうか。アレスは何かが軋む音を聞いた。
 「結局、馬鹿な噂通りか」
 父神ゼウスに窘められ一度鎮まりはしたが、自らの呟きをきっかけにアレスの激情を抑えていた堰は崩れる。

 「アクタイオンが死んだのもセメレーが死んだのもイノが死んだのもペンテウスが死んだのもラーイオスがオイディプスがポリュネイケスがエテオクレスが死んだのも」

 テーバイ王家は不幸が付き纏っていた。
 アレスが数え上げた死がそれだった。
 そしてそれはヘパイストスの呪いであると噂された。しかし、アレスとヘパイストスの仲は以前ほど険悪ではなく寧ろ良好だったのだ。互いに憎まれ口を叩くのは常であったけれど、アレスが自分は憎まれていないと思うには十分なくらいには。
 だからアレスは下らない噂だと一笑に付した。

 今は悲しさを怒りに変えて相手を詰るしかなかった。
 アレスはヘパイストスの胸倉を掴んで視線も碌に寄越さない無情な男を正面から捉える。
 「ハルモニアがあんなに苦しんだのも! 全部あんたの所為だろうが。何でそんな清ました顔してんだよ!? ふざけんな!!」
 奔流に任せて言葉を吐いたアレスは自分の感情を処理することに手一杯で、ヘパイストスが僅かに瞠目しその目にアレスと同様の悲しみが過ぎったのに気が付かなかった。ヘパイストスも素早くそれを無表情で覆い隠したので尚更気付きようがなかった。

 「粗暴者。少しは静かに出来ぬか」
 水のような声。透明な響きを発したのは戦女神アテナである。
 「吐かせ。てめえも同罪だろうが」
 ヘパイストスを掴んだ手を緩めることなくアレスはアテナを睨みつけた。
 アテナもまた、罪で染め上げた長衣をハルモニアに贈ったと噂されていた。その理由はアレスとアプロディテを嫌っていた為などと言われていた。ヘパイストスのそれよりよほど理不尽で身勝手だ。アレスとてアテナを嫌っているが、かの女神が好悪の感情のみで娘を呪うとは思っていない。その程度には評価していた。尤も今はそれくらいやりかねないと思っている。事実彼女はテュデウスに肩入れし、テーバイ陥落を後押ししていたのだから。
 アテナは武器を振るうとは思えない細い指先を優雅に組んで美しい蒼い眼でアレスを見ている。
 「ふぅん」
 「このっ…」
 アテナが鼻を鳴らして微かに笑ったのがアレスの感情を沸騰させる。その前にヘパイストスのどこか金属質な声が割って入った。

 「私もアテナもゼウス様に罰せられることは何もしてないよ」
 「……なん…だと」
 ヘパイストスの言っている意味が解らない。アレスは硬直した。怒りとして焦点を結ぶ筈の感情が固まる。
 「呪いなんか掛けていない、と言ったんだ」
 さすがに十二神をはじめとした序列の高い神々は静観しているが、この言葉には列席した多くの神々はざわめいた。それほどにテーバイは不幸が連続していた。誰もが、誰かの呪いでなければこれほどの悲劇は続かない、と思っていたのだ。そしてアレスとアプロディテの血筋を呪うならこの男を措いて他にいない筈だった。
 ヘパイストスは回顧するように瞑目した。

 「アクタイオンはアルテミスの沐浴を覗いたから猟犬に喰われる羽目になった。セメレーはゼウス様に見初められて結果母上の怒りを買った。イノはディオニュソスを匿ったから同じように怒りを被った。ペンテウスはディオニュソスの信仰拒んだから狂気した母親のアガウエに八つ裂きにされた。ラーイオスは息子に殺されるとアポロンが警告したにも関わらずそれを忘れて、イオカステと子を成した。だからオイディプスに殺された。それは遡れるばラーイオスがペロプスの息子を拐して彼に呪われたからだし、オイディプスは自らの宣誓と肉親殺しの汚れの為息子達に見棄てられた。ポリュネイケスとエテオクレスは見棄てた父に呪われて殺し合った」

 淀みなく述べたヘパイストスは目を開き、強張った表情のアレスを見据える。

 「それが全部私の所為だと言うつもり?」
 「それは…」
 「お前の主張や風評が正しいならね、私は他の神々すら掌中で踊らせたことになる」

 ヘパイストスが視線を後方の上座に移した。アレスも釣られて視線を巡らせる。ゼウス、ヘラ、下座にアルテミス、ディオニュソス。そして他の神々。
 ヘパイストスがハルモニアを呪いその結果今のテーバイの惨劇があるとするなら、大神ゼウスさえ鍛治神の呪いの為にセメレを見初めたことを、畢竟、ヘパイストスがゼウスにすら勝ったことを、同様に他の神々に対しても勝ったことを認めることになる。そんなことが有り得るのだろうか、否そんなまさか、という疑念に対する疑念で皆一様に表情が硬い。下位の神々にいたっては声を上げてざわめきを大きくしていた。
 そんな中、悲壮を滲ませたアプロディテの隣でアテナだけは薄く笑っているように見えて、アレスは怯えたようにヘパイストスに視線を戻した。
 ヘパイストスは相変わらず褪めた色でアレスを見詰めている。

 「私にそんな力があると?」
 「……無いって、言うのかよ? あんたは平気で嘘を吐くからな。言っても信用ねぇよ」
 アレスは渇いた咽喉の掠れた声で言い返すのが精一杯だった。ヘパイストスは暫くの沈黙の後、平滑に言葉を紡いだ。
 「高き〈天〉、広き〈大地〉、大いなるティタン達、そして〈太陽〉よ。照覧あれ」
 ざわめきが波打つように高まった。
 「冥府を七重に取り巻く〈河〉に誓って」
 短い悲鳴と制止の声。
 十二神達でさえ狼狽える。
 「私はハルモニアに呪いの首飾りなど贈っては、いない」

 しん、と音が途切れた。
 それ以外は何も起こらない。
 ヘパイストスが口にしたのはステュクスへの誓言だ。神々すら破ることの赦されぬ最も厳粛な誓いだ。彼女の水を飲んでいない、呼び掛けだけの誓いとはいえ、偽りなど赦されない。
 「全く無茶をする」
 安堵の溜息混じりに言ったのはポセイドンだ。
 ステュクスへの誓いなど軽々しくするべきではない。破れば不死の神々も恐れる罰がある。
 我知らず腰が宙に浮いていたゼウスは玉座に座り直した。その傍らのヘラも悲鳴を上げそうに強張らせた身体から力が抜けたようだった。初めから泰然としているアテナを除いて、皆似たり寄ったりの様子で緩やかに緊張から解放されつつあった。

 ゼウスはひとつ大きく息を吸った。
 「アレス。…アレス。ヘパイストスを放しなさい」
 アレスは動かない。動けないと言った方が正確かもしれない。指先から、脚から、身体から血の気が引いて動かすだけの熱量が足りない。
 ヘパイストスも動かずアレスを見ていたが、アレスは深い戸惑いの中遠くの過去を見ようとしていたので、見詰める目が憐憫を湛えていることに気付かなかっただろう。
 「…そだ」
 アレスの肺から押し出されるようににして微かに音が成った。
 「嘘だじゃあ何で皆あんなに酷い死に方をしなきゃいけなかった子供たちに死なれたハルモニアがどんなに哀しんだかカドモスと国を出て迎えられた異国でも結局幸せじゃなかった王たちもその子供や兄弟も誰も幸せじゃなかった……全然納得できねぇよ!」
 破裂する声。アレスは気力を振り絞ってヘパイストスを睨んだが、ともすれば縋り付いているようでもあった。
 しかしヘパイストスは言った。
 「お前も、アプロディテも、ハルモニアも、その子供たちも、テーバイの王たちも。私は別に呪ってなんかいない。…ただ不幸だっただけさ」

 アレスは脱力した。ヘパイストスを掴んでいた腕は垂れ、自重に耐え切れず膝は屈した。

 ヘパイストスは襟を正し、そのまま歩み去ろうとする。
 「ヘパイストス待ちなさい。まだ…」
 「もう続けるのは無理でしょう。私も退席致します」
 ゼウスの声をアテナが遮った。ゼウスは引き留めようと言葉を探すがアテナの言も尤もなのでそのまま沈黙する。
 ヘパイストスの独特の足音にアテナの規則正しいそれが続いた。

 項垂れて白い地面を見るしかないアレスにはそんな遣り取りも遠くに聞こえた。
 ヘパイストスの言った意味がアレスにはやはり能く判らない。
 ハルモニアは不幸な娘だった。不死なる神の娘として生まれたのに死すべき人間の男に嫁いだ。そして不幸な母となった。娘たちとその子供たちの不幸な死を嘆いていた。ついには夫と共に人の姿を無くし蛇となってしまった。何がいけなかたというのか。首飾りが元凶でなかったのなら何が不幸を呼び続けていたのか。どうしてあの娘は幸せになれなかったのだろう。何故アクタイオンは鹿に変えられ犬に喰われなければいけなかった。何故セメレーは雷に打たれなければいけなかった。何故イノは海に身を投げなくてはいけなかった。何故ペンテウスは母によって八つ裂きにされなければいけなかった。何故ラーイオスは息子に殺されなければいけなかった。何故オイディプスは父を殺さなければいけなかった。何故ポリュネイケスとエテオクレスは殺し合わなければいけなかった。何故。どうして。何故。何故!

 ただ不幸だっただけさ。

 ヘパイストスの言った意味が漸くアレスに届いて、



<2009/06/16>
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