白い部屋に簡素なベッド。横たわる男と金色の犬。投げ出された腕から伸びる管。
 窓のない閉塞した部屋にアテナはひとつ、溜め息を吐いた。

 白を基調とした部屋は清潔というより潔癖な印象で、ベッドの白いシーツの上に横たわる男も白いのでますますその印象が強い。

 金色の毛並みの大きな犬がベッドの傍らに伏せをしている。本来ならそれでこの感覚は拭われるのだろうが、何故だかこの潔癖で無機質な部屋に調和してけして印象を崩すことはなかった。
 犬がこちらに向かって吠えた。穏和そうな顔付きのまま敵愾心のない人懐っこい鳴き声だ。アテナの足元に控えていた銀色の犬が尾を振り駆け寄った。爪が床を蹴る小さな音が響く。

 ぐったりとベッドに横たわった男・ヘパイストスは犬の鳴き声でようやく来訪者に気付いたのだろう、のろのろと身を起こす。乱れた髪を右手で撫で付けるが中途半端にしか直せない。左手が使えないからだ。
 左肘の内側から管が伸びていてその先は椅子の上のパックに繋がっていた。管に流れパックに溜まる赤はこの部屋に異質なほど鮮烈だ。

「今日は、アテナ。…もしかして今晩は?」
「まだ先ので合っている。研磨を依頼しようと思って来てみれば、その犬が此処まで案内をしてくれてな」

 ヘパイストスの屋敷は無駄に部屋が多い。それに伴い通路も複雑に入り組んでいるので、アテナが仕事場に着いた時にヘパイストスがそこにいなくて少し困った。今日はオリンポスにいると知っていたので、約束を取り付けてることなく訪ねたのだ。
 さてどうしたものか。嘘か本当かアレスは遭難したことがあるらしい。そんな醜態を晒すくらいならいっそ壁と天井を壊して捜そうかと考えていた所にその銀色の毛並みをした犬が現れて、アテナをここまで導いたのだった。

「そっか。上手く出来たね、アージェンタム」
 ベッドに腰掛けたヘパイストスはいつもよりぼんやりとした様子で犬を撫でる。
「それで貴兄はこんな所で何をしている」
「見ての通り血を抜いてるんだけど」
「新しい趣味にでも目覚めたか」
「なにそれ」
 ヘパイストスは息だけで笑った。


 鍛冶神の黄金の乙女を造ること


 アテナも笑うとパックを手にとって椅子に座る。簡素な造りに思えた椅子だが実に坐り心地がいい。
「それで? 血を抜いてどうするつもりだ」

 血は既にかなりの量が溜まっていた。
 色は一見して人間同じ赤だが、ずっと鮮やかであるし、角度を変えればきらきらとした残像の色がまるで遊色効果のように躍る。時には金色に輝いて見えるのだ。そして何より不死なる神々の血は流れ出てもその不死性を失わない。乾くこともないし酸化して黒ずむこともない。人間のそれとは違う神の血、イーコール。
 その血を抜いているのだと言う。そんなのは見れば解る。それをわざわざ言うのがヘパイストスらしい。まったく。実際には集めているのだろう。何かの目的で。アテナが知りたいのはそれだった。

「それにこの犬も、だ。貴兄の趣味とは思えんな」
 椅子の傍らに二頭の犬がきちんと座るので頭を撫でてやる。アテナの知る限りヘパイストスは動物を積極的に可愛がるような男ではない。水槽の魚を見て楽しむのがせいぜいだ。それが大型犬を二頭も。彼の半ば別居している妻の為と考えるには彼女の趣味と少しズレている気がする。金色の少し長い柔らかな毛並みを撫でてアテナは問うた。

