月は見ていた | ナノ




・大正ぱろ
・十五夜に書いてたのをようやくあっぷ





愚かな行為だったのだろうか、己の手が生み出すものだけを愛しているのは。



花を落とした蓮の茎は器のように広がる葉を、どこかしら重そうに支えている。しらじらと朝を迎えようとしている空の許、風が水面を撫でる度にひやりとした寒気をもたらし続ける。ロー・ボオトは当たり前だがこの一艘しか浮かんでいない。土方は結果的に店からくすねて来た恰好となったウイスキーを瓶から少しだけ啜り、空を見上げる。円い月が重々しく、夜空去りゆく橙と薄青の隅に未だ居座っている。ボオトの中に仰向けて寝そべっている高杉は相当に酔いが回っている筈なのだが、紙煙草を差した煙管を燃しては、機を図って灰を池の中へ振り落としていた。誰かしらに窘められるだろう所業だが、そもそも夜明けの池へ勝手にボオトを出したのだから見つかり次第怒鳴られるだろう――この時間に、人はいない。そして土方はもとより高杉も、人が現れる時間の前には、あの月が空から追い出される頃合いには逃げようと決めている。酒に焼けた上煙草に追い打ちを掛けられたのだろう、いやに掠れた声で高杉が、圧政だ、少し笑った。

「圧政――月がか、」
「夏目漱石が――何だったか、生徒に云ったらしいな。愛は月みてえなモンだと」
「翻訳の授業の話だろう、」
「あの先生は何を考えてんだかな。――否、俺がおかしいのか。」
「……」
「漱石先生とやらは決して、満月を指して愛を訳したわけじゃねェと思うんだがな。俺は弓なりの――今にも砕けちまいそうな、細い月が好い。」

こんな見事に円い月、それもこの時季に浮かぶことは誰もが喜び、愛でては酒を酌み交わすだろう――高杉はそういうことをむしろ好く質であると土方は解っている。ただ、今は虫の居所が悪いのだ。土方もまたその思いを分かち合えるくらいに機嫌を傾けている。今は――重苦しいとしか思えぬ。アイスクリイムのような薄黄に意味深な紋様を刻んだ月は土方らが見上げている間、遅々と遠く町並みの向こう側へ沈んでいる。その時間さえ愛でる人間もいるだろう。しかしてこの一夜を支配した薄黄色の円い光は、太陽に淘汰されてゆく権勢に未練がましくも空にしがみついているようだ。ならば自分達はこの情けない月と同義であるかも解らぬ――今一度ウイスキーを啜る。あまり得手ではない。

「――どうすんだ、店は。」

ふと、高杉が灰を払いながら訊く。土方は乾いた笑いで以て応えた。そもそも訊かずとも高杉も解っている筈だ。だからではないが、お前はどうなんだ、笑った儘に訊き返す。高杉もまた、少し笑った。

「俺は――褒めて貰う為に生きてるんじゃねえ。」
「……ああ。」
「俺達は、淘汰、されるのか、」
「何を弱気なことを。」

フン、鼻で笑った高杉は、お月サン観てると感傷的になっていけねえな、あからさまな皮肉で以て煙管の雁首をボオトの縁に叩きつけた。短くなっていた紙煙草もろとも灰が水面に沈む。
高杉は小説の表紙絵や挿絵を描く仕事をしている。その懇意にしている編集部の面々の溜まり場が土方の勤めるカフェーであった。ピアノ弾きとして雇われた土方と彼等は、ことさら高杉は、麦酒片手に演奏中の土方の座る椅子に勝手に腰掛け、下手糞が、などと満足げに云うのが儘あった。それに怒ることもなくなったくらいには土方も、高杉に気を許している。
しかし今日は、自棄酒を求めにかあるいは僅かな慰めでも求めにかあるいは両方か、機嫌が悪いというよりは絶望を垣間見たような――死霊の権化みたいだろ、先に呑みに来ていた坂田が文士とは思えぬ安い揶揄を、どこかやり切れないふうの笑みとともに呟いた。そして幾らかの後に、今宵の月光さながらの威圧を纏った集団が踏み込んで来たのだ――結果高杉の機嫌は垂直へ近づき、土方は混乱の中に僅かな怒りを見つけることしか出来ぬ儘に店を去ることとなって、それからふたり、花なき蓮に囲まれた池の上で夜明けを迎えようとしている。言葉少なに、それでも店を出て以降ずっと、繋いだ手だけは離していない。

