パン ッ


 アプロディテの華奢な手がヘパイストスの頬を打った。
 雲ひとつない快晴のオリンポス。ヘパイストスの邸のアプロディテが育てた薔薇の庭園である。

「…ふー。一応気は済んだわ」
「それはよかった。…結構痛かったよ」
「あら、あなたを叩いたあたしはもっと痛いのよ?」

 アプロディテはうふふと微笑するのでヘパイストスは頬を摩りながら溜め息を吐いた。そもそもアプロディテにヘパイストスが打たれる嵌めになったのは彼自身の言葉の為だ。



「私たち別れよう」

 多分、ヘパイストスにとって、もっと早くに言うべきことだった。もしくはとっくにそうなっていなければ奇怪しなことだった。
 なにせふたりは夫婦とは名ばかりで、アプロディテは多く浮名を流し、それに対しヘパイストスはただ一度を除いては何もしていない。腑抜けなのか、或いは容認しているのか諦めているのかもしれないと囁かれた。傍目にはどう贔屓目に見ても破局を待つばかりの関係だった。更に言えばそれより以前にヘパイストスがただ一度アプロディテの姦通に際し、それは手酷い意趣返しをしたその時に離縁とそれに伴う結納品の返却と賠償金の支払いを求めたので、すぐに離縁するものと皆が思った。だが、どうしたことか結局ずるずるとそのまま今に至る。だから、アプロディテの多情さを差し置いていいほどにヘパイストスは彼の美しい妻を愛し、婚姻という形で縛り付けているのだとも言われていた。
 実際の所はともかく、ヘパイストスが別れを切り出すのは遅すぎると言ってもいいくらいで、今日、漸くその瞬間が訪れた。

 庭園のテラス。アプロディテはいつものように薔薇と紅茶とお菓子を楽しみながら、出し抜けに言ったヘパイストスの言葉に少し困ったように首を傾げて、ヘパイストスに近寄るよう手振りで示し、ヘパイストスが顔を寄せたところで、手を振り上げた。



「さ、行きましょう。あ、ヘラとゼウスどっちからこのこと言うのがいいのかしら?」

 アプロディテは何でもないようにいつもの屈託ない笑顔のまま立ち上がった。却ってヘパイストスが逡巡する。

「方向は一緒だし、とりあえず歩く?」
「…うん」
「せっかくだから手、繋ぎましょう?」
「…うん…………え?」

 アプロディテはヘパイストスの手を取ってにこにこと笑う。

「……本気?」
「ええ」
「今まで手を繋いだことなんてあったけ?」
「さぁ? だけど、きっとこれが最後よ」

 その微笑に物寂しさを感じてヘパイストスは返す言葉を思い付かなかったのでアプロディテの成すがまま、手を繋いだまま立ち上がる。

 オリンポスに住まう神々はそれぞれが居を構えている。ヘパイストスの屋敷兼仕事場はゼウスの執務室を据えた会議場からも彼の私邸からもやや遠い。
 深緑の葉と色鮮やかな花の対比も美しい薔薇園を抜けて、青銅のアーチをくぐる。白く平らでよく整備された石畳が延びていた。北に行けばゼウスをはじめとした殆どの十二神の邸宅が並び、一番北が宴会の場ともなる会議場。南にはヘルメスや他の下位の神々の邸宅、厩舎などがあり門がある。どれもヘパイストスが手掛けた建築だ。
 北に歩を進める。

 ヘパイストスは足に障碍があるが歩くのはそう遅くない。かといって速くもないが。アプロディテはいかにも優雅に歩くので速くはない。ふたりの歩調は互いを気遣うでもなく自然と近いかったのだということにヘパイストスは今更ながら気付く。

「あーあ。またフラれちゃったわ」
「“また”?」
「そうよ。また。あたし初恋からフラれっぱなしだわ。あたしはずっと愛してるのよ。なのに皆、あたしより大切なモノを見付けたり気付いたりして、いつの間にかそっちを選んじゃうの。海いいとか狩りが楽しいとか他の女[ひと]が好きとか。アレスくらいよ、他にふらっと行っても戻ってくるのは」
「そう。……ごめんね。私は貴女を選べなかった」
「ほんとよ! あたし、傷付いてるんだからね! …で、いつから好きなの?」
「…生まれた時から。多分一目惚れでそれからずっと」
「長い片想いね。もしかしなくてもあたし達の結婚生活より長いんじゃない?」
「……ごめん」
「謝るくらいならちゃんと成就させるつもりあるんでしょうね」
「………ないよ。ごめんね」
「今の関係で十分?」
「………」
「その恋心は罪悪?」
「………」

 喋り過ぎたとヘパイストスは思った。横に並んで目も合わせずに話していると独白に近い。ついつい要らぬことまで告白させられる。
 噴水を通り過ぎる。揺らめく水面がきらきらと光を返す。目的地まではまだ少し遠い。なだらかな坂道が続いている。
 突然、手が後ろに引かれて、アプロディテが立ち止まったのを知る。真剣な眼差しのアプロディテに振り返ったヘパイストスは眉を寄せる。それは母に叱られるのを待つ子供の表情に似ている。

「ねぇ、ヘパイストス。誰かを愛することは悪いことじゃないわ。例えそれが誰であっても」
「貴女っていつもそう言うよね」

 だからこの想いは消えずにいつまでも燻っているのだ。

「他にも理由は多いけど、だから私はそんな貴女が嫌いで嫌いで、……好きでしょうがなかった」

 言ってヘパイストスをアプロディテの手を引いて歩きだす。

「あなた滅多に好きなんて言わないのに、こんな時に言うのね」
「貴女は言い過ぎ。それも色んなひとに」
「あら? 妬いてくれてるの」
「さぁね」

 背後の明るさを取り戻したアプロディテの声にヘパイストスは前を向いたまま答えた。

「アプロディテ、私は…綺麗で身勝手で奔放で優しい貴女がとても嫌いで好き…だった」
「もう過去形なのね?」
「いや…これからも、貴女のことが嫌いなのも、好きなのも、きっと変わらない。だけど」
「だけど?」
「………」

 声が詰まって出て来ない。
 それでもこれで終わりなのだ。
 唐突に押し寄せた感情にヘパイストスは戸惑う。アプロディテとの今の関係に区切りを付けようと思ったのは初めてではなかった。ずっと思っていてそれでも今日まで引き延ばし続けてきたのは多分このことを予感していたからだ。
 ヘパイストスはアプロディテを愛してはいないことを自覚していた。外ならぬアプロディテによって気付かされた。だからいつの頃からかアプロディテが他の誰かと恋をしても、自分もその中のひとりで少しだけ一緒にいる時間が長いだけなのだと思うようになった。アプロディテは自分を軽んじている訳ではない。彼女は平等なのだ。ヘパイストスも他の恋人たちも。ヘパイストスはそれを受け入れていて、その距離は決して居心地の悪いものではなかった。
 それでもこれで終わりなのだ。
 終わらせる為の道を歩いている。
 ヘパイストスの足が止まる。

「もしかして、泣いてる…?」
「泣いてなんか!」

 咄嗟に振り返って歪んだ視界に捉えたのは赤い目をしたアプロディテ。

「………」
「………」

 しばし無言で見つめ合って、今度はアプロディテがくすくすと笑い出す。ヘパイストスもちらりと笑みを零した。

「私、思ってたより貴女が好きだったみたい」
「じゃあやり直す?」
「無理だね」
「やっぱり?」

 もう一度小さく笑ってふたりは歩き出す。繋いだ手は温かい。


だからどうかこのつないだてをはなしたあなたがしあわせになりますように


<2010/11/05>
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