妖怪のせいなのね | ナノ




烏天狗は至極不機嫌であった。というのもこのところ烏天狗が住まう周辺に漂う空気がひどく血生臭く、そして焦げ臭いのである。烏天狗を含む物の怪はおおよそにして大気の機微に悩まされる。今のように血生臭く焦げ臭くなかったとしても、人間の吸い吐きした空気ただそれだけが身体に障るものさえいるのだ。この烏天狗はそこまで繊細ではなかったが、どうやら亡ぼし合いをしている人間らが日々濃くしてゆく汚れた匂いに苛立っていた。烏天狗は時として霞を喰らって生きる。たいして重要ではない食事であれど、たまに摂るそれが無味ないし腐ったような味をしていれば滅入るどころではない。とにかく、烏天狗は虫の居所が悪かった。
ゆえに文句のひとつも言いたくなったのだろう、ある夜、烏天狗は久々に山から人が住まうあるいは殺し合う野に下った。人に烏天狗の姿は見えぬ。言いたい文句は伝わりはしない。そこに幸いにして長らく生きている烏天狗は、人間の身体を乗っ取り我がものとする借体形成の術を身に着けていた。誰に何を説教するなど考えぬ儘烏天狗は滑空し、しばらくあってから地に蹲る子供の姿がふと目に留まった。ちょうど好いと拝借することにして少年の身体に入り込み、手脚とするに成功する。あまりに久しい人間の身体はどうやらひどく餓えているようだった。四肢を動かすのが難儀なのは人間の身体の感覚を烏天狗が忘れていただけではなかろう。おそらく、風前の灯火といったところだったのを偶然烏天狗が拾って仕舞った。借体を行ったことで本当に死んで仕舞ったかもわからない。なにゆえここまで子供が餓えねばならぬ、そういう世界に人間がした顛末がこれか。これは文句を言うどころか子供ひとりを生かすか弔うかを考えねばなるまい。やっと馴染んで来た腕を伸ばすと、がさ、音を立てて何かが足許に落ちたのに気づいた。飢餓から逃れるべくそこいらの畑から何かしら盗んで逃げる最中だったか、鼻で笑おうとしたが、地に落としたものを認めるや烏天狗は考えを改めた。

彼岸花であった。赤、時折白の混じる毒々しい花束は、根を失いあとは枯れるばかりという状況にあって、月下にも哀しく色が映えていた。毒々しい、そんな比喩以上にゆうに人を死に至らしめる毒を持つ彼岸花であるが、水にさらせば養分のある食糧に変わりもする。餓えた子供がそうまでして、生にしがみつくのが烏天狗には哀れでならなかった。死んででも生きる、矛盾極まれり表現だが、この素性知れぬ子供の覚悟のほどはなかなかに天晴なものよと烏天狗は哀れみから呆れへと感情を変化させる。

そこからは気まぐれなのか天の配剤というやつなのかはわからぬものの、己を追及しそうになる思考を無視しながら、彼岸花を掻き集められるだけ腕に抱き、この頃ろくに使ってもいなかった妖力で以て翼だけを背中に生やして空へ舞い上がった。この子供に知識があったなら、川や池を探していたはずだ。子供の長い髪を飛翔に厄介と思いながら夜目を凝らす。案の定、離れたところに川があった。岸に降りて屈み、少し匂いを嗅いでから水をひと掬いして飲んでみる。珍しくも清い水だった。この川の源ならば、彼岸花の毒などすぐに消して仕舞うだろう。再び夜空へと上昇し、川の上流を辿る。

しかし仮にもここ周辺に住まう身で、この清浄な水流を知らなかったとは。
あるいは何かが原因となって、急激に浄化されたとでも――。

やがてより清涼を漂わせる匂いを感じた。少し高度を落とすと、木々繁る森の奥の奥、岩垣に細い滝が音もなく垂れている。源はこの上かと翼を羽ばたかせ、一気に滝を登ったところにそれは広がっていた。月もない夜にもかかわらず、きらきらり縮緬皺を七色に光らせる泉、さらにはそれを包み込むように開いている、一面の、彼岸花。