「頃合いが不味かったな。お前は店に来なきゃ好かった。」
「あんな胸糞悪ィことがあって――たとえば場末の焼き鳥屋で気分を変えられるとでも思うか、」
「お前は焼き鳥屋なんて行かねえだろ。火傷で指が痛むとか何とか言ってたじゃねえか。」
「あれは――お前ンとこに通う口実だ。真に受けるなよ、」
「なら、お巡りさんに礼でもしなきゃあな。そうじゃなきゃここに来ることもなければお前の本音を聞けなかった、」

高杉が舌打ちをする。土方は少し笑って、蓋をしたウイスキーの瓶を高杉の胸へ置く。呑む気があるのかないのか、それを手許に引き寄せはしたが顔の横に置いただけだった。
その軽薄な音楽を止めろ、一様に黒い洋装の集団が乗り込んで来たその時、高杉はやはり土方の隣で、しかし死霊の権化と言われた表情で以て、編集部に送った表紙絵挿絵もろとも圧政において没収の目に遭ったことを語っていた。猥行醜態がどうのこうのだと、自嘲していられるうちは土方も鍵盤に指を乗せていられた――高杉が浴びせられたそれに似た、水を差すでは済まないほどの騒動は、歌を勤める少女を震え上がらせ、同様ギターを勤める男に肩を抱かれる恰好でかろうじてステージから降りた。酔いが回っていた坂田は空になったグラスを投げつけたが、それに怒った集団の先頭の男が全員逮捕するなどと喚き散らしてからは――よく、覚えていない。気がつけば高杉に手を取られ、代わりに高杉が携えていた瓶を抱えて、重く圧し掛かろうとしている月の許を走って走って、池に辿り着いた。ボオトから見る世界はあまりに静かだ。あの騒動は微塵の破片も現れはしない。

「夢みてえだ。」
「そうだな、――まさかこんなきっかけで、お前の手に触れられるなんざ。」
「……何を云ってるんだ、」
「聞いてなかったのか。お前に会う口実でどうのこうのっつったろ。」
「何を……莫迦なことを、」
「なら――この手を離したらどうだ。」

やっと機嫌を多少は好くしたふうの声音で、高杉は繋いだ儘の手を持ち上げる。そこでようやく土方は、あの場から逃げおおせた今であっても手を繋いでいる理由は――そもそも逃げる段にしても、手を取られたとはいえ、振り解く契機はあった筈だ。やおら浮かんだ恥じらい、それがまた思春期も前の子供のそれに似ていると自覚するや二の句が継げなくなった。先を読んだか高杉が、俺からは逃げなくていいだろ、手を引き寄せて、あろうことか甲へ唇を触れさせた。何を、狼狽する土方に機嫌の悪さが嘘のように高杉は静かに笑い続ける。合わせてボオトが揺れていた。

「……俺だって、商売道具の筈だった。」

己の指が生み出すもの、それだけを愛して生きて来た。それは高杉も同様だと思っている。かたや鍵盤、かたや絵筆であるが、生業に関わるものであるから始終大事にしていた――だからといって、人に触れるを拒むまでに及ぶ意味などない。にもかかわらずこの手を人へ触れさせなかったのは、人間臭さを出来る限り排斥していたかった、という言い訳めいた理由があった。処女が女になった時の、壊れ消え永遠に失われる幻想に似た何か、あるいは花の落ちたこの蓮の茎が実を熟れさせぬ未来。淡白と清廉の狭間。私情が織り込まれた作品に価値があろうか、所詮自分達は主役を引き立てる為のお飾りに過ぎない――そう思って来たのだったが。

「失ったな。矜持に似せた、誰も気に留めねェ屁理屈を。」
「……そうらしい。」
「お月サンに額づいて、へつらう芸に何の意味があろうなァ、」
「――。わかんねえな、」

人の体温を知って仕舞った。そしてそれを、きっとずっと前から、おそらくは初めて出会った時から――欲してやまなかったのだろう。指先が触れ合うことなど、日常を生きていればふとした時に訪れる。それを互いに意識して尚拒もうとしていたのはつまり、途方もなく欲していた深層心理を裏返した結果でしかなかった――きっと、互いのことしか考えなくなって仕舞うから。

結局ふたりは淘汰されることになって仕舞った。されど気分は浮わつき始めている。

「お月サンが退散したら、お前を口説かせて貰おうかね。」
「……お前、さっきもう俺の手に、」
「要らねえか、そりゃァ残念。」
「……。――煙草、寄越せよ。」

何故かしら湧いた悔しさを無理に心の裡に押し込め、ぞんざいに云った土方に渡されたのは煙管だった。意味ありげに高杉が笑っている。更に悔しさを増した土方は、煙管と一緒に高杉から奪い返したウイスキーの瓶を池に投げ棄てた。高杉の酒に焼けた笑い声が朝近き空へ響く。

――愚かな行為だったのだろう、己の手が生み出すものだけを愛しているのは。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -