始まりの始まり | ナノ



嗚呼、電飾が凄いですねえ。彼はどうやら夕暮れの空を見上げた。のんびり呟いた其れ、に俺は内心で呆れる。長らくの付き合いである、此の男の、あまり起伏が激しくない(かと云って俺の様に仏頂面の鉄面皮でもありはしないが)声音に隠れる本心など嫌でも汲み取れる。往来は浮足立っていて、正直俺はうんざりしていた。其処へ、彼の科白である。舌打ち一つすれば、おや如何しました、と空っ惚けた事を訊いて来る。彼も又俺の性分を解って居る筈、ならば此れは所謂八つ当たり、だ。仕方がないので、飯まだだろう、そう訊けば、ええそうですねえ古書店に居座り過ぎて仕舞いましたから、と呆気なく云った。付き合ったこっちの身にもなってみやがれ、そう思ったが口に出すを我慢して、此の辺りに飯屋があるか訊ねた。そうすれば暫時の後、蕎麦屋なら、との返答。頷くだけで諾を伝えると、其れじゃあ行きましょう、と俺の着流しの袖を僅か引いた。俺は黙ってついて行く。

嗚呼、そう云えば此の辺りに餡パンを売る舗が在るんですよ帰りに寄って好いですか? 其の問いに俺は少し思案して、土産か、と問い返す。言葉には現れなかったが肯定の感覚が伝わって来た。酔狂な奴だ、と云ってやれば今度こそ声に出して苦笑した。私もこうなるとは思いませんでしたよ、てっきり丸の内の勤め人にでもなるのかと。そうか、俺は尋常の教師か何かかと思ってたがな。そうですか? 柄じゃないでしょう。サラリーマンのほうが柄じゃねえよ。そうですかねえ。他愛ない話をして居る間に恐らく蕎麦屋に到着した。がらり、引戸を開けると、嗚呼、と落胆した声が隣から、往来と同じ様な浮かれた喧噪が舗の中から。どうやら満席の様であった。駄目ですね、此の様子では他の舗も同じでしょう。引戸を閉めながら云う後ろから舗の大将と思しき野太い声が、御免よォお客さん又来とくんなィ、と飛んで来る。俺は会釈を、彼は多分笑顔を返し、内心ではふざけんじゃねえ、と二人思いながら蕎麦屋を辞する。

――さて、如何したものでしょう。他も満杯なんだろ、帰るしかねえ。購いたかったなあ餡パン、美味しいって評判なんですよ。嗚呼そう云えば去年からジャムパンも売り始めたとか。諦めろどうせ売り切れだ。ぽん、肩を叩いて元来た路を辿る。――そう苛立つんじゃねえ。いい加減我慢の限界が来た俺は彼に云う。彼は恐らく俺の横顔を見、あれ、気づいてましたか? と今更な事を云う。何年の腐れ縁だと思ってやがる。そうですねえもう……忘れました。俺は覚えてるぜ、お前が一中に入った日だ。嗚呼そうでした、貴男、上埜の不忍池で三味線弾いてたんですよ。お前はお前で風に学帽飛ばされてな。池に落ちなくて好かったです、貴男が受け止めてくれなかったら入学早々親と先生方とに謝らなければならなかった。俺の第六感を馬鹿にするなよ? そんな事した事ないですって。
――あれから色々あったな。日々が目まぐるしいですよ、きっと私達は今、歴史の重要な辺りに巻き込まれている、巻き込まれる身にもなって欲しいものです。云って再度見上げた空はもう昏い。普段の瓦斯灯は御役御免と煌びやかな電飾が街に幅を利かせてきらきらと輝いているのだろう。その電飾を含む街の、祭の如き雰囲気に苛立ちを募らせているのだ。

なあ、電飾奇麗か? 奇麗ですよ、見た目は。人殺しの上に成り立つ祭を、死んで逝った人々は如何思うのでしょうね――慰霊の念があればまだ良いものを、此の浮かれ様は、如何にも。……俺はお前と違って学がねえ。字だって読めやしねえ、今の祭も何が何だか解らねえさ、――だからせめて、前向きに考えようと思ってな。……前向き、ですか。不思議そうに問う彼に、俺は今迄抑え込んで来たごく個人的な喜びを、打ち明ける事にした。――なあ吉田。何ですか? ……俺、又兄貴になる事になった。え? 二十と三離れた弟だか妹だか、親父もお袋もそんなに頑張る必要もねえだろうが、まあ嬉しいもんさ。そうですか、おめでとう御座います、……又貴男、子守の日々ですね、長男の因果でしょうけれど。何、下の奴らが勝手にやるさ。其れに云わせて貰えば、てめえだって子守の日々だろうが。嗚呼、まあそうですねえ、手が掛からないと云えば嘘になりますけど皆好い子ですよ。ほら見ろ、親馬鹿が板に付いてやがる。笑ってやると、彼も又笑った。――だからよ、空、奇麗なんだろ? 俺は此の空が、こんな時代に生まれて来る餓鬼を祝福してくれてると捉えるんだ。お前が苛立つのも勝手、街が浮足立つのも勝手、なら俺が餓鬼への祝いと喜ぶのも勝手だ。云うと彼、は長らく黙った。怒っているでもなく只々黙考している。――空、奇麗ですね。やがて呟かれた声音は苛立ちを削いでいて、僅か笑んでいた。

矢っ張り餡パン購いに行きましょう。は? 貴男に家族が増えるんですから御祝いに、――其れに実はうちも先日、一人増えたんです。身寄りもないからうちに住んでいるんですがね、如何にも甘い物に目がないみたいで。多分此の時間ならあの子ともう二人、残って喧嘩でもしてるでしょうから――貴男も泊まってって下さい。……もしかしてその二人ってのは、こないだの小生意気な餓鬼共か? はい、貴男の学と三味線に大層興味を持った様で。此の前来た先生の友達は次何時来るのかだなんて訊ねる始末なんですよ。含みある笑い方で彼はそんな事を云う。

はあ、と溜息を吐く。こう云う時の彼は強引だ。仕方ねえ、こんな目くらが将来此の国を背負って立つ餓鬼共の役に立つってんなら行ってやるよ。云うと彼は恐らく破顔して、其れじゃあ先ず御土産です、と俺の袖を引いた。酒も購えよ、付加して相変らず浮足立つ雑踏の波を二人すり抜けて行く。そう云えば弟さんか妹さん、何時頃御生まれに? 医者が云うには五月頭辺りらしいがな。そうですか、今日よりずっと好い日に生まれると好いですね――土方君。まあな、と顔を背けたのは、早くも自分の中に親馬鹿が芽生えている事を悟った故だ。

餡パンを五つ購いに二人歩いた其の日の銀座は、東郷平八郎大将がバルチック艦隊を破り対露西亜戦争勝利の祝いで大いに賑わい、色とりどりの電飾が煌々と夜空を照らしていた。
明治時代が終わり大正時代が始まる、八年前の出来事である。




始まりは、終わりの始まり






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企画用。松陽先生と土方君のお兄様がお友達だったらいいのに、との手前勝手な妄想を形にしてしまいました
差別的表現が含まれています。すみません。
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