私がその日、ヘパイストス様の邸に足を踏み入れたのはアプロディテ様からのお遣いの為だった。
 ピアスを忘れてきたので、代わりにとって来て欲しいと命じられたのだ。いったい、いつの事なのか。私が知る限りで、アプロディテ様がご自身の夫であるヘパイストス様に会ったのは幾らか以前だった筈だ。疑問を口にするとやはりその通りで、ブレスレットをしてそれと合わせようとしたピアスがないので思い出したということだった。是非は言わないけれど、言わないけれど、…なんだかなぁと思わざるを得ない。

 アプロディテ様と訪れたことはあったけれど、ひとりで来るのは初めてだった。
 薔薇園を抜けて、玄関に立ち、呼び鈴を鳴らして少し待ったが反応がない。必要ならいつでも入っていいと、アプロディテ様から言われているが、私は少し躊躇った。

 ひとつには迷わないか心配なのだ。何せヘパイストス様はアプロディテ様がこんな部屋が欲しい、あんな装飾が欲しいと言えば、すぐさま・しかもこれまでにない美しさで造り上げてしまうので、増改築が繰り返し行われ迷宮[ラビュリントス]のようになっている。
 長く息を吐いて、取っ手に手をかけた。青銅の重厚な作りの扉はエントランスから続く廊下はやはり以前来た時にはなかったものがある。

 たくさんのランプが幻想的な様子で吊り下がっている。
 ほぅ、と我知らず溜息を漏らした。導かれるように足を踏み出し、見上げながら歩く。光の踊る天井。でこぼこした硝子の表面からきらきらと光を零すもの。木の枠に薄い紙を貼付けて柔らかに光るもの。ステンドグラスで鮮やかな影を落とすもの。形も大きさも異なるランプがしかし調和をもって奥へと続いている。進む毎にふわふわとした浮遊感が心を満たしていった。眺めて歩いて、気付けばひとつの扉に行き当たった。それは見覚えのある白い扉。ヘパイストス様がよく寛いでいるリビングの扉である。

 二度、ノックをする。
 反応はない。

「ヘパイストス様、いらっしゃいますか? ヘパイストス様」

 呼び掛けにも反応はない。
 これは扉を開けるしかないのかしら…。
 ひどく躊躇いを覚えた。邸に踏み入れる時にも迷うかもという恐れの後ろに隠れてた、それ。その正体が何か考える前に強いて真鍮のノブに手を掛ける。
 ガチャ、と無遠慮な金属音が尾を引いて、しかしそれ以外の音はなく滑らかに扉が開いた。

 中央に吊り下がっているのは廊下のものと同じランプの集合体。右手には淡い色の魚が泳ぐ大型アクアリウム。書類や造りかけのオブジェが置かれた黒檀の机。奥には隙間なく埋まった書架。そして白い皮張りのソファー。ヘパイストス様がいた。
 ソファーの端に布を掛け、そこにブーツを履いたままの脚を投げ出して眠っているようだった。なるたけ音を立てないように部屋に入って覗き込む。少し濡れた白い髪は下ろされていて無防備な寝顔と共に印象を僅かに幼くさせていた。さっきのノックや声で起きないでよかったと安堵する。きっと仕事で疲れているのだろうし。しかしこうなると起こすのも忍びない。

 どうしようかしらと、ふと目に入ったのはオブジェに紛れた羽ばたく鳥を象ったカードスタンド。その鳥がくわえるメッセージカードは『アプロディテへ』と短い言葉と花形のピアスが添えられていた。
 カードを抜き取る。さすがにヘパイストス様だなぁ、と変な感心をしてしまう。こんなふうなので、どうしてかおふたりの関係は上手くいっている。不思議だ。

「う…」

 ヘパイストス様が眉間に微か皺を寄せている。このままでは起きてしまうかしら。ヘパイストス様の午睡を邪魔するのも悪いと思って踵を返し、来た時と同じように静かに歩いて、開けたままだった扉に指を掛けた。その時だった。

 悲鳴。

 驚いて振り返った。ヘパイストス様が半身を起こして、目を見開いたまま忙しない呼吸を繰り返し、そして咳込んだ。
 私はそれがどういうことなのか遅れて理解して駆け寄った。さっきの悲鳴はヘパイストス様だ。屈み込んでヘパイストス様の背中撫でる。

