メコネにて
死すべき人間と不死なる神々がまだそれほど隔たっていなかった昔の話。
神々の父・ゼウスは思い悩んでいた。
盟友たるプロメテウスに土塊から創られた種族の指導を任せたはいい。彼は賢く善良で、ゼウスのよき理解者だ。
否、そう思っていたのはゼウスだけだった、とこの日は思い知らされる結果となったのだが。
どでん、と置かれたそれ。
一方はすべすべとした脂肪で包まれ、他方は皮の袋に包まれている。
「随分と不公平な分け方をしたものですね。君らしくもない」
「我々神の族と彼ら人間に決然とした違いを求めたのは貴方でしょう? ゼウス」
「それはそうですが」
口ぶりからしてきっと中身も全く違うのだろう。
『我々神の族』などと口では言っているが、気持ちの上では人間の代表のつもりではないか? プロメテウスは大層、人間という生き物を気に入っている。それはもう周囲が驚くほどに。
その彼が人間が不利益を被るような結果を肯んじるだろうか?
「さあ、貴方が神々の取り分をお決めください」
「ええ」
さて、死すべき人間と不死なる神々の別を、常食から定むべしとしたのはゼウスだ。そしてプロメテウスが取り分けることを申し出た。
あの時点で止めるべきだったか。ゼウスの意を能く汲む子供達・アテナやヘルメスを選定するべきだったか。
否、それでは駄目だ。それでは始めからプロメテウスを信じていない、そして敵わないと言っているのと同じだ。
確かにプロメテウスは嘗ての戦で軍師であったし、その後も良き相談役としてゼウスを支え続けている。ゼウス自身、父か兄のように慕っていた。
だが先頃、ゼウスはプロメテウスの傀儡にすぎぬ、実際にオリンポスを動かしているのはプロメテウスだ、といった風聞をゼウスは耳にしてしまった。
プロメテウスが度々、越権ともとれる進言をしてきたのは事実だ。人間を想うが故か、はたまたゼウスを見縊っているのか。ゼウス個人としては後者であってはならない、あって欲しくはないのだが……。
オリンポスの主はひとりでいい。統治する最高権力者が多数いてはならない。異なる秩序が和合することは難しい。どちらかが廃されねばならない。
そうした政治的問題もあったし、個人的感情もあった。
ゼウスがプロメテウスを恐らくは必要以上に頼りにしているのは本当だった。それは信頼からだ。
しかし、プロメテウスはどうだろう? ゼウスが善意だと思っていたものが、実は打算や己の支配欲だったりはすまいか?
だからこれは人間と神々を峻別するための取り決めであるのと同時に、プロメテウスの心を量るための試みでもあった。
そして分けられた犠牲の肉を前にゼウスは悩んでいる。
プロメテウスが自分を蔑ろにしているのではないか。いや、そんな筈はない。だけど、この不公平な分け方はどういうことか。
信じたいけれど、信じきれない。
包みを解けばはっきりするだろう。
だが選びとって結果を見てしまうと、後戻りができない。そんな不安がゼウスの手を止めていた。
「まだ決まらないのかよ、父上」
「アレスッ、およしなさい」
痺れを切らせたアレスが不平を漏らす。
今日のこの場を見届け証人になるために、主立った神々・則ちゼウスの兄弟や子供達、それ以外にはアプロディテとオケアノスといった面々が揃っている。
アレスは他の息子達と比べても身体は大きい。だが、今、ゼウスが何を決めようとしているのか、何を見極めようとしているのか、その重大性と深刻さが理解できていない。子供だ、とゼウスは思う。
しかし、アレスだけではない。ゼウスの煩悶を理解できていないのは。
アレスを窘めたヘラのせよ、ゼウスを見る目は困惑の影がある。決断しかねているゼウスを訝しんでいるのだ。それはゼウスの判断力に絶対の信頼を置いているというのが解っているだけに、ゼウスには重い。ポセイドンにいたっては成り行きに冷笑を浮かべている。彼の場合はゼウスの苦しみを知っているが故だ。
かつてならプロメテウスが上手く助言をしてくれただろう。しかし、今、ゼウスに苦しみを与えているのは外ならぬプロメテウスだ。
彼は唯真摯な表情でゼウスの前に立っている。
「ゼウス。私はね、貴方の為にも人間たちに善いものを贈りたい」
「僕の為にも…だって?」
プロメテウスが言った言葉にゼウスは目を細める。
そして、その言葉に気付いてしまった。
プロメテウスがゼウスを出し抜く気でいるのだ。
外見からして等価ではない分け方。中身を見せず、一方は脂肪で他方は皮で包む。
欺瞞だ。
そうでなければ中身を隠したまま選ばせるなんてことはしない。人間に善いものを贈りたいというのなら、ゼウスや他の神々を話し合いの中で説き伏せればいい。話し合いの選択肢を切り捨てた時点で、プロメテウスにはゼウスの意見など意味も価値もないと言っているのと同じだ。
(それを僕の為なんてどんな詭弁だ)
静かな、しかし抑えようのない怒りが沸き上がる。
「僕は、君の思い通りにはならない」
ぽつりと呟く。
プロメテウスには聞こえただろうか。
暫く無音で見つめ合う。
結局、ゼウスは脂肪に包まれたそれを選んだ。
プロメテウスは権謀術数に長けている。素直に見たままの中身に分けている筈がない。否、もしかするとそう思うゼウスの更に裏を掻くかもしれない。
ゼウスにはプロメテウスの意図が解らなかった。きっと彼の思惑通りに、ゼウスは選んでしまったに違いない。そんな諦めに似た確信があった。
(そうなら赦すものか)
何一つ話をせず、こんな謀にかけるなんて。
しかし、
まだ何処かでそうでないことを願っていた。
死すべき人間と不死なる神々がまだそれほど隔たっていなかった昔の話。
斯くてヒトと神は分かたれた。
<2009/03/27>