苦しめるには、まだ足りない。 ――世界はふたりに優しすぎる。 *** 相変わらず例によって、ここがどこだか解らない。だがそれを質さないでいるのは、確固たる信頼があるわけでもかといって気まぐれに与えられる苛烈とも言える愛に従っているでもない。ましてそのすべてを受け容れられているわけでも――なら、何なのだ。己に問おうも返答は決まって、何を今更、という一言。確かに、何を今更。土方にしてみればあの男との関係はただ、哀しいだけ、なのだ。一旦そう思って仕舞えば抵抗する気も文句を垂れる気も失せた。――諦めた。今はもはや虚無に似た哀しみが心の底に厚く厚く降り積もっている。 目が覚めた時には、昨晩傍らにいた姿は闇夜とともに消えていた。障子の外側、僅か開いた雨戸の隙間から差すやわらかい陽が布団を白々しく見せる。光滲む上に高杉の痕跡を求めようと指を伸ばすも、敷布は皺が寄っているだけ、ひやりと冷めている。――多分自分は今、哀しい。心の底に在るそれ、が、風に吹き上げられるように喉の奥を痛ませた。 薄情者。それこそ今更解り切ったことを敷布の皺に落としてから、着流しを着込んで障子と雨戸とを開ける。途端流れ込む冬の空気に両肩を抱きながら思わず目を細め、――見開いた。外は一面の白に覆われている。見るに長い時間、おそらく夜半から降り続けていたように思える。そして長らく降り続けていたはずの雪の存在に気づかずにいた己と、なにゆえ気づかなかったのかとのふたつにただ恥じ入るのみであった。みっともないくらいに必死な自分と、その必死な自分を見て笑んだ彼の顔――大きく息を吐いて、頭を冷やすため庭へ降りた。 暫く歩いたところに、雪面で蹲る姿を見た。白に落ちた裳裾は一目瞭然、てっきり自分を置き去りに勝手に帰ったものだと思い込んでいたからいささか驚きはしたものの、その足元を見るや呆れて、何やってんだお前は、との科白が口をついた。土方が近寄って来ていたことはとうに悟っていたのだろう、特段驚くこともなく蹲った体勢の儘顔だけ振り返った高杉は、同じく呆れた表情を見せる。 「……馬鹿か」 「解ってて拉致されるような奴が利口なわけねえだろ」 「ンなことは知ってる。足だ、足」 よく裸足で歩けるな、言われて土方は縁側からここまでを振り返る。浅い足跡が点々と、土方と高杉との場まで続いていた。己の体重が原因のほとんどだろうが、この体温もまた雪面に足跡を作るに一役買っているのだろうか、と土方は妙なことを思う。 「何か履いて来いよ」 「なかった。履くもの」 「縁側にはな。裸足で街中歩いてる奴を攫った覚えはねェよ」 「……。そっちはそっちで何してんだ」 「――まあ、なんとなく」 「気まぐれか?」 「切望、かな」 「……馬鹿はどっちだよ」 赤味を帯びた指先はおそらくかじかんでいる。それは明らかに足元の雪を掘った証拠で、不自然にへこんだ雪面の中には土方の腕時計が入っていた。存外に繊細な奴だ、呆れると同時にやはり、心の底の虚無が渦巻くを繰り返す。 ――世界中の時計を雪の下に埋めようが壊そうが、時そのものは止まらず動き続けるというのに。それを無理と解っていながら、漠然とではあれど行動に移すこの男を土方は少し、ほんの少し羨ましく思った。まだ、この世界を望んでいる。自分はといえばただ、この男の愛を心から受け容れるにはあまりに臆病であるゆえ、やれ哀しい虚しいと、――世界を諦めている。 「埋めても融けるぞ」 「いつかはな」 「……だから雪は嫌いだ」 「へえ?」 「代わりに砂でも降ればいい」 赤い手で白い雪を掻き集めて土方の腕時計を埋めている様を見ながら口から出た科白は、土方自身予想外のものであった。そして心の底、厚い厚い哀しさ虚しさにいつの間にか埋もれて仕舞っていた感情を垣間見る。ひとかけらの、それこそ苛烈な、高杉に向けるべき、愛。 「砂は永遠に融けない。砂漠になっちまえばいい、こんな世界」 すべてが砂に埋もれた世界を想像する。昼は灼熱に焼かれ、夜は極寒に凍える砂漠。地獄のような世界でなければならぬのだ、他の誰も何も存在するを拒む世界でなければならぬのだ、と――己が臆面なくこの男へひとかけらの愛というものを向ける、には。哀しみと虚しさの底には愛を越えた、狂気と呼んで紛うことなき想いが潜んでいた。こんなものは、およそ人が抱えるものではない。ならば自分は人ではないのだろう、地獄に住まうべきものだ。――願わくば、おそらく己と同じ想いを纏っているこの男と。 「……。戻るぞ。陽が落ちる」 「は? まだ起きたばっかりじゃ、」 「時はお前を基準に回っちゃねェぜ。誰しもだがな」 「……、夕方? もう」 「寝過ぎだ」 「……。誰のせいで」 赤面を隠そうと顔を背ける土方に高杉は珍しくも無邪気に笑い、立ち上がって土方の腰を抱き寄せる。身体が冷え切っていることは布越しであれど充分と伝わった。 ――もし。もしも自分が願えば、この男は世界を一面の砂漠に変えてくれるだろうか――。そう考えた土方の裡を読んだか否か、高杉は白い息をたゆたわせながら、お前は、と問う。 「お前は、砂漠に住みたいのか?」 「……」 「――。砂漠に、埋もれたいのか?」 訊く表情は笑んでいた。ふたりだけで化石になるのも悪かねェ、恐竜みたいに誰かに掘り出されるんだ、ずっとずっと未来に。恐竜――成程、人ではない自分には似合いだと土方は得心する。 「俺に付き合ってくれるのか」 思いの外、堅い声で問い返した。そんな土方に高杉は、人とは思えぬ冷たすぎる指で土方の頬をするり撫で、 「何を今更」 土方が哀しさ虚しさとともに繰り返し続けていた科白その儘を高杉は、さも愉しそうに、土方にすれば呆気なく、口にした。それ、がどれほど、土方の地層がごとく厚く積もった哀しさ虚しさを融かしたかは――土方も高杉も、知らない。 「一億年後に待ち合わせ――なんて、な」 白い一面に乱反射を始めた茜色は、埋められた腕時計を助けんがため、ふたりを人にするがため、積もり積もった冷たい層を融かしに掛かっている。高杉は綱渡りをするように両の手を広げ、土方が縁側から付けてきた足跡を辿る。誰もいない地獄がごとき地に差す夕陽は果たして美しいのだろうか。やわらかい光は高杉の愉しそうな後ろ背に映えていて、だから土方は言葉を飲んで少し目を伏せる。世界はまだ、地獄よりも優しくて残酷だ。 束の間の愛と永遠の離別 |