野良は惑う | ナノ




息を呑んだ感覚が歯から唇に伝わる。きっちり着込んだ制服の襟を背後から引っ張っての所業、にやり、思わず笑って仕舞ったのは見られてはいない。が、感づかれてはいるだろう。

コトコトカタカタ、電気ケトルが働いていた音が功を奏したのかも解らぬ。高杉が背後にいるどころか床から出たことさえ、土方は知る素振りもなく狭いキッチンに立っていた。そのうなじを高杉が狙ったという次第、おい、振り向こうとしたのだろう土方に高杉は耳元へ唇を近づけ、手許見てろ、と囁いた。びくりと肩があからさまに震えた土方だったが、ひとつ舌打ちをして高杉の言通りに両手へと視線を向け直す。今日は朝食も作ってくれるらしい。高杉の急襲に相当狼狽えたのか土方は、手にあったナイフをいったん俎板へ手放し、短く息を吐いてから柄を握り直した。溜息にしては憂いや苛立ちのない、うっすら色味のある吐息だった。自覚があったか土方は上擦った声
で、別に、と背後へ言う。

「……委員会あるから。食ってかねえと」
「休日出勤ご苦労。コンビニ使えよ」
「行きたくねえ」
「もうちょい巧い言い訳はねえのか」

やかましい、土方が言うより先に高杉がまたしても、先程よりも強く、うなじに噛みついた。明らかに痛みに呻いた土方がナイフを取り落とす。もちろん怪我のないよう高杉も気を回しての凶行だったが、当然のこと危険を味わった当事者が怒るには充分すぎる蛮行だったようで、身体を反って頭を暴漢のほうへ振り下ろした。無言の頭突き、これは相当にお冠の模様。

「噛むな。盛り野良猫」
「お前が言うか?」
「今は夜じゃねえ。猫はお寝んねの時間だ。テメーも眠れ」
「そうかい。洒落た矛盾だ」
「語彙ってモンがなくてな」

パチン。軽快な音をひとつ立ててケトルの振動が止まった。お湯、ずしりと頭の重みを高杉に押しつけながらケトルを取れの旨を言いつける。はいよ、高杉は素直に頭をどかして、ケトルを取り上げて俎板の横に置き、自身も隣に並んだ。目の前には四等分にされたバゲットがある。横に切れ目を入れられた為にさながら大口を開けて餌を待つ鰐か何かのようだ。多分だが、その中にはおいおい鶏が与えられる。

「珈琲か」
「半分な。メシ出来るまでに淹れといてくれ」

受け取ったケトルから片手鍋の中半分ほどまで湯を流し込んで、その儘隣に立つ高杉の前へと戻した。その鍋がコンロに置かれるより先に高杉は火を点け、煙草の先を燃した。すかさず土方が換気扇を回す。文句を垂れないということは彼もまた喫煙を求める共犯者に回るという布告のようなものだ。調理中のキッチンでの喫煙は土方の無言の許可がない限り絶対禁煙とされている。――高杉の塒にもかかわらず。

パッケージが謳う粗挽きの粉を四杯分、二杯二人分をドリッパーにセットした紙フィルターに入れる。少しの湯で粉を湿らせたのち輪を描くように細く注いだ湯は、濾過されてサーバーの中にトトトッ、トトトトッ、屋根を打つ雨と似た音を立てて珈琲へと変わって落ちてゆく。ドリッパーもフィルターもサーバーもすべて、百円ショップで購入した安物だ。豆も淹れる手さえも上等と言えたものではない。しかし土方は高杉の淹れる珈琲をそれは気に入っているらしかった。

「そういえば――気合い入れてるとこに水差すようだがよ」

ふう、朝の一服を味わいながらふと言うと、鍋の中に放り込んだ鶏のささ身を菜箸で泳がせながら同様煙を楽しんでいた土方が少しばかり高杉の方向へ顔を傾ける。

「あの野郎今日いねえぞ」
「……。えっ」
「たまにゃ休日を休日らしく過ごしたいらしい」
「……あー」

マジかよ、呟いた唇から煙草を外した手は、天を仰いだその視線をさらに塞いだ。絶望とまではゆかぬまでも落胆に過ぎる反応を高杉は横目に見ながら笑う。それはそうだろう、朝も早くから手ずから用意した昼食も、今身体に染み込ませている煙草の残り香も、昨晩高杉につけさせた首筋や手首あたりのキスマークもすべて、ある男の気を引く為の策なのだ。稚拙な考えだとは土方自身も理解しているとのことだが、水泡に帰せばさすがに落ち込むものらしい。

「これだから大人はよー……部活に顔出すっつったろ」
「大人だからこそ休みてえんじゃねえのか」
「解るけどよ。解るけど」
「それより鍋ボコボコ言ってるけど大丈夫か」
「あっやべえ大丈夫じゃねえ。高杉ザル取ってザル」

従いながらも高杉は笑いを禁じ得ぬ。恋は人間を駄目にするというのは彼が見本のようなもので、鍋のささ身をザルに取って水で冷やしてボウルに移す、それだけのことが思わぬハプニング一つで何とも手際が悪い。そろそろ邪魔だと言われかねないと判断した高杉は、珈琲の抽出が終わったサーバーをこれまた安物のカップ二つとともにテーブルへ退散する。

唇にだけはキスしないで欲しい。

初めて事に及んだ日、服を脱ぐどころかシャワーを浴びる前に、土方がそんな禁止事項を突きつけて来た。高杉は特段こだわりも見せずに了解を示し、以降今の今まで互いにそれを破ったことはない。理由は訊かずとも解っている。この男、本当に想う者、とやらを高杉と重ねているのだ。

アレとは深い付き合いだったから。

そもそもは屋上の喫煙仲間だった。その無駄話の中に高杉がなんとなくこぼした一言に土方があからさまに反応した――真相を確認するまでもない顔色から、高杉がなるべく言葉少なくしかし根掘り葉掘りとした挙句、土方は高杉を想う者の代替として扱うに納得した。抱いたか抱かれたかは訊かぬ、ただそうした、されたように扱えとのこと、以降、気持ちと唇は明け渡さぬ儘、恋人めいた行為に耽る不毛な時間を繰り返している。

「朝飯と昼飯同じメニューで問題ねえよな」
「今日を狙っての差し入れが俺の昼飯か」
「お前も早く言えよ、あいつ今日いねえって」
「文句は当人に言うこった」

ッチ、舌打ちは土方本人に向けてのものだろう。足音も荒い。冷蔵庫からマーガリンの箱、スライスチーズの袋、洗う必要のないサラダ菜のパック、バジルソースの瓶を何度かに分けてどたばた入手。途中で煙草の二本目に突入している。
冷まされたささ身を手で小さく細かく毟り、バジルソースで和え、四分割されたバゲットすべてにマーガリンを塗り、サラダ菜と対角線に倣って切ったチーズ一枚分、さらにバジル味になったささ身をぎっしりと挟んでバゲットの上からぎゅっと押して何とか出来たサンドウイッチ。高杉と土方の昼食、土方ともう一人の昼食――になるはずだった、高杉の昼食。

「有難く食え馬鹿野郎」
「いただくとも」
「何様だ」

小さなテーブルに珈琲とサンドウイッチ。恋人同士でなければ笑えない。しかるに土方は感想を高杉に求めない。高杉は高杉で黙々と食べ続ける。双方腹の裡で、食欲と性欲の根源が同一であることを意識しているのかもしれない。真偽解らぬが、もしそんな雑学が正解であるならば、美味しい、と愛してる、はあまりに近しい。

「……次の休み。解ったら教えろよ」
「直接訊けや。現国係だろ」
「察してくれ」
「気が向いたら」
「深い付き合い、だったんだろ」

睨んで来る眼に高杉は苦笑する。口の中のバジルソースがふっ、と味覚を拒否した気がした。

「エプロン。買ってやろうか」
「……は?」
「この飯、誰を思って作った?」
「何だよ突然」
「さてね。珈琲旨いか」
「まあまあ。いつも通り」
「結構」

十二分に、言質は取れた。

内心で笑い、高杉はほんのわずか、昨夜の一端を思い出す。唇はもとより、キスマークは着衣で隠れるところに、という注文もあらかじめ命じられていた。土方はまだ気づいていない。先程高杉が残した、うなじの噛み痕の赤さ。そして――そういう感情、がなければ、キスマークにしろ何にしろ身体は反応をしないという事実。

端的に言えば――お互い、好きでもなけりゃあ勃たねえよ、ということだ。

「暇だしエプロン買って来る」
「要らねえから」
「あいつは買ってくれねえぞ」
「……解ってる」
「身体だけは正直だよなァ」
「何なんだよさっきから。喧嘩売ってんのか?」
「いや、買ってる」
「あ?」
「時間いいのか」
「あーよくねえよくねえ。おいラップどこだ」
「冷蔵庫の上」

珈琲を一気飲み、ふたたびキッチンへと走る。それを視線で追ってから高杉は、土方が灰皿に預け置いた儘燻されていた煙草を片手に、土方が学校へ持って行くべき荷物をもう片手に携えてついてゆく。結局珈琲はサーバーにたっぷりと残って仕舞った。
土方は昼食用のサンドウイッチを一つラップに包み、高杉が無言で差し出した鞄にこれまた無言で詰め込んで受け取り、行って来る、と言い置いて玄関へ走って靴を突っ掛けた。やはり高杉も従い、さてドアを開けて出てゆくか、のところで土方の襟を握って留める。何だよ急いでるのに、と言わせる前に、がり、真っ赤なうなじに牙を立てた。土方の身体全体が、びく、と跳ねた。足許に鞄が落ちる。中の昼食は無事だろう
か。傷と
言っていいキスマークをべろんとひと舐めすると、かたかたと小さく震える。

――得たり。

「俺は――」
「な、んだよ」
「深い付き合いとは言ったが、そういう仲だったとは一言も言ってねえからな」
「……え」
「先に俺に求めたのはお前だ」
「何を――」

思わず、といったふうに振り向いた土方の顔に、土方が灰皿に残していった煙を吹きつける。煙たい、煩わしいというより、その意味合いに困惑、さらには羞恥が先んじているような顔をした土方に、最後の策、という名の意地悪を。

「今日あいつ学校いるってよ」
「……っはあぁ!?」
「煙草の匂いと首の噛み痕。せいぜい見つからねえようにするんだな」
「おい」
「遅れるぞ。優等生」

土方はひたすら混乱しているようだった。落とした鞄、高杉の嘘、首筋に残されたもの、シャツに染みた煙、勝手な誤解、今までの高杉に対する狼藉――自分がいつからか真に想っていた者。

「行って来い。俺は――まあ、待つ。野良猫を」

悪く思うな。

土方を解放し、ドアは高杉が閉めて鍵を掛けた。ドン、ゴン、ドアに頭をぶつける音は内と外両側から。お互い、朝から巻き起こった劇的な十数分間に思考も身体も追いついていない。始めたのは土方だし、けしかけたのは高杉だ。

さてどっちが先に、旨かった、と伝えられるか。応えるのは易い。だから狡く在った。ただ、そこまでだけでは駄目だった。やっと始まった青い春。外は師走の始まり。





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