「何をするつもりだ」
「何を、なんて訊くほど大袈裟なものじゃないよ」
 ヘパイストスは銀色の犬の頭に手を添えたまま言う。
「私はね、アテナ、自由に使える手足が欲しいだけだよ」
「いつも大伯父達を顎で使っているではないか」
 否、むしろ大伯父が積極的に世話を焼くのか。しかしヘパイストスは否定しない。
「シケリアではね。この前さ、アグライアが部屋の掃除してくれたの。ここの仕事場の前にある休憩室ね。差し入れ持って来てくれた時についでって。自分でもそれなりにしてるつもりなんだけどどうしても届かない所も多くて、助かったんだけどさ、そしたら今度は仕事場の方も掃除しましょうかって言ってくれたの」
「甲斐甲斐しいじゃないか。果報者め」
「本当に。けど流石にそれは悪いじゃない」
「それで」
「断ったよ。これから作業するからって。あの時はそれで納得してくれたんだけど多分また同じことになるでしょ」
「だろうな」
「でも私は出来ない」
 深く腰掛けて床に着いていないヘパイストスの脚。右脚はこんな場所だというのにブーツを穿いたままだ。
「他にも色々運ぶのとか大変だし、書類処理するのも実は面倒だし、そういうの全部、引き受けてくれる手足が欲しい。だからね、造ってみようかなって。それだけだよ」

 随分と横着なことだ。しかし、叶えるには元の大変や面倒よりもずっと大変で面倒ではないだろうか。それだけ、と言えるのはヘパイストスの技術力が図抜けているからに外ならない。
 そもそもひとを雇えばいいのではないかと思ったが、敢えては言うまい。

「成る程。ならばこの犬たちは実験体か」
「うんそう。解った? 上手く造ったつもりなんだけど」
「若干綺麗過ぎるのと反応が薄いのはあるがいいんじゃないか」
 形も動きもまるで本物と変わるところがない。温かでふわふわとした毛の手触りもアテナが映り込む黒耀石のような目も。
 アテナは十分な称賛のつもりだったがヘパイストスは少し眉の根を寄せる。
「反応薄いかな。それなりに愛嬌あるようにしてるんだけど」
「ここまでわしゃわしゃ撫でたら嫌がるか、腹を見せるかするだろうな」
 顎の下も撫でるが犬は穏和そうな顔で尾を振るだけだ。アテナは苦笑した。
「ふぅん…調整するよ。貴重な意見有難う」
「しかし、実験などしなくても人型のものは以前にも造ったことがあったろう」
「ああ、うん。だけどあれは…あのひとを真似ただけだったしね」

 言ってヘパイストスはぼふっと音を立ててクッションに沈む。眠いのかもしれなかったが、それより触れた話題が少しまずかったのかもしれない。それは恐らく未だヘパイストスに、そしてアテナにとっても微かな痛みを呼び起こすことだった。しかしアテナはそれを痛むからといって目を逸らすこともましてや逃げることも出来ない。彼女自身の強さがそれをさせないのだ。
 この男はこの痛みから逃げるのだろうか。リネンに埋もれた青白い顔の半分。目を瞑ったままのヘパイストスがややあって言う。

「だから今度は金属で造ろうかなって思ったんだよね。死んだり壊れたりしないのを。金属なら土と水より朽ちにくい気がするし」
「血は水の代わりか?」
「なんとなく…血が通ってたら動きそうかなって思って」
「なんとなく、か」
「ちゃんと動いてるでしょ。この犬たちは首から腰まで血管通してる」
 アテナは二頭の犬を一瞥した。手に持ったままのパックはその温度さえ失っていない。そして視線をヘパイストスに戻すと横たわったままではあるが顔をアテナに向けていた。
「動物の形で出来たから、次は人型。色々試作もするから時間見つけて血を抜いてるの」
「成る程解った。しかし血が必要ならアレスの血を抜いてやったらどうだ。血の気が多いから丁度いいだろう」
「……頭悪くなりそうだから嫌」
「酷い言い草だな」
 アテナは笑ったがヘパイストスは至極真剣な表情だ。
 今度こそ起き上がったヘパイストスが手を伸ばすのでアテナはパックを渡す。受けとったヘパイストスは無造作に腕の針を抜く。

「貴女の剣を研げばいいんだよね」
「ああ。少し呆けているようだが任せていいか」
「勿論」
「頼もしいことだ」


<2010/06/28>
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