こんなところがあっただろうか。

烏天狗は――怖気づいた。こんな夜、一切の光なき夜にきらめく水面はもとよりも、なにゆえ植物が今、覚醒しているのか。夜は自然が眠るべき時だ。昼間に蓄えた光を温める時間だ。にもかかわらず朱色を満開にしているのは、彼らにとって太陽と比類なき清い力が近くにある、ということになる。さらに、腕にある根を失った彼岸花もまたそこに咲くものと同様、生を取り戻さんとはなびらを伸ばし始めている。何より烏天狗当人が、ここ一帯に集まっている気配に安堵しているのだ。山を下りる理由であった大気の機微への苛立ちが、今やすっかり失せていた。清浄な気が烏天狗の心身もろとも知らぬ間に、実に簡単に癒して仕舞っていたのである。それらすべてを理解し、底知れぬ恐怖を感じる他なかった。決して下位のあやかしではない烏天狗だが、だからこそ自分を圧するものをなかなか知ることがない。

誰か、いる。物の怪など凌駕する何かが。

「……やっと主が来たか」

気配もなかった。声が先、と思いきや、子供の着流しの裾を背後から引っ張られたことで思わず振り返る。烏天狗が登って来た岩垣へ片脚を垂らしてその、もの、は座っていた。顔は衣を頭から被っているゆえ確認することは出来ぬ、だが、烏天狗は今一度、今いっそう、怖気を感じた。かり、しゃり、聴こえるわずかな音、手許にある彼岸花一輪。食べている、察するのは易かった。誰だ、と問うことも出来ずにいる烏天狗に、どうやら男であるらしい声音は面白いと言わんばかりに、そう身構えなさんな、などと言う。

「この一帯の主が何を怯える。俺が闖入者の側だぞ」
「……」
「――。ここは昨日まで干乾びるを待つだけの、余命いくらもない泉だった。ちょいと邪魔させて貰った礼に多少整えてみたんだが。烏天狗様にはお気に召さなかったかね」
「――俺が誰か、知って」
「匂いでわかる」
「お前は」
「その前に、世間話に付き合っちゃくれねえか。お前の身体もそろそろまずい」

男は立ち上がり、地に脚を着けぬ儘すう、と烏天狗の横をすり抜けた。水面の上に浮いた儘ごろりと横臥したことで頭を覆う衣がするりと落ち、泉を漂ったかと思えばやわらかな泡を生み出しながらゆるやかに溶け消えて仕舞った。――いよいよこのもの、只者ではない。

「来い」

男は岸に手を伸べ、数本の彼岸花を手折って烏天狗を手招いた。勿論のこと二の足を踏む烏天狗だが、男は意に介さぬようだった。

「人の身体を借りたんだろう。だが、放っといたら閉じ込められた儘お前も一緒に死んじまうぜ? ここの花は毒を持たない。必要がねえからな」
「必要?」
「何も知らねえ人間風情が、綺麗だ何だと刈り取る所為で毒を持たざるを得なくなっちまったんだ。俺は哀れに思えてならねェ、こんなことをさせた人間風情が」
「……お前、何の味方だ」
「誰の肩持つ気もねえさ。だからどっちも哀れに思うだけだ。――さっさと食え、今のうちに」

訊きたいことは色々とあったが、とりあえず烏天狗は従うことにした。差し出されたはなびらは言い負かされた所為かそれとも本当に毒気を失しているからか、抱えて来たそれより鮮やかに見える。何年生きたか自分でも忘れているが、おそらく彼岸花を喰らうのは初めてだ。逡巡して結局口に運ぶ。旨くはないが、不味くもない。ただ、いい水を吸って花開いたのだろうことは理解出来た。一口進めるごとに、身体の扱いが楽になっていった。
男は男で、烏天狗がここまで持って来たほうの束をさらさらと泉に浸し、一本だけ咥えて残りを花畑へ差し入れた。元気のなかった彼岸花らは見る間に背筋を伸ばし、花畑の一員として同化して仕舞ったようだ。もはや、烏天狗の目にも区別がつかぬ。

「さて、世間話のことだがな」

男は一輪を咥えた儘、上体を起こして胡坐を掻いた。そこで初めて烏天狗の視線と男のそれとが交錯した。――咄嗟に、なぜか嫌な予感がした。今までの恐怖、畏怖とも違う、他に形容出来ぬ、嫌な予感。

「俺は人間だった」
「……は?」
「遠い遠い昔にな。俺は人として生まれて生きた。が、ちょっとばかり悪事に手を染めて死んじまった。まあ本望と言えば本望なんだが」
「……」
「一緒に死んでくれた馬鹿な奴が一人いた。その馬鹿と悪事を働いたわけだが――人間の一番の悪を、さすがに烏天狗とあろう者ならわかるだろ」
「――。自害か」

そうだ、少し喜色のある声で肯く。

「だが天は優しいというか残酷というか、黄泉の仲間入りを断りやがってな。今一度生き直せ、などと抜かしやがる。――俺はもう一度人間をやり直すことになった。一緒に死んだ馬鹿もな」
「次は何をやらかした?」
「察しがいい。死を選ぶことはなかった、俺も奴も。だが今度は人間の世界が、死ねとは言わないが存在を拒んだ。一度目も世界は敵だったが、二度目は秩序があったぶん、狡賢く出来てた世界だったよ。結局、みずからとはならなかったが死んじまった。どうしてこうも、巧く生きられねェのか」

茎を齧りながら、男は烏天狗を見た。またも嫌な予感、が沸き上がる。

「今度こそうまくやれと言うわけだ。以降、俺は死んでねェ。わかるか」

烏天狗は、息を呑んだ。――何年生きた、など、訊くことさえ出来なかった。男は噛んでいた彼岸花を泉へ棄てる。これは沈まずにゆらゆら揺られて漂うた。

「そこで烏天狗殿にお願いをしたくなってな」
「……お前」
「ああ、深追いはしてくれるなよ。余計なこと考えられるとこっちも面倒だ。お前は――生まれながらのさだめに従えばいい」
「待て、お前は」

男はそこで、やっと、苦く笑ってみせた。

「俺は、蛟という」

訊くや否や烏天狗は地面を蹴り、気づけば泉の真ん中、男の首を両の手で包んでいた。あわや力を籠めようかというところで我に返る。あと少しだったが、蛟と名乗った男は笑みを崩さずに言う。

「正気に戻るか。まあ上位の怪なら当然か」
「何で……ここに、俺に」
「それは今、お前が一番わかってるだろう」

蛟は、烏天狗のもっとも好む龍に分類される。
そして好むというのは――捕食対象、としての意味合いだ。

「俺は飽きちまったんだよ。神の領域に逃げなきゃならねえのが。神の領域に飼われ続けてるのが」
「殺されに来た、のか」
「もし死ぬならお前に任せたかっただけだ。何年掛かったかね、お前を見つけるのに――人のいる地は彼岸花以上の毒だ、俺には」
「……」

烏天狗は生まれて初めて、これは断言出来る、己の野生の恐ろしさを知った。今や、食べたくて食べたくて堪らない。餓えているわけでもないのに、そもそも自分に死などなかろうに、この蛟を喰らい尽くして仕舞いたいと思う他に頭が回らない。気が向いたら霞を喰ろうていた日々がなんと無駄だったことか。この蛟に喰らわされた彼岸花も、また。

「存分に喰らえ。なかなかない、龍を喰う機会は、」

言葉を途切れさせたのは烏天狗の牙だった。喉元に咬みついて歯を埋め、さらに力を入れる。血のようなものは吹き出ない。ただひたすらに、馨しかった。辺りを包む彼岸花の匂いが煩わしく思えるほどに、さらにやがて、気にも留まらぬほどに。
首をいくらか抉ってから顔を上げると、蛟は先程水面に棄てた彼岸花を一輪持っていた。さすがに捕食されているとあって痛みを隠せぬ顔があったが、なお蛟は笑んでいる。その花を口に咥えた蛟は烏天狗を見据えた儘に実は、と呟いた。一言紡ぐごとに首に開いた穴から空気がひゅうひゅう出入りし、はなびらがひらひら揺れた。もうそれは烏天狗にとって少しも薫ることはない。

「すまねえな、少し騙した」
「……騙しただと?」
「牛若丸を育てた末裔が、こうも純朴とは。だからこそか」
「何を」
「毒は身体には無害だったろう。だが、魂にはどうだろうな」

意を量りかねてさらに問おうとして、烏天狗は留まった。泉の水嵩が、どう考えても初めて見た時より低い。比べて――周囲の気配が静かながらも怒気が漂っている気がするのはなぜだろう。誰が何に、顔を上げると原因はすぐに理解出来た。膝丈ほどしかなかった花畑が今や林か森かと問うてみたいほど、一斉に伸びて大きく開いた花々が見下ろすように空から垂れている。ほろり、落ちた花粉が烏天狗の肩に落ちた瞬間、烏天狗の頭に激痛が走った。

「俺はこいつらの恩人だ。水を与え、気も洗い流した。その恩人を喰らう一介のあやかしに、何を思うだろうな? 知ってるだろうが、大地の恨みはおっかねえぞ」
「お前」
「ここいらの主とはいえ、環境を整えるのは荷が重いのはわかる。まして人間が要らねえことばかりする時代だ。貴きものは存外無力で、出来ることは哀れむこと程度――だから与えるも奪うも、どんな小さなことであれか弱きものには重要なんだ。俺は与え、お前は奪った。この彼岸花たちから」
「俺の――魂を喰らうつもりか」
「悪いな。俺には俺の都合があるんだよ」

花粉が牡丹雪のように降り始めた。烏天狗は長らく生きた。しかし最期にあって、こうも己を乱されるとは思ってもいなかった。手玉に取られたからこその最期なのかもわからぬが、正気の取り戻し方も忘れた烏天狗がこの子供の身体から出てゆくのは不可能だ。いずれにせよこの儘、彼岸花に殺されてゆく。ならせめて、この子供は生かしてやりたいと思った。目の前に花を咥えた蛟を、はなびらごと喰らう。蛟は何の抗いもしない。己を食べながら死んでゆくのを見ながら、きっと死んでゆく。

これでまたやり直せる。俺もお前も。

声を出す部位がすべてなくなった頃、蛟の声が烏天狗の最後の正気に触れて消えた。



目を覚ますと、そこは地面が円く窪んだ荒野だった。周りには枯れ朽ちた植物と思われる遺骸が寒そうに倒れている。こんなところがあったろうか。起き上がると、起きたか、知らぬ声が掛かる。声の主を探すと、窪みの縁に腰掛けるものを見つける。少し年上と思われる男だ。

「……誰だ」
「しがねえ逆賊だ。ここがどこかわかるか」
「……。どうやってここに来たのかも」
「奇遇だな、俺もだ。多分山ン中なんだろうが、どこをどうしてこうなったかね。こちとら怪我で死にかけてたはずなんだが、脚が勝手に歩いたか」

それは自分も同じだ、子供は思う。食糧欠いて何日か、限界を超えて、生きるか死ぬかの賭けに出たはずだった。それがいつの間にか。

「――それ」
「あ?」

――そう、彼岸花が。
子供はやっと、その男が彼岸花を食べているのに気づく。視線から察して、お前のか、訊き返されるも、今の身体は少しも空腹を感じていない。意識遠のいてのち何があったのだろう、考えれど考えれど答えは出て来なかった。結局その花が自分のものなのかもわからないゆえ、なんでもない、子供はそう応えるのみしか出来なかった。男は何も言わずしばらく子供を眺めたが、花を食べるを再開した。

「さて、これからまず山を下りるか――やっと戦線から逃げおおせられたと思ったが、生きてる以上は戻らなきゃならねえ」
「……戻る」
「お前は? 家はあるか。戻るところは」

訊かれて子供は、自分に帰るところがないのを思い出す。両親が死んだのは遠い昔、代わりの住み処もみずから棄てた。日々さまようていた世界だが、さすがに飽きてはいた。今の今まで、餓えが先んじて飽きる余裕がなかっただけで。

「暇ならついて来い」
「え?」
「今日びの死線には馬鹿が必要だ。一人でも多くな。ちなみに俺はその馬鹿の一員なわけだが」

どうする、訊かれ子供は、それが自分を迎えるならば、そう決断した。連れてけ、答えた子供に男は少し笑う。

「まだ名を訊いてなかったな」
「ああ、俺は――」

彼岸花を裏切った蛟は烏天狗と同様、彼岸花に魂をほとんど喰われて仕舞った。それを、あらかじめ拾って来た過去の自分の身体に寸でで入り込むことでごくわずか、生き永らえた。あやかしの烏天狗よりも遥かに上位にある神の世界に属する蛟にとって、魂の移動などたやすいことだ。――この子供を拾わねば、話は何も始まらぬ。
蛟は自分達の未来を烏天狗に語った。それは蛟の過去でもある。何度繰り返すか予想もつかないあやまちの連鎖は、多分まだ続く。構わないむしろ本望だ。また人間が飽きたらここに戻って来ればいい。それが少なくとも蛟にとっての、幸せなのだから。

子供の手を引き野へ降りてゆく、一歩一歩を数えた蛟だが、十もゆかずに意識は男の意識に上塗りされて仕舞った。





パロに分類しましたが総ポニに着地 ウィキ○ディアのおかげだねそうなのね
彼岸花を素晴らしさをお教えくださったNさまへ捧げます
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -