またか。声には出さず嘆息、行き来する医師看護師に目撃情報を問うことから始めた。皆一様にああまたか、と苦笑するのが何とも居心地が悪い。しばらく訊き回った結果、ナースステーションの看護師が見かけたとの情報をもたらす。言われた儘に行ってみれば、何台か並ぶ自販機の真ん中、紙コップ式の自販機の取り出し口の中にそれはあった。 「……シュールだな、毎度毎度」 一人ごちてそれを取り出し、ポケットに仕舞ってからついでに珈琲を一杯。自分が来る前にこの自販機を使う人間のことを考えていなかったのか。まあ考えていなかったのだろうな、またも溜息をついて珈琲を啜る。図らずも休憩時間が出来てしまった――のは、これが初めてではない。この間は煙草の自販機の上、その前は食堂のスプーン置き場の中、どうやって入ったのか仮眠室の枕の上。デスクからほぼ毎日盗まれる土方の眼鏡は大概、束の間の休息を与える場所に鎮座しているのだ。婉曲な気遣いは毎度土方の心の裡を散らかす。胃が痛いのは珈琲の凭れだけではあるまい。 「今日の回診は済んだだろ」 言葉にそぐわぬにやりとした笑みで以て高杉は土方を迎えた。後ろ手に扉を閉めた土方は苦々しく眼鏡のフレームを押し上げる。回診の時だけ掛けるんじゃなかったのか、と訊かれたので土方は、今もある意味回診だ、と睨みを利かせる。意に介さぬ高杉は病室であるにもかかわらず煙草を吸っていた。今更注意したとて効果はあるまいと医師としては間違っている諦観を抱きつつ土方はベッド上、高杉の足元に座った。 「運がよかった。下手すりゃ俺の眼鏡は最悪メロンソーダまみれになってたとこだったぜ」 「いいなァ、ソレ。メロンの匂いがする医者」 「まあ煙草よりはマシかもな」 言って土方は高杉の煙草を奪い、吸いながら平生の回診の目でレンズ越しの高杉を見た。高杉はただ笑うのみである。 「熱は」 「なし」 「頭痛」 「午前中に少し」 「朝回診の後か?」 「後だな」 「食欲」 「性欲とともにあり」 「余計なことは黙ってろ」 「重要だろ、生きる上で」 のそりと高杉が土方に身を寄せる。アンタを抱きたい。馬鹿言うな。馬鹿だからこんなトコにいるんだろ、近づいた顔を土方は拒まなかった。このくらいなら、という思いは先程の諦観とは少し違う。顎を掬われその儘引き寄せられる。唇が触れる瞬間、少し高杉が不機嫌そうに眉根を寄せるのはいつものことだ。静謐の中、僅かな衣擦れと息づかいが遠慮がちに響いた。 「……眼鏡邪魔、とか思わねェの?」 「思わなくはねえな」 「じゃあ」 「外さない」 「何でだよ」 「病人が訊くんじゃねえよ。退院したら教えてやる」 患者と医師という関係ではなくなった時に、という付加は飲み込んだ。高杉はやはり不機嫌そうな顔で、それでも再度顔を寄せて眼鏡のレンズと蔓の間に噛みついた。レンズの隅を白く曇らせた息は煙草の匂いにまみれている。 「治るのか」 「どうかな」 「治す気あるのか」 「……どうかな」 呟いた土方のその唇に、高杉は噛みついた。あからさまな、不機嫌を通り越した怒りの籠った甘さのひとつもないキスだった。食いちぎられそうなそれに今度は土方が顔を顰める。 ――なあ先生、 「今日、」 「何だ」 「眼鏡、自販機のところにあったのか」 「ああ。お陰で休めた」 「アンタは、何を見てる」 「――」 「レンズ越しに、見てるのは、俺なのか」 「それは間違いない。ただ、」 「ただ?」 土方は暫し黙した。高杉は身を乗り出して、眼鏡を取ろうとする。それを強引な力で制した土方は、無理矢理に笑む。 「おかしくなる度胸がないんだ」 意味を図れず問い返そうとする高杉を額にキスすることで黙らせて、土方は立ち上がる。煙草を唇に挟ませひと撫で、時間があったら夜また来るから、そう言って部屋を辞した。扉を閉める。――外側から、鍵を掛けた。内側からの開け方を高杉は知らない。今の、高杉は。 ――なあ先生、俺は消えねえぜ。俺はあいつをこの病院に、あの部屋に、一生涯閉じ込めるんだ。そのために俺はいる。ここを出て行ったら本当は先生も困るンだろ? 毎日逢えなくなるから。お互い素直じゃねェんだからよ、だから俺はあんた達の橋渡しをしてるんだ。だけどな先生、あいつを肉眼で見たら駄目だ。あんたはあいつ以上におかしくなる。あんた、あの部屋から出なくなるぜ。もう、そのほうが幸せかもしれないって思ってるんだろ? あいつしか必要ないって、あいつだけいればいいって、そういう思いに完全に支配されそうなのが解るんだろ? だから眼鏡を手離しちゃ駄目だ。俺はあんたから毎日眼鏡を盗んでどっかに隠し続ける。先生は探し続ければいい。俺はあいつとあんたの狂気を抑制するために存在し続けるのさ。でもそれさえお節介だとあんたが本気で言ったなら、―― 「……消えるのも吝かじゃない、か」 既に狂っているかもしれない頭を抱えて土方は、少し笑った。笑みには煙草の匂いが残っている。明日の眼鏡の行方はどこ、だろう。肌身離さず持っていようか、そんなことを思って、少し、泣いた。 視界の真犯人 |