クラブの隅で水割りを啜っていたところに現れた尋常ならざる騒ぎ声に顔を顰めると、カウンター挟んだ向かいでシェイカーに氷を入れていた外人バーテンダーがやおら血相を変えて『STAFF ONLY』と書かれたドアの向こうへ消えて、ああやっぱりここなんかやってたんだな、と思ううちにけたたましく鳴っていた音楽が途切れる。その所為で外で鳴り続けていたのであろうサイレンが耳に届いた。フロアで飲み食い踊りをしていた客どもが津波の前兆のごとく一気に入口付近からざあっと引き、見えた陸地の上を津波よろしく押し寄せて来た集団は店員をとっ捕まえたり『STAFF ONLY』を無頓着に開いては中に入ってゆく。この一杯を飲み干してから帰りたい俺はその闖入者どもに声を掛けられる事承知でいつの間にか閑散とした店内に残った儘グラスを傾けた。 「オイあんた、」 ああやっぱりだ、ドスの利いた声は俺をここの関係者と決めつけているのだろう、無遠慮に腕を掴んで来た。持っていたグラスから中身が僅か零れる。まったく天下の公務員様は勿体ないという言葉を知らないのか。 「俺は酒と煙草しかやってねェんだけど?」 掴まれた腕をその儘に睨み上げた。 瞬間、かち合った視線に息を呑んだのは――俺も、その男も同様であろう。 かつての恋人との再会は、裏カジノ経営クラブ関係者一斉摘発現場、という、何とも印象に濃い場であった。 * * * 「常々胡散臭ェたァ思ってたんだよ」 「そう思ってて何でいたんだよ」 「お上品な店は苦手なモンでね」 騒動は去り、空の色は陽を迎える準備をしている。お仲間と戻らなくていいのか、と訊けば、多少はいいだろ、との返答。土地柄か明け方まで営業しているコーヒーショップにて買って来たホットコーヒーを壁に背預け二人並んで啜る。相変わらずお互い砂糖もミルクも入れない、ただそれだけの事が昔を思い起こさせた。 「お前が警察たァな」 「ガラじゃねェって言いてーんだろ」 「いや、いーんじゃねェの? カッコよかったぜ、容疑者確保の瞬間」 「……悪かったよ」 掴まれた腕を少し掲げると、至極ばつの悪そうな謝罪。それを笑って煙草をポケットから出し、火を点けようとしてジッポーがない事に気づいた。どうやらカウンターに置き忘れて来たらしい。長年愛用してたのに、と心中でジッポーに別れを告げ、火ィ貸せ、と言ったところ、横から言い難そうに、煙草やめたんだ、と。意外な言に隣を見やる。 「マジかよ。よくやめれたな」 「肩身が狭いもんでね。給料の為に煙草を棄てた」 「恋しくねェか?」 「今はもう、な」 では、俺、は。昔は恋しくないのか、と頭に浮かんで――言葉にするだけ野暮だと黙した。 別れよう、と言ったのは、この口だ。高校を卒業して別れ別れの人生の中、関係が自然消滅するのが怖かった。自分の為の離別を受け容れてくれた彼にいまさら、昔を引き戻させる事など出来るはずもない。 別れよう、もう続かない、好きな奴が出来た、――嫌い、とも言ったか。並べに並べた嘘。その時見せたぐしゃぐしゃの泣き顔の片鱗は今やどこにもない、ちらと盗み見た横顔はかつて愛していたそれとは別物のようだった。 「お前は」 「あ?」 「何してんだ、仕事」 「どーせろくでもねえ仕事してると思ってンだろ」 「ちょっとだけ」 「ま、ろくでもねえのは確かだ。――母校で保健医」 「マジでか」 声が跳ねた。笑っている。それこそガラじゃないだろう、思って指摘すると、横では寒そうにカップを持った手の甲をもう片手で擦りながら、いや、と短く否定。 「……似合ってるって?」 「聞くまで想像出来なかったけどな。でも聞いたら納得した」 何をどう納得したのかは解らない。いや、俺はもう彼を理解出来ないだろう。――彼は今や、あのころとは違う生き物なのだ。