ハルモニアは不思議な娘だった。

 例えば争う二人の男がいた。始まりは何でもない口論だが、互いに自らの正当性を主張し相手に謝罪を求める。そのうちに過熱し周りの止める声さえ火に油を注ぐことにしかならなくなる。そこに現れたハルモニアが二三言話しかけるとどうしたことか、忽ちのうちに争うことがいかに不毛なことであるかを思い出し、相手の胸倉を掴んでいた手を放して握手を交わす。
 ハルモニアは何も特別なことを言った訳ではなかった。

 お互いの為にも争いを悪む神々の為にもおやめになってください。

 ハルモニアが仲裁に入る前に人々が口にしたのと変わりない平凡な言葉だ。しかも幼さの残る少女。普通なら相手にされることもないような存在なのに、ハルモニアが細くそれでも芯の通ったような声で言うと、大の男がその声を受け入れて我に返ったのだ。

 ハルモニアの周りで争いはない。ハルモニアがいるだけでそこに調和が生まれる。彼女の名の意味、そのままに。

 そして誰もが言った。ハルモニアは神の娘のようだと。



 ハルモニア自身は人々の称賛の声を浴びながらも決して驕ることのない敬謙さと節度を持っていた。それを教えたのは養い親のエレクトラだった。ハルモニアは心優しく礼節のあるエレクトラを敬愛していた。
 そのエレクトラが声を荒げた存在。
 彼は何者なのだろう。

 見慣れた筈の黄昏れに現れた見知らぬ男。
 波打際を歩く不如意な足。若い顔に白い髪。左右違う色の瞳。

 母は、エレクトラは知っている。あの後、ハルモニアが遠慮がちに尋ねると唇を噛んで何も答えてくれなかったが。いつにない表情と頑なな態度にハルモニアは浜辺の時と同じようにそれ以上訊くのをやめた。しかし一度心に浮かんだ疑問は簡単に忘却の川に沈んではくれない。

「あの男[ひと]は誰なのかしら」
「あの男って?」

 答[いら]えなど期待していなかった呟きにハルモニアは瞠目して声の主を振り返った。
 するとその声の主、兄の、つまり養母エレクトラの実の息子のダルダノスがそんなハルモニアの様子に少し驚いたようで、ややあって苦笑した。

「何だ、この兄を忘れる程思いに耽っていたのか」

 ダルダノスは手を顎に添え溜息を吐く。一転、陽に焼けた浅黒い精悍な顔を綻ばせ、白い歯を覗かせた。ダルダノスは日頃漁に出ていてどちらかといえば逞しく汗臭い男で、今もハルモニアは彼が捕った魚を市場に持って行く為により分けるのを手伝っていたのだが、そうした貴族のするような少し気障な所作の似合う男でもあった。

「その男に恋でもしてしまったか? 寂しいぞ兄は」
「…え、………な、何を言うのですか、兄様!?」

 ダルダノスはにこにこと相好を崩してハルモニアの言葉を待つ。ハルモニアはそんな兄に酷く戸惑った。
 兄の言うような感情を抱いていた訳ではない。それどころか未だに恋を知らない少女だ。愛や恋に密かな憧れもあれどそれを語るのはどこか恥ずかしい。兄の指摘は的外れであったがハルモニアを赤面させるには充分だった。

「ハルモニアも年頃だもんなー」
「そんなんじゃありません!」
「はっはっはっは!」

 実際ハルモニアはエレクトラが心配なのだ。優しい母があれ程までに心を尖らせる存在。兄に伝えるべきだろうか。しかし、母が押し黙る以上、ハルモニアが断片的に話しても兄達にいらぬ心配をさせるだけではないか。それは母も望んでいないのではないか。今まで決して暗い顔を見せなかった母である。だからこそ今の彼女は何かがおかしいのだがハルモニアは今一歩踏み込むことが出来ずに昨日のことを反芻してそこから何かを探ろうとしているのだ。
 ダルダノスとさして変わらぬ年若い彼がどうしてあんなにも母を怯えさせるのか。
 ……いや、少し違う。ハルモニアは違和感を覚えた。
 不意に頭を撫でられ、見ればダルダノスが深い笑みを湛えてハルモニアを見詰めていた。

「揶揄って悪かった。何か辛いことがあれば何でも言ってくれ。力になる。俺もイアシオンも母さんも、お前が幸せになってくれれば嬉しいのだよ。だからそんな顔をしてくれるな。な?」
「ええ」

 ハルモニアは微笑する。ダルダノスは決して現れない父の代わりに母を守り、弟妹を育てると心に決めているようだった。ダルダノスの大きな掌は父を知らぬ彼女には何よりも心強かった。こんなひとが兄で良かったと心から思う。それだけに母のことならいざしらず自分のことで兄を煩わせてはいけない。
 だからこそ、だけどとハルモニアは続ける。

「もし、あったとしても、兄様に恋の相談は出来そうにないわ」
「何故だ?」
「兄様みたいに素敵な人、そういないもの」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか」
「なのに兄様ったら好い人いないのでしょう? いつも私達の為に働いてばかりで。イアシオン兄様は最近時間を見付けて誰かと会ってるみたいなのに」
「そうなのか。やるなぁイアシオンの奴」
「だからダルダノス兄様も。ね。恋愛に限ったことじゃないけど、私なんかより兄様達が幸せになってくれないと困るの」
「それなら心配するな」

 兄に合わせて敢えて明るく茶目っ気を含めて喋っていたハルモニアは、兄の真剣な声と面持ちに同じく真顔に戻った。
 ダルダノスは破顔する。

「俺達は今、十分に幸せだよ。母さんがいる。お前という可愛い妹がいる。まぁイアシオンがその女性と添い遂げられたらもっといいだろうが、今だって十二分に幸せだ。お前はいつだって母さんや俺達の幸せを考えてくれる。けど、お前はお前の幸せを考えてもいいんだぞ。お前が幸せなら俺も嬉しいんだ。忘れないでくれ。母さんもイアシオンも同じ気持ちの筈だ」
「…りがと…、…兄様」

 ダルダノスの真摯さが胸を打ってハルモニアは言葉を詰まらせた。ダルダノスはハルモニアを抱きしめて落ち着くようにと背を叩く。潮の匂いのする抱擁の温かさが酷く切なくて堪えていた涙と嗚咽の堰が切れた。
 ああ、折角兄がたくさんの優しい言葉をくれたのに、巧く御礼さえ言えないなんて。
 本当にダルダノスとイアシオンが兄で、エレクトラが母で、この人達と家族になれて良かった。実の母も父も知らないけれど、私は幸せだ。ハルモニアは思った。


 仲買人に魚を売りに行くダルダノスと別れ、ハルモニアはいつものように籠を持ち市場を歩く。市場を一巡した頃にはチーズや蜂蜜、色とりどりの果物が少しばかり盛られていた。それ以上は必要なかった。というのも魚はダルダノスが捕ってきて、小麦や多少の野菜はイアシオンが作っているから彼女が買うのはほんの少しでも食卓を十分に豊かにするからだ。
 さて。と、ハルモニアは歩調を緩め、思案する。いつもなら迷わず浜辺に足をむける。あの美しい景色を見るために。しかし、昨日そこで邂逅した白髪の男の存在がそれを躊躇わせる。
 母は何故あれほど彼を恐れていたのだろう。彼はエレクトラに酷いことをしたのだろうか。否。ハルモニアは浮かんだ疑問を即座に否定した。無闇に疑うなんてそれこそ酷いではないか。ハルモニア自身は彼のことを知りもしないのに。
 ぴたりと、ハルモニアは足を止めた。
 そしていつもの道に向かって踏み出す。
 エレクトラもダルダノスもイアシオンも、ハルモニアにとって大切な家族だ。本当の家族ではないハルモニアのことを受け入れてくれて、更には大切だと言ってくれる。ハルモニアにとっても大切な大切な家族なのだ。その慈しみと優しさで包まれて養われたハルモニアは同じように慈しみも優しさもその心に育んだ。だから彼女は誰であれ、他人を傷付けるのを良しとしない。誰かが傷付けられるのを良しとしない。誰もが誰とも争わず平和であればいい。彼女の幼くも純粋な願いである。
 だからあの男[ひと]に会おう。
 会って話せば何か解るかもしれない。エレクトラがあんな顔をしなくて済むかもしれない。あの男だってきっと悪くない。だからあの男に会わなくては、始まらない。ハルモニアは色を変えはじめた空の下、少し早足で歩を進める。


