呪詛じみた言葉を吐いたのと同時だった。
アレスが斬りかかる。
子供は身を退いたが肩口が裂け血が滲む。人間のそれとは違う、紛れも無く神の血筋を示すイーコール。
よろめいた子供の胸倉を掴み、細い頚に剣を突き付けた。
「母上放せよ」
アレスが低く恫喝する。
子供は傷と剣を見遣り、漸くアレスを見た。
視線はそのまま。
剣に手を伸ばす。
側面に白い指が掛かる。
そして無造作に払った。
刃は幼子の柔らかな膚を傷付ける事なく形を失った。
「…っ!」
柄を手放し、アレスは飛び退る。
半ば融けた剣が落ちる。
耳障りな金属音が静まり返った広間に響いた。
弾かれたようにざわめきが大きくなる。
私を――女王ヘラを呪縛した世にも美しい意匠と厭わしい細工を施した玉座。その造り手として拘引されたのがこんな貧弱な子供であるだけでも驚きなのに、金属の剣を融かし、アレスの拘束を振り払った。
思いもしない事態故に、だ。
子供はざわめきを置き去りに、踵を返す。
もはや伸びるに任せた白い髪の後ろ姿しか見えない。
誰も、止めないのか。
眩暈がした。
あれを我が子と認める訳にはいかない。
しかしこのまま玉座に縛り付けられていたくはない。
だからといってあの子供に懇願する訳にはいかない。私が要らぬと棄てたのだから。
どうして赦しを請えるだろうか。
何故、ゼウスもポセイドンもこの成り行きを静観している。
いつもなら助けてくれるのに、ヘスティアもデメテルも困った顔をするばかり。
アポロンなどはまだ幼さの残る顔に、暗い笑みが浮かぶのを堪えているようだった。
私がこのまま…縛られたままでもいいのか。
誰も私の為に動こうと、しない。
誰かが――例えばゼウスがあの子供に私の呪縛を解くよう冀う事を、心の何処かで期待していたのだ、私は。
それに気付くと同時に何かが込み上げてきて溢れそうだった。
心ならずとも謝ればいいのか。
それとも他の誰かに助けを求めればいいのか。
「……、…」
決めかねたまま、それでも何か言おうとしたが能[よ]く出来ない。
「待てよ」
背中に向けた鋭い、声。
アレスだ。
しかし子供はふわふわふらふらした歩みを少しも緩めない。
「……待てっつってんだろ!」
憤りを乗せ、槍を投擲する。
さすがに子供は足を止めた。振り向きざまに手を翳す。
穂先は熔け、木柄は炎を上げ砕ける。
槍は子供に到達する前に焼け墜ちた。
残骸ばかりが慣性に従って子供の後方に落ちる。
数瞬の攻防。
その僅かな隙に、アレスは跳躍して間合いを詰める。
一気にしゃがみ込んで子供の足を払う。
まともな受け身も取れずに子供は倒れる。
右肩から倒れ込み、苦痛に顔を歪めた。初めて見せた表情の変化だった。
躊躇なく子供の腹を蹴り、仰向かせたところで薄い胸に片膝で乗って、槍の柄で咽喉を押さえ付ける。両腕に体重を掛ければ幼子の細い頚は折れてしまうだろう。
「――」
肺と気管が圧されてもはや声ではなく音が漏れる。
アレスは構わず腕に重心を傾ける。
「母上は…お前にとってどうなのかわんない…けど、俺たちの母上だ。ひどいことするなよ。あんなのに縛るな。放せよ!」
「ア…レス」
図らず、声が出た。
「――ぃ」
長くない沈黙の後、子供の締め付けられた咽喉を通って音が漏れる。
アレスは言葉を聞くべく少し手を緩めた。
子供は恐らくは生理的な涙が浮いた眼でアレスを睨んだ。
瞳には壮絶な色がある。今まで凍えたように無機質だった貌には苛立ちが見て取れた。
子供は掠れた声を絞り出す。
「ぅ…るっさい!」
激しい焔。
裂帛の声に呼応して、砕けた柄で燻っていた火が炎となり渦巻いた。殆ど燃え尽きていたそれから無理矢理に熱も形も影も全てを奪って成った炎だ。
「アレス!」
叫んで、立とうとして叶わない。
目に見えない何かが文字通り縛り付けているのだ。この玉座に。
玉座はびくともしない。不如意な我が身が忌ま忌ましい!
私の焦燥を他所に炎は忽ちに消える。
質量を失った灰が舞う。
アレスは焼かれ煤けた姿で膝を付いている。3本目の、最後の槍を手に何とか身体を支えていた。その眼は険しく 子供を見据えている。
対峙する子供はアレスを押し退け奪った槍を持ち、亡者のような不安定さで、それでも立っていた。先程見せた激しい色を宿した瞳が真っ直ぐアレスを捉えていた。
郭公の雛が同じ巣に孵ったらきっと相争い、排斥し合うだろう。そうでなければ生き残れないのだから。丁度そのような様子で互いを敵と見定めたようだった。
殺気が漂う。
やがて充ちたそれは濃度を増し、臨界を超え変質した。
殺意。
確かな意思と方向性。
「はあぁあ!」
アレスが打ち掛かる。
上段から繰り出される突き。手疵を負っての美事な速攻だ。
しかし、子供は難無く往なすと小さな手でアレスの手ごと槍を掴む。
轟。
猛烈な火柱。
「いやあぁああぁ!」
我知らず悲鳴を上げた。
これ以上は堪えられなかった。
誰でもいい、
「誰でもいいからやめさせて!とめて…おねが…」
目が合った。
炎の残滓は舞い上がり、そこに気絶したのでろう身を横たえるアレスと幽鬼のように立つ子供。
凝っと私を責めるように或いは私に縋るように見詰める眼。
「…ぅして…?」
そんな眼をするの。
その眼は――
ああそうか。既視感に得心がいった。
その眼を、私は知っていた。
――私だ。
不意に気付いた。
否、思い出したのだ。
「――、―――」
子供の唇が動いた。
聞き取れないまま目が逸らされる。
視線がアレスに向いていた。熱を孕まないが何か苛烈な感情の篭った眼だ。
槍を逆手に持ち替える。
嫌だ。
止めなければ。
「やめて!」
「あアァあアアアぁァアあああァあ!!」
怒声。悲鳴。慟哭。
憤りと苦しみと哀しみと全てを綯い交ぜの叫び。
激情のままに凶器を振り上げる。
上げたその腕はしかし、下ろされることなく止められた。
「そこまでだ」
ポセイドンが後ろから柄を掴み留めたのだ。
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<09/01/23>