都を焼く炎は美しかった。
後の世に『トロイの木馬』と呼ばれるアカイア勢の夜襲が成功したその未明。
神々からの寵も篤かったトロイアは放たれた火によって遺った僅かなものも灰になろうとしていた。
(よく燃えるなぁ。つーか熱い)
アレスは兜を脱いだ。もう必要もないだろう。
夜の深い間は生き残っていたトロイア人に戦意を齎していた。彼らを奮起させはしたが、勿論アレスとて最早トロイアが勝てるなどとは微塵も思っていなかった。随分と前にその可能性は潰えていたことを知っている。だから寧ろアカイア勢に助力して早くとどめを刺してしまおうともした。それでも結局、彼らに武器を取らせ戦う気力を吹き込んだのは、せめて最期まで戦った方がいいと思ったからだ。
アテナなどは無駄に犠牲を増やすだけだと言うが、彼女の言う犠牲はアカイア人のことであってトロイア人のことではない。トロイアの男は皆殺され、女は奴隷として連れ去られるのだ。どうせ殺されるなら敵をいくらか殺してからがいいに決まっている。
しかし。
アカイアの将を1人でも討ち取れれば何かに報いれる気がしたが期待出来そうもない。
(ま、しょうがないか)
軍神に出来ることはもう何もない、とアレスは冷徹に判じた。後は冥府の神々の仕事だ。
殺戮の嵐が過ぎ去った街を歩く。かつてはこの王城への通りも人で賑わい溢れていただろう。今は死体が捨て置かれている。
死肉にがっついていた野犬や禿鷹はもういない。死者と生者を区別しない炎に恐れをなしたのか。
難攻不落を謳われた城壁もこうなっては、人間を焼く為の竃だ。
(えげつねぇこった)
思ったが非難めいた気持ちは少しもなかった。どちらかといえば称賛の言葉だった。
遠目にプリアモスの王城を見上げた。視界の端に白い影を捉えてアレスは笑みを浮かべる。
迷わず歩を進めた。
王の居城も酷い有様でそこかしこに兵士と思しき死体が転がっていた。鎧も剣も装備は全て剥ぎ取られているのでそれが兵士であるというのは推測でしかないが。
幸いというべきか、火の手はまだ及んでいなかった。もっともさっきのがアレスの見間違いでなければ、そんなことは全く関係ない。元凶がここにいるのだ。
回廊を曲がって目的の後ろ姿を見つけた。具足を纏いまるで人間と変わらないアレスとは逆で、半ば以上姿をほどいて本性を顕にしている。彼は欄干に凭れかかり、体重を預けていた。
足音を潜めることなく近付いているのに、こちらに気付く様子もない。このまま隙だらけの背中を斬り付けてやりたい衝動が沸き上がったが無意味だと知っているのでなんとか抑え込んで声を掛ける。
「全部終わった後に来やがって。やっぱりノロマだな、ヘパイストス!」
反応がない。
やはり背後から斬るくらい派手な挨拶をするべきだったと物騒なことを考えて、悪態を重ねる。
「耳まで遠くなったかよ。難儀だな」
「…煩い。馬鹿の相手はしたくないだけ」
溜息とともに吐き出された声は思いの外、通りが良い。
ヘパイストスは緩慢な動きで肩越しに振り返ったかと思えば、すぐに興味なさそうに前方へ向き直ってしまった。仕方がないのでアレスが移動してその隣に並ぶ。そこに広がっていたのは焼け落ちる王都だった。強烈な光と影の対比。アレスは心を奪われてぼんやりと見遣った。
「なんで今更来たんだよ。もう残ってる人間なんかいないぜ?」
木や人間が焼ける酷い臭気に肚から突き上げるむかつきと笑いを堪えて、遅れてやって来たヘパイストスにアレスは問う。
この戦の間、アレスが基本的にトロイア方を助勢していたように、ヘパイストスはアカイア方を支援していた。加護するにせよ、志気を高めるにせよ、彼らはとうに引き上げている。音に聞こえたトロイアの都から強掠した戦利品の分配について、夜が明けるのも待たずに話し合っているだろう。