「大丈夫…ですか?」

 大丈夫な訳がない。平素、滅多なことでは顔色ひとつ変えないひとが真っ青になって喘いでいるのだ。それでもそう訊くしかなかった。焦点の定まらない視線があたりをさ迷って、ようやく私のそれと交差した。

「ア…グライア…」
「はい」
「…ごめんね」
「いえ」
「……ごめん」

 掠れきった声でヘパイストス様はそれだけ言ってソファーに倒れ込む。腕で顔を隠しても、まだ苦しそうな息を隠せないでいた。
 私は伸ばしかけた手を引いた。顔を見せまいとする腕は助けは要らぬと、こちらを拒んでいるように見えたから。
 立ち去るべきか、思って立ち上がったけれど嗚咽じみた息遣いに足を縫い留められる。

 カードを机に戻して、もう一度、屈んで今度はヘパイストス様の腕をそっと退けて、額に左手を置いた。ヘパイストス様は初め目を丸くして、そして細めた。
 ぼんやりと見詰めている眼に私が映っている。それが柔らかな表情であるよう願いながら、ひやりと冷たい額を、髪を、頬を撫でる。時折、引き攣って上下していた胸の動きが緩やかになってきた。

「少しは、落ち着きました?」
「……………昔もこうしてくれた事があったよね…」

 問いかけには答えず、溜息のようにヘパイストス様が言葉を零した。
 それは私にとって意外なことだった。

「……、もう、忘れていらっしゃるのかと思ってました」
「………」
「昔話なんてなさいませんし、…ヘパイストス様は……以前、私たちのこと避けてましたよね」
「…うん」

 ヘパイストス様は小睡むように頷いた。それに私の目の奥が熱くなった気がした。
 私たち姉妹が仕える女神の夫神。それが今の私とヘパイストス様の関係だ。私もヘパイストス様もそのように接していた。それはかつて〈海〉の果ての母様の許で育てられていた幼い彼と、私たちがオリンポスから帰った時にきょうだいの様に遊んだのを感じさせない程に。

 オリンポスで再会しても、あまりにそっけない…まるで他人のような接し方をするので、最初の頃は戸惑った。そして悲しかった。少しだけ憎らしかった。
 ヘパイストス様が母様に養育された経緯を思えば、その過去は忌まわしいものなのかもしれない。忘れたいものなのかもしれない。
 姉様にそう諭されて、解っているつもりでいた。だから、そんな距離を保ち続けてきた。

 なのに、つい、責めるように、言ってしまった。

「何で、……」

 声が震えた。指先も震えているかもしれない。
 その指先がひやりとした掌に、つまりはヘパイストス様の掌に包まれた。

「あの頃は………私なんかと…懇意だなんて知られない方がいいんじゃないかと思ったんだよ」

 ヘパイストス様は言って私の手を少し引いて頬を寄せた。私は殆ど閉じた瞼を右手で撫ぜる。そんなことはない、と否定出来るだけの強さが私にはない。
 オリンポスに来てからのヘパイストス様を思い出す。アプロディテ様とアレス様の件、以前のことだ。愛想よく笑っていて、だけど時々、遠目にも無理をして笑っているのが解った。解っていて、私から声をかけることが出来なかったのだ。あの頃は。
 それは何故だったか。距離をとろうとするヘパイストス様に合わせただけだったのかしら。

「ヘパイストス様…」

 せめてと、幼い頃もあの頃も理由は違えど口にすることの出来なかった彼の名を呼んだ。

「ねえさま、」

 小さく返された懐かしい響きとともに、ぐいと引き寄せられて体勢を崩す。ヘパイストス様の上に倒れ込む。驚いて身を起こそうとしたけれど、怯えた子供がするのと同じように力任せにしがみつくヘパイストス様の腕を振りほどくことなんて出来なかった。
 腕を首に回して、そっと、まだ少し濡れた頭を抱え込む。

「大丈夫ですよ。ヘパイストス様が眠れるまで、眠っても次に目が覚めるまでこうしてますよ。だから、ね、大丈夫」

 あやすように言った。恐ろしい夢に囚われ続けている彼が少しでも安らげるように。


  羊膜に包まれて見る夢は、


「ねえさま、姉様」
「なぁに」
「ごめんなさいね」



<2011/04/02>
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