2237マイル | ナノ




夏休みは短い。という歌があったような気がする。その短い夏休みを謳歌する気は高杉にはもうない。学校が苦ではない場合、休みのほうがかえって暇であったりする。それはもう、路傍に転がる蝉や蚯蚓の死骸のように、焼けつくほどに、暇で、暇で、心休まることがない。
だから、お前は努力型だと思ってたんだがな、そう教師に言われると返す言葉もない。一学期にあえて試験のある日を数時間ほど逃げ、そのツケを夏休みに回って来るよう謀った自分は今になって考えるとどうにも愚かしい。

「あんたが悪いんだよ」

渡されたプリントの空欄をすらすら埋めながらぼそりと呟くと、教師は眉根を寄せてちらりと高杉を見た。それはそうだ、この大人はすべて解っているようでその実何にも汲み取らぬ。こちらの想いを知るや一時の気の迷いか、暑さに頭をやられたか、そう決めつけて仕舞い、以降はあまりに頑なだ。彼の言を借りるならば生徒としては努力家であった高杉は、十近く歳の違う子供が自分の思い違いで色恋に浮かれ、それも自分を巻き込んで堕落して仕舞った、なら軌道を正すのも教師の本分だと――馬鹿真面目にもほどがある。今もなお、私語は慎め、などと抜かす。吹き込んだ温い風が、高杉のシャープペンシルの芯の音と小さな嘆息もろとも拾い上げて廊下へと通り過ぎて仕舞った。

――どっちが大人だ。
――どっちが子供なんだ。

恋は愚者の知恵、賢者の愚行という。どちらにも属さず聖職を全うするなら、生徒だからと気を遣わないで貰いたいものだ。教師の気遣いは高杉にすれば侮りと取れなくもない。立場が対等でないと自覚があるなら、無理だ恋愛感情はない気持ち悪い俺の体面も考えろぐらいは言って欲しい。それをまた言葉を濁して逃げるものだから、期待が燻ぶり続けて澱が心の裡に溜まってゆく。会うだけで、顔を見るだけで、そう大人しくしていられるほど高杉にとって夏休みは長くはない。

「――終わった」
「早いな」
「問題児なりに頑張ったんだよ」

椅子から立ち上がって教卓へプリントを突き出し言うと、教師は何とも複雑な顔をする。まただ。こういう時は、ああ助かったよもう真っ平御免だ、とでも返してくれればよいものを。

「……これから採点しちまうか。帰りたきゃ帰れ」
「また」
「あ?」
「――別に」

含みのあるような言い様が、またも澱を積もらせる。高杉の脳内を知らぬふうに、教師は赤いボールペンを握って採点を始める。自信は勿論ないわけではない。毎日顔を見るために――あわよくば褒められるために、教科書の中身はだいたい頭の中に入れてある。教師はするりするりと右に曲がった円を幾つも描いてゆく。高杉はそのさまをずっと立った儘に見ていた。やがて、満点だ、呆れ返った、少し笑った声が上がる。

「こんなに出来がいいんなら試験日ぶっちぎってんじゃねえよ」
「あの日は気が向かなかった」
「それが先生には厄介なんだが。あんまり困らせんな」
「問題児で悪かったな、先生」
「……だから、あんまり困らせるな」

はあ、久々に聴いた重い溜息は、確か高杉が恋を打ち明けた時以来に思われる。――それだけ自分に対して考えてくれているのか、それが嬉しいような哀しいようなでやはり、想いの滓を蓄積させて仕方がなかった。

ふと、外からぱん、ぱあん、と空気の弾ける音が響く。昼の花火だ。どこかで今夜祭か何かでもあるのだろう、その報せだ。高杉が外に目をやると、教師は夏はあっという間だな、ぽつりとそんなことを言う。

「ゲレンデ現象やら文化祭現象やらは、夏休みで言うと何だろうな」
「……は?」
「大人は大人なりにしんどいんだよ」

言うなり教師は立ち上がる。振り返るやとうにきれいに折り畳まれたプリントが教卓の上に置き去りにされて、気をつけろよ、後ろ手に手を振って教師は教室を出てゆく。――ああ、また、いたずらに振り回してくれやがった。はあああ、先程の教師の比にならぬ大きな大きな溜息を吐きながら四つ折りのプリントを手に取ると、紙一枚にしては少し、ほんの少しの重さを感じた。何だと開くまでもなく、ころりと転がり出て来たものがある。さらにプリントの隅、いつも黒板に走らせている筆跡とまるで同じ文字列が赤色で刻まれていた。

――お前が卒業するまで、誰にも感づかれない約束が出来るなら。

思わず走り出そうとして、留まった。誰にも感づかれてはならぬのだ。代わりにプリントから転がり落ちて来たものを手に柔らかく握り込み、心が震えるのをじっと味わっていた。積もり積もった恋慕の焦げ滓が風もないのに霧散してゆく。

煙草一本。焦がれ焦がれる彼の、いつも漂わせている匂いが今、掌の中。高杉は、そしてあの教師もまた、とうに愚かであることを決めていたのだ、互いとともに。





ワンライお題・スーツ
soot(煤)と解釈しました

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