気難しい空模様 | ナノ




真っ赤に塗られた天井もなければぎらぎらした灯りも白粉の匂いも壁の隙間を埋め尽くす鏡もなくて、ましてや回転するしない以前にベッドそのものがない乾いた部屋はどこまでも見慣れている。嘘くさいものが何ひとつ存在しないぶん、だから脳裏に生々しい。じぶんが吐き出したものかはたまた彼のものか、いずれもおなじだからどうでもいいのだけれど、匂うから窓開けなきゃなあ、ほとぼりさめるまでガキどもに踏み込まれないように部屋死守しなきゃなあ、でもそれらを行動に移すほどの気力は今はなくて、だから堅く閉められた儘の窓の外を仰向けに見ながら、遠くシャワーの音を聴いている。視界に鬱屈と垂れ込めるガラス越しの分厚い雲と耳朶に存在感を示す音とが相まって、雨でも降っているような錯覚を感じ得ない。なぜだか、ひどく苛々した。

苛々しているうちに風呂から彼が戻ってきて、襖を開けるや顔を顰めた。部屋の匂いへか未だ素っ裸の俺へかはわからない――たぶん両方か、それ以上だ。

「……いいかげん服着ろてめえ」
「お前さあ」
「何だよ」
「眼鏡掛けな。ないけど」
「はあ?」
「目許がえろい」
「誰のせいだ」
「俺のせいだけとは言わせません」

見上げた先、彼はひどく機嫌を損ねたように舌打ちをして、さっさとどけろシーツ洗う、と俺を蹴り転がした。目覚まし時計に額をぶつける。痛い。

俺が彼を気に入っているのはまず間違いなくて、だが彼には別に想うひとがいるようで、まあそれがあえて誰かは訊かないけれど、それでも俺に身体を許すあたりあらやだこの子見かけによらず頭もしくは尻あるいは両方軽くてユルいかんじに仕上がってるのかしら、なんて思ったのははじめてここで事を致すに相成ったはじめあたりで、その後こいつはおそらく男に抱かれるのが趣味とかそんな単純な奴ではなくて、何らかの想いに押し潰されそうになっているのだろうと彼が上に乗った顔を見上げながらなんとなく悟ったのだった。まあその想いが何であれ俺にしてみれば役得でしかないじゃない、そう内心でにやり笑ったのはそのすぐ後で、更にそのすぐ後俺は、彼を、こんな直情と本能だけの行為でもって守ってやろうと思い直した。

「ねえ」
「……」
「なんで、あんな泣いたの」

その日は今日と違ってとうに夜が落ちていて、彼は当時万年床を決め込んでいた煎餅布団に横になるでもなく、ぼんやりと堅く閉ざされた窓の外を見ていた。はじめて抱いた彼の身体はすでに確実に男を知っていて事を進めるごとにちょっとだけむなしかったけれど、俺は俺でまあ気持ちよかったし、そしてそんなことより俺を受け容れる彼がぼろぼろと泣いたのが胸に刺さった。俺に無理矢理抱かれているというよりはむしろ率先するふうだっただけに、心の底から哀しいと涙をこぼす彼にその時は何も訊けなかった。

真っ赤にまぶたを腫らして窓の外をただただ見ている彼はもう涙を止めていて哀しそうな表情も失せていたけれど、そのぶんお人形さんみたいに表情のすべてを削いでいた。

「哀しいの? 何かが」
「哀しくない。もう」
「……じゃあずっと哀しかったんだ?」
「たぶん」
「いつから?」
「もうずっとまえから。――これからも」
「哀しくなくなったんじゃないの」
「……、そういうの、もうわかんねえから」

そう言って、思い出したように枕元の煙草に手を伸ばした。その手にキスしてみたい、なんて無性に思ったけれど、これからも、と付加された科白が予想外に耳に残ったせいでできなかった。そしてこれまた予想外に俺の口は、俺じゃあ役に立たなかった? なんて優しい言葉を吐くのである。彼は火を点ける動作をいったん止めて俺を見下ろしたが、そうでもねえさ、とようやく笑ってくれて、だから俺はやっとのことで安堵した。――安堵した自分に驚きもした。身体だけの関係でも築けたことに役得だなんて浮かれていた頭は今やもう忘却の彼方で、柄にもなく、人を、それもさして歳の変わらない男を、俺の推測であって確かではないが、彼をつなぎとめている、哀しませている誰かの代わりに、盛大に甘やかしてやりたいという庇護欲とも母性とも取れる思いが光をしのぐ速度でもって肥大していたのである。

「昔さあ」
「ん」
「映画観たんだよ。何つうんだろうな、グロかったりエロかったり笑えたり泣けたりする……何かこう」
「人間模様?」
「そんなかんじかなあ。――娼婦が出てきてね、不感症なんだけど。付き合ってもねえ男が抱いてやるんだよ。客とかそんなんじゃなくて、その女のために」

そこまで言って、含みを存分に持たせる視線を彼に向けた。まっくらな部屋で、俺達はずいぶん長いこと見つめ合っていた。そこに愛や恋やはなんにもなくて、単なる腹の探り合いでしかなかった。やがて彼は指に挟んだ煙草をゆっくりと、俺から視線を逸らさない儘吸って、その後星ひとつないまっくらな空を見上げてやはりゆっくりと煙を吐いた。煙にまぎれて胸のつかえもいっしょに吐き出されていたらどんなにかよかっただろう。

「お前にしちゃセンスのある映画選んだもんだ」

裏腹、彼はナンセンスに嗤った。俺の言わんとするあたりを悟ったようだった。――以来、時々彼は俺に抱かれるためにだけ我が家を訪れる。彼からすればこれは依頼であるらしく、ガキどもが出払った昼間にだけ来ると決めて、最初は俺に金さえ払おうとしたが、俺はもはや下心もなにもない慈善行為でもって彼を抱く気であったから、談判の結果ガキどもへの土産持参プラス事後のシーツの洗濯がお代ということになった。そういうわけで俺の万年床のシーツは不定期にきれいにされるようになって、今日もまた同様洗濯するがため彼は俺を蹴り転がして汚れたシーツを剥がしているわけだが、さっさと風呂入るか服着るかしろよだなんて毒づく彼はお母さんみたいで、ちょっとおたく余韻とかそういうのないわけ、と畳に転がった儘笑ってやる。そんなもんは風呂場で洗い流してきた、なんてかわいげのないことを言う彼は今日もやはり、俺に抱かれている間ぼろぼろと泣き続けていた。腫れた眼は事情を知らない者からすれば艶っぽく見えるかもしれないが、俺には痛々しいだけだ。

俺はこんなに優しいのになあ。恋愛を越えて彼を許容できるのになあ。シーツと俺の寝巻きを纏めて丸める彼を見ながら思う。あんなにも彼を泣かせるどこかの誰かさん、が誰なのかはあえて訊かないけれどそれこそ慈善行為の一環で調べ上げて仕舞った俺には、とある腐れ縁をぶった斬る理由が一個増えた。ああやだ世界って狭い。街中でうっかり出くわさないのが不思議なくらいだ。――ずるい生き方してやがる。

「なあ、」

洗濯物を抱えて部屋を後にしようとするその背を呼び止める。身につけている着流しはあらかじめ持参した替えで汚れのひとつもないけれど、ここに来た時に着ていたものとおなじくまっくろで、振り返った顔の目が腫れていることを除けば、この部屋でふたり没頭した行為が嘘のようだ。哀しさまでは風呂場で洗い流せなかった、今日もこの間もその前もその前も、――次、も。

「お前の頭ン中がどうなってんのかは知らないし訊かないけど」

――これは俺のエゴなのかなあ。

「曇りの日だけは、俺だけを思い出してみない?」

俺のことだけ考えようよ。
それは彼、に、余裕というものを与えるため、――もうその眼を真っ赤に腫らしたくはないがための提案だったのだけれど、ある意味愛の告白に似ていた。勿論そんなつもりはもうないし、彼も解ってはいるだろう、けれど。

彼は俺をしばらく見て(ああ、さいしょの日のあの夜みたいだ)、少しだけ笑った。自嘲とかそういったものではない、くすぐったそうなそれに俺は少し苛立ちを収める。でもそれもつかの間、彼は笑みを絶やさぬ儘眉をちょっとだけ下げた。

「……夜、だった」
「え?」
「夜は必ず思い出せって言った。あいつは」

そう、言い置いて彼は、部屋を出て行った。

夜、ああ成程そういうことね、だからあの時、さいしょの日の夜、空を見上げていたんだ。お人形さんみたいなあの顔はきっと心ここに在らずというやつで、一心不乱にあいつを思い出していたからなんだ。ちくしょう負けた、というよりは、はなから勝負もくそもなかった。苛立ちはかつての庇護欲が生まれた瞬間以上の速度で膨れ上がって、思わず先程額を打った目覚まし時計を鷲掴んで窓目がけて投げつけようとした、でもガラス代もったいないし、おそらくこの儘投げたらガラス代目覚まし時計代まるごと彼が支払ってくれるのだろうけど、まあガラス割ったら下のばばあがうるせえし、と色々考えて結果、――やっぱり投げた。目覚まし時計は窓の桟ぎりぎりに当たって跳ね返り落っこちて、ふたたび俺の額を打ちやがる。痛えなばかやろう、ひとりごちて拾った目覚まし時計は素知らぬ顔してかちかちと己の職務を全うしていた。おいおい頑丈だなさすがメイドインジャパン。

「……。お土産食べよ」

額を押さえながらのろのろ起き上がり、上半身だけ裸の儘冷蔵庫で冷えているはずのケーキの箱を目指す。廊下からは洗濯機の回る音が聴こえた。部屋を出る間際、ちらりと見た窓の外はあいかわらず曇りを決め込んでいたけれど、哀しいかな夜は来る。阻止できない俺は無力だ。




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