「母上がね、『人も都も皆、焼いておしまい』と仰せなの」
「ハッ、マザコン野郎め」
「アテナも『あんな穢された神殿はいらぬ』だってさ」
「トロイアのせいじゃないだろ、それは」
「だよね。けどまぁついでだし。あのひとはあのひとで、ゼウス様に雷霆を借て船団に雷火の雨を降らせるって言ってたよ」
「クロリスの何とかもバカしたな」
「お前に馬鹿呼ばわりされるんだから、本当に馬鹿だね」
「どういう意味だ」
「うん? 難しいことは言ってないけど?」
「…まあいいさ。で、結局あんたは母上の言い付けでこんな下らねぇ後始末してるんだ」
「そういうこと」
何でもないように答えるヘパイストスは酷い奴だと、その褪めた横顔を見て思う。既にほとんど滅びているとはいえ、平然と都市を灰燼に帰す。酷い男だ。
そしてアレスはそんな兄が好きだった。
特に主張をせず、誰彼構わず便利に使われる都合のいい男。それが周りからのヘパイストスの評価だ。しかし、そうじゃない。アレスは思う。
随分昔は酷く思い詰めていたが、今は違う。吹っ切れたのか、開き直ったのか、それとも諦めたのかは知らない。だが、現在の胸中を推し量ることはできた。多分、どちらでもいいのだ。仮令、自分が造った道具や武器で街が栄えようと、国が滅びようと、どちらでも構わないのだろう。アテナに盾を造った手でアレスに槍を拵えるような男だ。
度を過した無関心。
今も母の命だと、さして心を傾けることなく眼下に広がる都をまるごと火葬の炎に投じている。
何の感情も躊躇いもなく踏み潰せる虚ろな傲慢さは狂気に似ていた。
炎の飢えた舌が王城を舐ぶる。吹き荒れる灼熱、朱く染め上げられた世界で、それでも兄は死人のように体温を失って見えた。
何て気味の悪い姿だろう。
「何笑ってんの?」
不意にこちらを向いたヘパイストスと目が合った。熱風に乱された髪もそのままに、どこか作り物のようで表情の窺えない双眸。
こんな男に最期を看取られるなんて、つくづくこの都も報われない。
「くっ、あははははは!」
ついにアレスは堪えきれず哄笑を響かせた。
「血に酔って気でも狂った?」
「うるせぇよ」
抑揚のない問い掛けに、アレスは笑みの形に顔を歪めたまま否定はしなかった。しかし同時に思う。
(あんたはどうなんだ)
口には出さない。
理性だとか中道だとか正義だとかを尊ぶオリンポスの神々の中でやはりヘパイストスも例外ではない。ヘパイストスは明らかに理知的であることを好んでいる。彼の造る巧緻な作品がそれを現しているだろう。
情け深い神々の鍛冶屋。温厚な工芸家の主。よく言ったものだが、アレスからすれば本質がそんなものではないことは一目瞭然だった。
酸鼻を極めた殺戮の都を、無惨な死体を貪り喰らう炎。
その炎こそがヘパイストスだ。
アレスはうっそりと笑んだ。目は熱を帯びている。当然の権利のように惨劇を演出する兄は恐ろしい。
「どうせ、のろのろ帰って来るつもりだろ? あの女がバカするとこ見逃すぜ。乗せて帰ってやるから、」
「さっさと終わらせろよ」
「お前に言われるまでもないね」
アレスは一層笑みを深めた。
そう、言うまでもない。ここはもう胃袋の中なのだ。
ヘパイストスは踵を返す。歩みは鈍い。途中転がっている死体が耐え兼ねたように、発火して紅蓮に呑まれた。
しばらく後ろ姿を見送って、アレスも反対側へ歩を進める。神といえど組成を人間に近づけている今のアレスには、限界に近い温度だ。足速に城を抜ける。
幾分遠ざかったところで振り返った。
焼け爛れやがては灰に戻る人間。崩れ落ちる城壁。早過ぎる暁のように空を染める炎。
それはひとつの終わりに相応しく、容赦なく凄惨で壮絶に美しい光景だった。
<2009/02/26>脱稿
<2009/06/01>掲載