俺が未来の恐怖の払拭の為に棄てた、だから俺の知らない、俺が存在しない時を生きて来たぶん、彼はあのころとは違う。 ならばもう何一つ、解る事など。 「俺は、――今だから言うけど、結構お前に救われてたんだ。委員会だ部活だ何だ周りが騒ぐ中でお前だけなんも言わなかったから」 「そうだったかな」 「ああ。救われた、よ」 敢えての過去形は、確かに含みを持っていた。 俺は彼を救っていた自覚はない、しかし――絶望させた自覚はある。救って救って最後、棄てた、という事だ。彼においての煙草と同じく。それを彼は今、暗に責めている。 (それを謝罪する権利も俺には、) (……原因は俺の弱さだったのだから) だから俺はもう、優等生のお役に立ててたんならこれ以上の喜びはねーな、と笑うしかなかった。ともすれば自嘲であったそれ、は、白く湯気と混ざり消えた。 「……。あの時」 「あ?」 「別れた、時」 「……ああ」 「もう嫌いだ、っつったろ。俺の事」 「そうだったかな」 「忘れんなよ」 まあお前らしいっちゃらしいか、言う声はもう責める事もなく笑う。コーヒーの湯気に混じって静かな笑い声の息が白くゆたう、ふたりだけで過ごすこんなにも穏やかな時間を俺は確かに知っていた。ただ話す事柄とふたりの関係が違う。なんて奇妙なデジャヴ。 「――嘘、だったんだろ」 「何が」 「嫌いっつったの、嘘だったんだろ?」 「……何でそう思う」 「どれだけ一緒にいたと思ってやがる。つかやっぱ覚えてんじゃねえか」 視線が向けられるのが解った。責めても面白がってもいない、きっと正答を知っている視線でだから俺は、正答を言い淀んだ。 「覚えちゃねェ、が」 「が?」 「例えば――嘘つきのつく嘘は、嘘だと思うか?」 横を見た。目が合う。カウンターで腕を掴まれて以来だ。未だ暗い空の下に見た眼はやはり知っていた色をしていたけれど、そこに纏う雰囲気を俺は知らない。精悍と形容出来ようそれ、は、手が届かない目映さを痛感させた。 「嘘、なんだろ」 「どうかね。賭けるか?」 「賭け事はしねーんじゃなかったのか」 「嘘つきの嘘を信じてんじゃねェよ」 (短慮だった、な) あのころの俺が、もう少し強かったら。 「――そろそろ行くわ。お前も流石に戻らなきゃだろ」 「、ああ」 「じゃ、な。――お幸せに、刑事サン」 紙コップにあった手、左の薬指をつん、とつついて笑った。その儘踵を返して、後ろ手にひらと手を振る。ああまた嘘をついて仕舞った。薬指に嵌められた指環の相手と彼、に幸多からん事など願ってはいない。それを彼は見抜いただろうか。かつて俺の言った嫌い、を嘘だと見抜いたように。確かめるにも振り返る契機はなくこの足は歩き続ける。また新しい飲み場を捜さねば。それもこの辺りから離れた場所。彼、と、もう二度と会わぬように。望んでこそいないが彼は今度こそ幸せにならなければならない。 二月の風がコーヒーの湯気と溜息の白をさらってゆく。俺はとりあえず、今の日常に程近い駅に向かって、歩く事にした。 「土方さん、戻るの遅いですよ。何してたんですか」 「野暮用。取り調べは」 「まだやってます。……アレ? 指環してないじゃないですか、どうしたんですか」 「棄てた。色々面倒臭くなってよ」 「……女避けに着けてたんじゃなかったんですか。余計面倒になるんじゃ」 「うるせーよ――、お前、それ」 「あ、コレですか? 現場のカウンターにあったんです。高そうだし年季入ってそうだから持って来ちゃいました」 「……誰のか解るか」 「さあ。客の忘れ物でしょう」 「……一応預かっとけ、届け出なかったら俺が貰うわ。――今日から煙草解禁する事にしたから」 「え、なんでまた」 「ほっとけ」 (残酷なお前にまた縋ろうとする俺を、お前はどう思うだろう) (たぶんもう、会えないけど) * * * 村崎さまへ。離別後高→(←)土。 |