 果たしてその男はいた。
 黄昏れ色に染まる海と空を切り取るような白い男。波打際の湿った砂に座り込む背中をハルモニアは見付けた。まるで昨日の続きのようだった。
 近付いて、ハルモニアは男から伸びる影を踏むのを躊躇って立ち止まった。
 どう、声を掛けようか。やはり昨日と同じで彼に掛けるべき言葉が巧く出て来ない。立ち尽くすハルモニアの足にやがて男の影が掛かる。

「こんにちは」

 言ったのはハルモニアではない。男は言って肩越しの振り返る。

「…こんにちは」

 答えてハルモニアは男の傍まで歩いて隣に座る。男は少し首を傾げた。

「そこ、湿ってるから座らない方がいいよ」
「平気です。時々こうしますから」
「そう」

 言ってからハルモニアは少し笑った。安堵と意味もなく恐れていた自分への呆れを篭めた笑いである。
 再び海を見遣る男の右眼は夕日が射して火を燈しているようだった。ハルモニアも太陽の近付く水平線を見詰める。

「綺麗な夕焼けですよね。私、いつも見に来るんです。空も海も切ないくらいに綺麗で」
「そうだね。…終わる刹那の美しさ、と言うのかな」

 その言葉にハルモニアは胸を締め付けられる。同時に彼も自分と変わらない思いを抱いてこの光景を見ていたのだと知って、また少し安堵した。しかしすぐに緊張の色を刷いて、ひとつ、息を吸い込む。

「あなたは…」
「ハルモニア」

 誰何する筈が男のハルモニアと彼女の名を口にしたことによって打ち消された。ハルモニアは瞠目して男を見る。

「ハルモニア、ハルモニア。……いい名前だね」

 男は口遊むように言って、ハルモニアに微笑んだ。

「何故、」
「いい名前」

 私の名を知っているのですか。
 ハルモニアは言いかけた所でまた男に遮られた。そして昨日エレクトラが自分の名を呼んでいたことを思い出す。男がハルモニアと知っているのも当然の道理である。
 不意に男の笑みが消える。僅かな感情さえ凪いであるのはただただ静謐な泉のような、否、彼に浮かんだ表情はそう見たいというハルモニアの願望故ではなかったか。そう思える程に硬質で無機質なまるで硝子のような印象にハルモニアから風音が遠ざかる。

「ハルモニア。名前は貴女が二親に与えられた祝福だ」

 水平線に迫った太陽が男を、ハルモニアを、朱色に染める。だというのにハルモニアは今その色を感じることが出来ない。祝福と言った男は余りに白い。

「あなたは、誰…です、か?」

 男が薄い唇を微かに開いた。


「ハルモニア!!」

 エレクトラの甲高い声が見えない緊縛を裂いた。昨日と同じである。昨日と同じ終焉である。エレクトラは走り寄りハルモニアを抱き寄せる。

「何故!? ここに来るのです、あなたは!」

 男に激しく言葉を浴びせながらエレクトラはハルモニアを庇うように抱きしめる。

「もう、来ないで…」
「あなたは誰ですか?」

 エレクトラの語尾に被せてハルモニアは今度こそ明瞭な声で問う。ここで訊かねば何ひとつ変わらぬ。だから母からの叱責は覚悟の上で問うたのだ。
 太陽は黄金の舟に辿り着き、その残光が厳かな夜の衣を染めていた。
 男はふらりと立ち上がる。エレクトラがますます身を固くしたのがハルモニアには解った。
 男はじっとハルモニアに視線を注いだ。
 ああ、もう太陽の加護もないというのに、何故、彼の顔がはっきり見えるのか。

「私は」
「あの方は!」

 エレクトラが悲痛の滲む声で叫んだ。

「あなたの伯父の…ヘパイストス神よ!」



<2010/07/30ー08/13>
<2010/08/19>加筆修正

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